白紙の文学書と山月記(お題箱から)
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。
頂いたお題はこちら:
こんにちは。
いつも楽しい考察をありがとうございます!最近、白紙の文学書について気づいた事が…。
白紙の文学書のタイトルは『STRAY DOGS 』っていうのが4期43話より判明したじゃないですか。このタイトルと同じ本がアニメ一期EDに出てきてるのを見つけました!
一期エンディングに映ってた『STRAY DOGS』というタイトルの本には文字が書かれていて、できる限り解読してみたら、
何故こんな運命になったか解らぬと
、先程は言ったが、しかし考えようによれば、○い○○○ことが全然ないでもない。
この文章どこかでみたことあるなって思って、調べてみたら、史実の中島敦の作品「山月記」に
何故こんな運命になったか解からぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。
って一文があったんです!このことから
白紙の文学書
=『STRAY DOGS』というタイトルの本
=山月記
なんじゃないかなって。
ものあしさんがこれについて深く考察していただけたらすごく嬉しいです!
よろしくお願いします!
お題を頂きありがとうございました!
実はこちらのお題には少し思い入れがありましてですね…
このお題、お題箱ではなくnote経由で直接個人メールに届いたものなんです。しかも2度も。
私がお題箱を休止しているせいで、送り先がきっと見つからず、それでもどうしても伝えたいと思ってくださったようで、色んな方法を探してコンタクトを取ってくれたんだなと思うと、なんだか嬉しくて。
そして私のズボラな性格により返信を放置していたら、もう一度メールが届いたんです。諦めずに届けようとしてくれたことがとても嬉しかったお題です。
ではでは。お題を考察していきましょう。
考察のためにいくつかアニメ画面を引用させて頂きます。
■「STRAY DOGS」という題名
まずは4期に登場した白紙の文学書のビジュアルから。
ずいぶんとおどろおどろしいですねえ。
お題主様の言うように表紙には「STRAY DOGS」の文字があります。中身はもちろん白紙です。
ところで皆様はなぜ文豪ストレイドッグスが「DOGS」なのか考えたことはありますか?
個人的にこういう理由かなあと思っているものがありましてですね…
「GOD」の反対って「DOG」じゃないですか。
だから神に反する者たちという意味での「犬」なんではないかなと。
これ、持論でもあり、意外と文豪先生もおっしゃっていることでして。
先日の高知文学館関連でも少し話題になっていた寺田寅彦先生の『神』をご覧くださいませ。(一文しか書いてないのでとにかく全員読みたまえ。)
名前に「寅」が入っている寅彦先生なので、なんかすごい重要そうだし重要そうなこと言ってるし、登場してくれるのかなって超絶楽しみですよね!
ということで、迷い犬の対義語って「不動の神」みたいなのだったりするのかなあと想像しています。
さて。
白紙の文学書は、文スト世界の出来事を書き換える性質を持つものなので、文スト世界を構成する根源の構造体に近いもののはず。
では、白紙の文学書の表紙に書いてあるのがなぜ「STRAY DOGS」なのだろうかと考えると、ストレイドッグスという題名は「文豪」という肩書きを失っている状態なのですよね。
私たちから見たら文ストの登場人物は文豪であり「文豪ストレイドッグス」なんだけれども、作中に登場する彼ら自身からすれば、自分たちは文豪ではないただのストレイドッグスである。
我々から見た「文豪ストレイドッグス」の世界と登場人物たちから見た「ストレイドッグス」の世界というのは多分同じ世界のはずで、だとすると、私たちの世界からみた「文豪ストレイドッグスの原稿用紙」と、登場人物たちから見た「ストレイドッグスの原稿用紙」も実は同じものなんではないかなと。だから「ストレイドッグス」という白紙の本に書き込むという行為は「文豪ストレイドッグスの原稿用紙」を書き換えていくことになる、みたいな。白紙の文学書の題名にはそういう意味が込められているのかなと考えています。
ところで、物語を書くことってその作品世界の神になることですよね。だから白紙の文学書の争奪戦は、創造者という神の座を奪われて地を這う犬となった文豪たちが、再び神の座を手に入れるための戦いという風にも捉えられる気がします。
もちろんこの視点は、読者という超越して俯瞰している立場(演劇でいう観客席)にいるからそういう解釈ができるもので(メタ的なやつですね)、登場人物たちは文豪であることを知らないので、それぞれもっと別の動機によって白紙の本を求めているのだとは思いますが…
以上、どれも自分勝手な持論ですので、信憑性などはあまりご期待なさらずに。
■1期のEDと山月記
白紙の文学書が1期のEDにも登場しているとは…!お気づきになられたお題主様、すごいです~!
これですね。ほんの一瞬だけ、EDに登場してました。白紙の文学書と装飾などもそっくりです。
お題主様の言うように、敦くんが持っているこの本には、最初は『山月記』の文章が書かれていました。こんな感じですね。「何故こんな運命になったか解からぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。」という文章が確かにあります。
しかしEDの途中で本にこんな現象が起こります。
本に書かれた文字が消えていってしまった…。なんと…。
ということで、EDの出来事を整理してみましょう。
①敦が山月記を持っている
②敦の持っている山月記の頁が風に舞う
③敦の影が白虎の形になる
④地面に落ちた本から文字が消える
⑤風に舞う頁が山月記ではなく、白紙の頁になる
こんな感じです。
『山月記』が書かれていた本は、敦くんの影が白虎に変身したことをきっかけにして白紙になり、それ以降、画面の中に舞う本の頁はすべて白紙に変化しています。
『山月記』が消えてしまった。虎への変身をきっかけに。
ということは、虎への変身こそが、文豪たちを文豪ではない存在に変化させ、世界から文豪の存在を消し去ってしまった、ということなのではないでしょうか。
『山月記』は「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」という性情がきっかけで突然虎に変身してしまい、詩人になることが叶わなかったお話でしたよね。「自分の性情に囚われて詩人になり損ねた悲劇」。
1期のEDはそれを表現しているのではないでしょうか。
文スト世界では性情に囚われるということが異能力という形で表れていて、文ストも山月記と同じように登場人物たちが詩人になり損ねた世界、みたいな。だけどその代わりに白紙の本があって、そこに何を綴るかによって、未来が変わっていくということでもあって。
上に掲載したEDの画像を見てもらいたいのですが、『山月記』を持っている敦の手は右手で、白紙の「STRAY DOGS」を持っている手は左手なのですよね。
太宰さんの包帯の話じゃないですけど、右は過去を、左は未来を象徴していると言われている。(縦書きの日本では、右から左に読んでいくので)
そして白紙の本を持っている敦くんの左手はどこかを指し示している。
道標にふさわしく、みんなが行きつくべき先を暗示しているかのようだなあと感じます。
過去の傷を白紙に戻して、新しい物語を自分で紡いでいくのだ、というようなメッセージも感じ取れますね。とても素敵なEDだなと改めて思います。
『山月記』って自分の夢を諦めなきゃいけない悲劇で、しかもその悲劇は突然理由もなく襲い掛かってくる。不条理のせいで苦しみに晒される。それって敦くんの生い立ちにも言えることだと思うのです。
敦くんの生い立ちはコントロール不可能な不条理だけど、どんな人にとっても生い立ちはコントロール不可能なもので、それを引き受けることでしか生きていけない。だけど宿命的な悲劇であってもそれを「過去の物語」にしていくことはできる。虎への変身を「悲劇」から「力」に変えていくことができる。
未来は常に白紙で、不条理を受け止めて過去の物語と決別しながら、新しい物語を自分の手で紡いでいくために敦くんたちは戦っているんじゃないかなと感じています。
そういう想いが込められた『山月記』と「STRAY DOGS」だったのではないでしょうか。
1期のEDは色々な解釈ができると思いますので、もう一度観返しながら堪能してみるのもいいですよね!
とても素敵なお題を頂きありがとうございました!