トレインエッセイ3 合格鉛筆
昭和と平成が交差する、15歳の頃の私の小さな思い出話をお裾分け。
普通高校への憧れ
専門学校でヘリコプターの整備士を目指しているという、二十歳くらいのお姉さん。
毎朝、バスターミナル突破地獄を潜り抜けた駅の登りホームで一緒になる。
「おはよう!寒いねー!今日も一緒に乗ろう」
そう言って、急行を待つ列に、私を自然に並ばせてくれる。
ものすごい勢いで押し出されてくる人の波に負けないよう、私を守りながら、列車に乗り込んでくれる。
点字の教科書でパンパンになった私の通学用リュックを眺めては、
「わーすごい!重たいでしょ?」
と心配してくれたり、
点字で拵えた単語帳を見れば、
「こんなつぶつぶで、英語がわかんの?すっごー!」と、素直に面白がってくれたりもした。
席が空けば、私を座らせてくれた。
新宿に着くまでの数十分、私は英単語帳をひたすら覚え、お姉さんは資格取得のための勉強に勤しんだ。
Mさんだ。
どこに住んでいるかはわからないけれど、ホームに上がると、いつもMさんは先に列に並んでいた。
新宿で乗り換えて、、山手線外回りを一緒に乗って、池袋で別れる。
毎日、毎日、Mさんに会えることが楽しみだった。
会話を重ねるうちに、Mさんは兄が通う高校の少し上のOGだと判った。
国立の盲学校(現特別視覚支援学校)の滑り止めで、都立高校を考えていた私。
盲学校という世界が窮屈に感じていたから、自分の学力にあった自宅から通える高校を志望した。
教科書のこと、通学のこと、たくさん課題はあったけれど、私は、友達が通う普通高校への進学も諦めたくなかった。
将来が狭まってもいい!目が見えている友達と楽しく高校生活をしたいとさえ願った。
けれど、やはり、いわゆる当時の視覚障害者にとって安定した道とされた、鍼灸ではなく、それ以外の何らかの仕事に就きたい、就職をして、自分の力で生きていきたいと漠然と思っていたから、大学への進路が開ける、国立盲学校高等部への受験も捨てられなかった。
もし、高等部への進学が叶わなかったら、都立の盲学校ではなく、一般の普通高校へ行きたい。
母と担任と話し合った結果だった。
全盲の生徒が都立高校を受験すること自体が異例だったし、ましてや滑り止めでの受験となると、ほとんど前例がない。
担任が奔走してくれた。
最初に志望した学校からは、受け入れの前例がないと、受験を断られた。
志望校の校長自らが自宅を訪れた。
オロオロする私をみて、父は声を震わせながら
「ドアなんて開けなくていい!帰ってもらおう!」
ドア越しに
「前例がございませんので、事故でも起きたら・・・」
失礼に話し続ける校長と名乗る男に向かって
「こっちから願い下げです!お帰りください!」
父はキッパリと言い放った。
真っ黒な犬「くろ」がワンワンと吠え続けた。
(噛みついてしまえ!)
心の中でクロに命じた。
兄の友人である男子学生にはありったけの声でワンワン吠えるくせに、私の友達の女の子たちには、誰にでも尻尾を振って懐っこい。男性が嫌いなだけの、気の優しいやつ。
そんなこと、できる犬ではない。
でも、何かを察して、いつも以上に鋭くクロは吠え続けた。
ドア越しに、理不尽なことを並べ立てて、男は帰って行った。
まだ受けてもいないのに、目が見えないってだけで、どうしてこんな屈辱を味合わなくちゃいけないんだろう・・・。
現実を理解なんかしたくなかった。
ただただ、悔しかった。
兄が通っていた高校は受験を認めてくれた。
下から数えた方が早い学力と聞いていたけれど、兄を見る限り、高校生、めっちゃ楽しそうだった。
Mさんは、兄の高校のOGだ。
通うかもしれない高校のOGからいろんな話を聞けるなんて、ワクワクした。
「制服がかわいくないんだよね」
がっかりだが、兄からは聞けない情報だ。
整備士を目指していたMさん
専門学校に行って、しかも、女性なのに整備士だって。
当時の私の感覚では、かっこいい!そう思えた。
「ヘリコプターのパイロットになりたかったんだけど、頭悪いからさ、女だし・・・。整備士にだったらなれるって言うからさ。男ばっかりの学校だけどさ」
話してくれた。
殺人的に混み合った電車内で、座席の前だったり、端っこだったり、手すりがつかめるところだったりを、その時その時で、絶妙に見つけてくれ、私が点字の単語帳を広げられるように助けてくれる。
「お姉ちゃんも新宿までは勉強するからさ。降りる時声かけるよ」
心強かった。
年上の女性と、会話を交わす、こういう時間が、他のクラスメイトより、大人びているようにすら感じて、好きだった。
電車が遅れて混雑を極める時も、Mさんは毅然と私を守りながら乗り換えの道を急いでくれた。
一緒に歩く時、貸してくれる右腕から、レザーのジャケットを着ていることが判る。
Mさんはかっこいいのだ。
限られた時間の中で、点字の存在、英語や数学が苦手なこと、あれこれ話た。
Mさんは、洋楽が好きだと言っていた。
合格鉛筆
高校受験が迫った1月のある寒い日、Mさんが
「この前ね、湯島天神行って来たの。これお守りに買ってきちゃった」と、イタズラっぽく笑って、細ながい袋を手渡してくれた。
30cmくらいはありそうな、長い五角形の鉛筆が入っていた。
「わーい!合格鉛筆!」
触って鉛筆と理解した私をみて、安心したように、嬉しそうにMさんも笑った。
点字を使うこと、点字を書くためには特殊な紙と点を打ち込む道具(点筆)が必要なことも、話していたが、Mさんは私に鉛筆をくれた。
嬉しかった。
目が見えないから、鉛筆使わないだろうから、あげない、じゃなく
「使わないと思うけど、これ私ももらったからさ」
と言って、何の戸惑いもなく、私に鉛筆をくれたこと、心が芯から温まった。
見えないことを隔たりにせず、受験仲間として、私を扱ってくれた年上のかっこいいお姉さん。憧れた。
受験当日、点字を書くための筆記用具と共に、この鉛筆をカバンに忍ばせたことは言うまでもない。
それでも、数学の試験が嫌で、校門脇の公衆電話から母に泣き言を言うために電話をかけたりもした。
「胃がいたい」
半べそな私に母は
「Mさんからの合格鉛筆だって持って行ったでしょ?大丈夫だよ」
母はいつものように茨城訛りで私を励ました。
試験開始までの時間、休憩中、鉛筆に祈った。
小さな奇跡
いつもの時間、いつものホームで、Mさんは待っていた。
そして、いつものように
「おはよう」を交わして、合格を告げた。
Mさんは、自分のことのように喜んでくれた。
合格鉛筆がくれた奇跡だ。
未来は開かれたけれど、Mさんの後輩になれないこと、ちょっと残念だった。
Mさんも、もちろん整備士試験に合格したと聞いた。
一緒に喜びあった。
満員電車に揺られながら。
「あなたが、あんなに必死で勉強してたから、私も頑張れたんだよ。これからもがんばろ!」
Mさんの言葉は優しくて、やっぱりカッコよかった。
春になり、Mさんは就職していった。
それで終わるはずだった。
高 校に進学して半年、私の通学が、もう少し近くなる街へ引っ越しをした。
多摩地区にありがちなマンモス団地の一角。
毎日白杖を使って、母に駅まで見送ってもらっていた私に、声をかける人がいた。
「あのー、めぐみっふぃーさんですか?私、Mの母です」
耳を疑った。
どうして・・・?
にわかには信じ難いことだが、
私たち家族は、Mさんのご実家と同じ団地の、しかも真向かいの号棟に引っ越していたのだ。
私は帰宅すると、いつも母にM3の話をしていた。
Mさんも、私のことをご家族に話していてくれたのだ。
話を聞いたお母様が私たち親子を見かけて、声をかけてくださったようなのだ。
Mさんと私は、新居で再会した。
時間帯は異なってしまったが、通学路と、彼女の通勤経路が途中まで一緒とわかって、、さらにお互いはしゃぎ合った。
これを不思議なご縁と言わずしてなんというだろう。
小学校時代の親友たちと離れてしまったことがさびしくて、新しい街を好きになれずにいた。
Mさんとの再会は、そんな私を勇気づけた。私にとっては、奇跡以外の何者でもなかった。
Mさんは、程なくして、九州にお嫁に行ってしまったけれど、この街に来て良かったと思えた。
その団地も、両親が亡くなり、今はもう、縁のない街になってしまった。
Mさんは元気にしているだろうか。
結局普通高校の受験もせずにおわったけれど、、地域の小学校で学べたことも、盲学校で学べたことも、全て「これでよかったんだ」と、今は素直に思える。
電車に揺られる程に、乗り継ぐ程に、私には、知り合い、友達が増えてゆく。
電車に運ばれ、縁を賜る。
大人になって、鉄道も好きになった。
鉄道とも友達になった。
その後も、私は、いろんな電車に揺られて揺れて、たくさんの人と出会っていくのだけれど・・・。
この続きはまたいつか、別の機会に。
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