トレインエッセイ2 紫陽花の咲く頃に
昭和から平成へ時代が移りゆく頃、ターミナル駅で、15歳の少女の私が賜った、大切な贈り物のお話。
2時間の通学
「すみません!どなたか駅の改札までご一緒してくださる方はいませんか?」
終点のバスターミナルを告げる車内放送が響くと同時に、静まり返ったバスの中で、声をあげること・・・。
バスと電車3本を乗り継いで、片道2時間の通学を実現させるためには、毎日、こうするしかなかった。
盲学校では、歩行訓練を行う科目があり、担当の教員が、夏休み前、帰宅する私に付き添い通学ルートを一緒に考えてくれた。
先生は私の杖歩行の能力は心配していなかったものの、最後まで、2時間の通学は無理だろうと反対した。
それでも、高校受験を控えた14歳の夏、私は決断した。
東京郊外のターミナル駅。
ロータリー上のバス乗り場に、次々とバスが入っては出ていく。
毎日同じ時刻のバスに乗っても、駅へ繋がる階段に近い番線に止まるとは限らない。
U字型のロータリーのどこかに下ろされて、周囲の状況も理解できないまま、駅へ続くデッキに上がるための階段を探さなければならない。
例えば一番バス乗り場に確実に到着することがわかっていれば、その停留場を機転に、階段までの道のりを練習し、覚えることはできる。
しかし、私が通るバスターミナルはそうではなかった。
視覚障害を持つ私に撮っては、このバスターミナルが最大の難関だった。
新宿や池袋の乗り換えよりも、バスが苦痛だった。
それでも、寮を出たかった。
クラスメイトや後輩との時間は楽しかったけれど、いろいろな圧力を感じていた。
私には窮屈なことが重なっていた。何としてでも家に帰りたいと願った。
5時半起床、6時出発、18から19時帰宅、20時から受験勉強、0時就寝。
何かにムキになっていた。
停留場での出会い
毎日、「地獄の声かけたいむ」はあったものの、誰も手を貸してくれなかったことは一度たりともなかった。
運転士さんも
「今日は2番に着いたよ」など、教えてくれる人も少なくなかった。
ある時から同じ停留場から乗り込む女性が、気にかけてくれるようになった。
バス停で会うと
「おはよう」と声をかけてくれる。
母くらいの年齢の女性、nさんだった。
Nさんの「おはよう」が聴ける日は、バスの中のドキドキはないから嬉しかった。
バスの中で、いろんな話をした。学校のこと、点字を使って勉強していること、読書が好きになったこと。部活でバンドをやっていることなどなど。
いつもNさんは、感心したように、楽しそうに、私の話を聞いてくれた
そして、右肘を私に貸しながら一緒に歩き、駅の改札を入って、登りホームへ上がるエスカレーターに私を乗せると
「いってらっしゃーい」と見送ってくれた。
Nさんは下り電車で通勤されていた。
自分で決断したこととは言え、長時間の通学は正直きつかった。
けれどこうして、見知らぬ年上の女性と会話を交わせたり、親や教員以外の大人と接することのできる時間が、面白くてたまらなかった。
何より心強かった。
好きな小説を読むために、点訳ボランティアという方々に依頼し、何ヶ月もかけて、作っていただいて、ようやく読めることなんかも話したように思う。
今でこそ、点字図書も、音訳図書も、インターネットを経由して、ダウンロードする形の図書館が充実してきているけれど、当時は、そうではなかった。
点訳ボランティアさんに、原本をお渡しして、作成してもらう。
そんな事情を話したから七日、Nさんから、たくさん西村京太郎作品を譲っていただいたりもした。
思いがけない贈り物
なんとか受験を潜り抜け、高等部に進学し、通学は続いていた。
新しいクラスの雰囲気に慣れず、一人で過ごすことを選び始めていた頃の6月のある日、
「おはよう!これ鎌倉のお土産だよ!紫陽花綺麗だったよー!」
Nさんが手渡してくれたものは、ペンダントだった。
紫陽花の葉っぱと小さな花の一片を模ったと、触ってわかる、素敵なそれは、思いがけない物だった。
こんなに繊細な贈り物を、大人の女性からいただいた経験はこれが初めてだったように思う。
紫陽花の花は、祖母と暮らした幼い頃に、裏庭の片隅に、植えてあった。
1歳で小児がんを発症した私と、母や兄を助けるため、祖母は定年まで茨城の会社で正社員として勤め上げた後、上京してくれた。
5・6年ともに暮らした。
祖母は、特に草花が好きな人で、季節ごとに私の手にさまざまな花や
葉っぱ、時にこんちゅうまでも触れさせようとした。
色は見えなくても、花びらの形がわかるもの、薄すぎて確認できないもの、香りの良いもの、大きな花、小さい花、うっかり葉に手を伸ばすと苦手な昆虫に触れてしまうこと、いろんなことを知った。
花は嫌いでなかった。
けれど、紫陽花は、どこからどこまでが花なのか、理解することが難しかった。ユリやチューリップのように触れて分かりやすい花ではなかったから、イメージがしにくい花だと思っていた。
葉っぱに触れれば、カタツムリがニョロっと体を伸ばして移動中だったりするから私には危険が伴う。
「そんな紫陽花が、ペンダントになって、私の元へやってきた。
大きく見える紫陽花の花は、小さな花の集合体。一つひとつは、とても儚い。
こんなにも繊細なモチーフになって、遠慮がちなそれでいて上品なアクセサリーになることを初めて知った。
たった15歳の私、小学校時代の友人たちと、時々街へ出て、安いアクセサリーを買ったことはあったけれど・・・。
初めて、紫陽花は可愛らしい花と認識させてくれたペンダント。
なんだかこそばゆかった。
大人に近づいたような心持ちがした。
もちろん、母にはそのことを報告し、後日、通学前に母とバス停で、Nさんを待って、心からお礼を申し上げた。
紫陽花の咲く頃に
程なくして、私は10年近く暮らしたこの街を離れることになった。
もう少し通学しやすい街、駅から徒歩圏内の物件が見つかって、転居することになった。
引っ越した後も、数年間、Nさんとは年賀状での交流が続いた。
福祉を学ぶために、大学へ進学したことくらいまではご報告できていたであろうか。
就職をご報告できたか、定かでない。
Nさんがほぼフルタイムで、どんなお仕事に携わっておられたのか、当時聞いたのかもしれないが、残念ながら詳細は忘れてしまった。
母ほどの年齢の女性が、こうしてフルタイムで働いている現実、なんだか少女の私にはかっこうよく映った。
自分もいつかこうして働くんだって、憧れににた感情を抱いていた。
だからこそ、それほど時を経ず、ご家族から、Nさんはご病気で亡くなられた旨の葉書をいただいた時は、大いに戸惑った。
信じたくなかった。
悲しかった。
今でも、紫陽花が咲く頃になると、毎年、「私の宝物入れ」からこのペンダントを取り出してみる。
出会ったばかりの頃、中学生の私を前に
「落ち着いてるね。高校生かと思ったよ」と声をかけてくださったこと、
Nさんと笑いながら歩いた駅改札まで続くデッキ、
Nさんに会えた朝の言いようのない安心感、
そして、あまりに早く旅立たれたこと、
ご連絡をくださったご家族のこと、
いろんな想いが、胸を過ぎる。
どうして、こんなにかわいらしいペンダントを私にくださったのか。
毎日、毎日助けていただいたのは私の方だったのに。
48歳になった私は、若い人に何かを返せているだろうか。
自分としては、これからだと思っていた矢先、厄介な病気を賜った。
Nさんを始め、たくさんの方が私に費やしてくださった時間と心を、他の誰かに返したい。
返したいのだ。
そんな綺麗事じゃないのかもしれない。
まだ誰かへの恩返し、終わってないから、これから返して行きますから、お願いだから呼ばないでってのが本音だろう。
本当に私が賜ったご縁は、身に余る程。
だから、まだあっちへなど行けない。
ちゃんとお返しできるまで、Nさん、あちらで見守っていてくださいね。
私は、もう少しこちらで、ジタバタ生きていたいから。
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