この街に少しずつ慣れてきた頃に。
あなたは「この瞬間に突然、気を失ってそのまま死んでもいい」と思えるくらい多幸感に満ち溢れたことがありますか?
僕は、そんな瞬間を割と人より感じやすいのかも知れない。
遠い記憶を遡れば、小学5年生の林間学校で消灯時間をとっくに過ぎた夜中2時まで友達と恋バナをして盛り上がった瞬間や、小学6年生の時に少年野球の試合で強打のチーム相手に完全試合を達成した時に相手チームの4番の子に対して投げたアウトローのストレートだったり、割と古い記憶のはずなのに今でも、ふとした瞬間に鮮明に思い出すことがある。
たぶん、僕の人生はうまくいってる。
それなりに裕福な家庭に生まれ育って、小中高大と不自由なく学校に行かせてもらったし、友達も多い方だと思うし、勉強も運動も周りより出来たし、人間関係も周りより上手く出来たし、お金を稼ぐことにしても周りより出来た。
明日、死ぬかも知れない。
もう、これ以上は生きるのが辛い。
自分の記憶の中では、そんなことを思ったことがない。
たぶん、それは恵まれてるからだ。
でも、もしどこかの誰かが、僕の人生を0歳から25歳までインストールして観てみたら、違った感想を受けるかも知れない。
もしかしたら、僕が異常にポジティブ思考で勘違い野郎だから、幸せを感じて生きているだけなのかも知れない。
だから、僕の言うことは信用しないでほしい。
あくまで、僕の視点での言葉だから。
それでも、僕は言う。
「今日も幸せだ。」
今、僕はカンボジアのプノンペンという首都でシェアハウスを作っていて、8月からこっちに来てるんですが、「この瞬間に突然、気を失ってそのまま死んでもいい」と思う瞬間が何度かありました。
まさに、さっき、その瞬間があったんですが、近所の子どもたちが僕にメッセージカードをくれたんですね。
そこにはこんなメッセージが書いてました。
「we like you and your friends also we love japan」
これを渡してくれた子どもたちの笑顔をみたら、もう「この瞬間に突然、気を失ってそのまま死んでもいい」と思えるぐらい多幸感を感じたんですね。
でも、そんな多幸感を感じると同時に、いつも湧き上がる感情があります。
それは「この幸せにも、すぐに慣れてしまうんだろうな」という感情です。
僕は無意識のうちに、その場の環境を「最高の環境だ」と認識するクセがあります。
だから、僕は僕の人生を最高だと感じれているのですが、そのクセをコントロールしないと、本当はもっと良い環境があるのに、その場に留まってしまうんですね。
そのクセを意識的にコントロールしようとした結果、今度は「飽き性」というクセがついていました。
飽き性というより「慣れ恐怖症」と呼んだ方が近いかも知れません。
「慣れ恐怖症」の僕は、どんなに今が最高で幸せだったとしても、それに慣れてきたら、次に行きたくなるんです。
だから、僕は場所に囚われず、自分のペースで出来るブロガーをベースに生きてるわけで。
まだプノンペンにきて1ヶ月も経ってないし、むしろシェアハウスもまだ完成してないし、クメール語も全然話せないのに、めちゃくちゃ幸せを感じながらカンボジアで生活してる。
それなのに、すでに少しずつ慣れてきてる自分がいる。
この幸せな瞬間は長く続くかも知れない。
でも、長く続くものには否が応でも慣れてしまうから、次に行かないと。
この街に少しずつ慣れてきた頃に、僕はまた新しい街に行く。
「読んだよ〜」のスキを押してもらえたら、次も頑張ってnote書くのでお願いします!
p.s
今日はいつもと少し違う感じで書いてみました。
文体とかって統一した方が良さげですが、すみません「慣れ恐怖症」なもので。。。
前回のnote「"正しいと思うこと"を考え抜いて、その真逆をやれ。」にスキを押してくださった皆さんありがとうございました。(名もさん、サポートまでしてくれてありがとうございます。。)