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どうして、こどもを産んだの

先日、ツイッターで「にゃんぱく宣言の歌詞が、いちいち子育てにささる」と書いた。


俺の体、俺より管理しろ
家の外に、出してはいけない
飼えない数を、飼ってはいけない

忘れてくれるな
俺の頼れる飼い主は
生涯、お前ただ一人

にゃんぱく宣言は、ペットの飼い方についての啓蒙なのだが、まず最初のシーン「俺の体、俺より管理しろ」が、嫌がる猫の爪きりから始まる。

これがもう、こどもの爪切りと重なる。こどもは爪きりをとにかく嫌がる。個人差あると思うが、うちの場合は2歳くらいまでは暴れた。3歳でも、説得してやっとだ。乳児のうちは、寝ている間にそうっとやる人も多いと思うが、私は、やっと寝た子を爪きりで起こしてしまうのが嫌だったので、なんとかテレビで釣ったりして、起きたままの方法を模索した。

体調管理に関して言えば、風邪だ、吐いた、謎の湿疹だ、と、こどもを病院に連れて行く大変さも思い出される。

次に「家の外には出してはいけない」とくる。当然、小さなこどもを1人で外には出せない。公園遊びにつきあうのは、私が一番苦手とすることだ。だって、とにかく退屈なのだ。お砂場で延々、こどもの作った謎料理を食べる遊びを楽しめる大人が、果たして居るだろうか。(…居るんだろうな。いろいろ工夫して、自分なりの楽しみに変えられる人が)。

そして、「飼えない数を飼ってはいけない」と締める。3人のこどもが散らかした部屋で、無表情でこのCMを眺めているとき、私は「よく考えもせずに3人も産んですいません」意外の言葉が見つからない。

いったい、どうして私に3人もこどもが育てられると思ったのだろう。

最近、こどもが2人というママさんに聞かれた。「しじみさんは、そんなに子育てが大変そうなのに、どうして3人も産んだの?私は2人で限界と思ったけど、そういうことは考えなかったの?」

考えなかった。

自分にもきょうだいがいたから、なんとなく、きょうだいが居た方がいいのかな、と思い、3人くらいは周りでよくある人数だったので、人数はそのくらいなのかな、とか、とにかく、ふわーっとした感じで産んでしまったのだ。しかも、私はポンポンと妊娠するタイプではなかったので、それなりに苦労して、いわゆる「妊活」もしなければいけなかったのに。

我ながら考えが足りないと思う。そもそも、周りに3人の子育てをしている人をよく見かけるからと言うが、どうして自分に、人並みの子育て能力があると思ったのか?私は普通免許の学科も一度落ちたくらいなのに。どうして自分に、平均的な能力があると思ったのだろう?

最近読んだ本に「こどもを産みたいという病」という言葉があって、適齢期に理由もなくこどもが産みたくなる状態を差していたのだが、私はそれに近かったのではないかと思う。

だって、冷静に考えたら、こどもなんて怖くて産めない。将来どうなるかもわからないのに、全責任を背負って、1人の人間を世に送り出すのだ。

さらに怖ろしいことに。
私の大好きなおばあちゃんが亡くなったときのことだ。高速道路を車で急ぎ向かう道中、泣きながら「もう、おばあちゃんがこの世にいない…もうおばあちゃんの何も残っていない…。いや…。私…?私が4人目を産めば…?」と頭によぎったのだ。

おばあちゃんはもう亡くなったけれど、私がこどもを産み続ければ、おばあちゃんが増殖していくような気がした。単純に遺伝子の話としては、間違いではないかもしれないが、少々狂気を感じる。

だから、「うちは一人っ子」と決めているご夫婦の話など聞くと、私はものすごく尊敬する。なんて冷静なのだろう!一人っ子はかわいそう、少子化がどうの、なんて言う外野がいるらしいが、そんな声に惑わされず、きちんと自分とこどもの人生を考えている。

ただ、自分が冷静でなかったことを感謝する側面もある。家はぐちゃぐちゃだが、かわいいこどもがチョロチョロしているということだ。息も絶え絶えに子育てしているので、習い事がどうとか、情操教育がどうとか、なんにもフォローできていないが、私は、私のうっかりのおかげで、この人たちと出会えたと思うと、それはそれで、ありがたいことだと思う。

適当に育てられるこども側にとっては、どうだかはわからない。彼らが大人になって、苦情を言い出したら、もう謝るしかないな、とよく思う。やるだけやって、それで不足があれば、あとは頭を下げるしかない。「すみません、おかあさんは、実は普通免許の学科も一度落ちまして」というところから始めるのだろうか。

そんなこんなで、自分のこどもはかわいいが、家は全然うまくまわっていない。欠陥だらけ、ハプニングだらけだ。「どうして3人も産んだの?」の質問には答えられなかった。こどもが幸せかどうかもわからない。

「でも、まあ、みんなそんなもんだから」。「それも運命と思って」。いろいろなぐさめの言葉もあるだろうが、考えが足りなかったことについては真摯に反省したい。

反省した上で、この先も「産んでよかった」と言える自分でいたい。もちろん、今でも後悔はしていないが、「産んだらかわい~!」だけでいいのかと、今更ながら、考え始めた。

こどもが成人して、独り立ちすると、親として肩の荷が降りると聞く。しかし、うちには独り立ちが難しそうな障害児もいる。いったいどこがゴールなんだろう。

そうして、考えをこねくり回しているうちに、私は、「どうして3人も産んだの」という問いの方が間違っているような気がしてきた。

産まれた本人は、なぜ産まれてきたかを知らない。では、親は産んだ理由を知っているのか。こどもに教えられるのか。もし言えたとして、果たしてそれは真実なのか。

わからない、で、いいんじゃないか。

3人産んだのは、2人産んで、まだ余力があったからだ。3人産んだ後に、こどもの障害が判明するとは思わず、結果的にキャパオーバーになっているけれど、もしそれでも余力があったら、4人めも本当に産んでいるかもしれない。

たぶん、私は産み続ける生き物なのだ。現実的には、子育てにはお金と時間と体力が必要という制約があって、限界値が低くなっているだけで。

こどもを産まない選択も、何人産むかも、それぞれの結論は尊重されていい。私の3人という数字は何の根拠もないけれど、それが良かったか悪かったかなんて話は、産まれて、すでに1人のヒトとして人生を歩んでいるこどもにも失礼だと思えてくる。

こどもに親としてどう評価されるか、世間に親としてどう評価されるか、そういうことを気にしているから、「私みたいな者が、3人も産んで良かったのだろうか」と考えはじめてしまったのだと思う。そんなものに答えはなかった。

「産んだらかわい~!」と言って、産んだ意味も考えずに、ただ子育てをしよう。親として足りない自分を責めても、誰も喜ばない。将来をあれこれ悲観せずに、毎日の楽しみだけを見て生きよう。

考えるな、感じろ、だ。

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