見出し画像

お菓子もらって嬉しかったです。

先日、ニンタと夫が外出する前に、玄関前で遊んでいると、ご近所さんが話しかけてきた。私の母親くらいのその女性は、いつもニコニコと、うちのこどもたちを「かわいいわねえ」「大きくなったわねえ」と愛でてくれている人だ。

ニンタが夫と出かけた後、そのご近所さんは家に訪ねてきた。ジュースとお菓子を持って。

「これ、お中元でたくさんもらって、余っちゃったんだけど、お子さん食べるかしら?」
「ありがとうございます!ニンタは病気があって食べられないんですけど、上の子と下の子が食べます。助かります」
「やっぱり、ニンタちゃんはダメなのね。いろいろ食べられないものがあるって聞いてはいたんだけど。かえって可哀想かしら」
「いや、もう上の子と下の子は、いつも普通のおやつを食べているので。大丈夫ですよ」
「ニンタちゃん、えらいわねえ」
「そうですよねえ、えらいですよねえ」
「私の知り合いでもね、小さいときにはいろいろ心配があったんだけど、今は30過ぎてもう立派にやっているのよ、おかあさんも大変だと思うけど、心配しないでね、きっといい方向へ行くわよ」
「そうですね、ゆっくりだけど、ちゃんと成長してますしね」
「そうそう、もう小学生なのねえ。本当に立派になって」

玄関先で、短い立ち話をして、ご近所さんは帰って行った。

「大病をしたけれど奇跡的に回復した」とか、「障害を持って産まれたけど就職して結婚して問題なく暮らしている」とか、そういうサクセスストーリーを、励ましのつもりで言ってしまうことは、時に当事者を傷つけてしまうことがある。

病気や障害の詳細や現実は、当事者が嫌という程知っているし、知識量で敵うはずがない。その上で、自分の聞きかじった知識だけで「大丈夫よ」と安易に言ってしまうことは、当事者に「その人は大丈夫だったかもしれないが、うちは大丈夫じゃない」という答えを心の中で叫ばせてしまうことがあるからだと思う。

つまり、そのご近所さんがしたような「サクセスストーリー」は、NGワードと思っておいた方が無難、ということになる。

しかし、私はそのご近所さんの話に、傷つくことはなかった。もらったジュースとお菓子が嬉しかった。

もちろん、その人の話を聞いて、ニンタがこの先1人で生きていけるようになるんだな、という希望を持ったわけでもない。よそはよそ、うちはうち、と思っただけだ。

もし、「この薬を飲めば治るから」とか「こういう健康法があるのよ」とか言われたら、さすがに面倒だな、と思うけれど、そうではなく、ニンタの将来に良いことがありますように、と思ってくれた、ただの祈りの言葉だと受け止めた。

そして、ニンタの食事に制限があることは、小さな子にお菓子をついあげたくなる近所の人に知ってもらっておきたいことであるし、と言って、わざわざこちらから宣伝してまわることもできないので、こういうやりとりの中で知ってもらえることが嬉しかった。

そして、さらに言えば、こういうご近所付き合いがあるおかげで、ニンタは得体の知れない障害と病気を持った変な子、という目で見られていないことを体感する。

家庭菜園でできたナスやキュウリを「これ食えるか?いい?あげていい?」と雑に聞いてくれるおじちゃん。(ナスとキュウリは食えます。低糖質です)。「お茶ならいいのよね?」と言って、素敵なティーセットでニンタをもてなしてくれるおばちゃん。ご近所さんは、ニンタが産まれたときからずっとその成長を知っているので、私とニンタが長いこと入院して不在にしていたことも、うちに障害児預かりの送迎車がよく来るようになったことも、みんな知っている。

もちろん、影でコソコソと何か言う人もいるのかもしれない。でも、私には見えないし、何人か悪意のある人がいたとしても、私にとっては、親切にしてくれる目の前の人とつながれることの方が大切だ。

遠巻きに心配されるよりも、ぐっと近づいてきてくれる方が、私にとっては、快適なことだ。そして、ニンタが何ができて何ができないのかを知ってくれたら、もっと嬉しい。

ただ、これは「人による」「そのときの精神状態による」ことなので、あまり関わって欲しくない、という人もいると思うし、滅茶苦茶に落ち込んでいるときに他人のサクセスストーリーを話されたら、私も「うちとは関係ない話っすけどねー!」とやさぐれたかもしれない。

といって、「障害者に関わるのは、傷つけてしまいそうで、怖いし面倒」と思われるのはつらい。

NGワードを怖れて、まるで障害がなかったことのように、目の前にいるニンタが見えないように接される方がつらい。

だから、これはもう、障害の話と関係なく、人と人のコミュニケーションの話だと思ってもらいたい。この人は話好きなのか人見知りなのか、この話に関心があるのかないのか、たいていの人は、いつも相手の反応を見て話をしていると思う。

同じことをしてもらえれば、いいんじゃないだろうか。

私も、自分のこどもの障害がわかって、いろんな障害のあるお友達ができるまでは、近付くことすら怖かった。無遠慮なことをしてしまうのではないかと思っていた。安易な慰めの言葉を言ったこともあると思う。

これは私の個人的な見解なのだが、障害者に全く理解もないし、差別的な発言をガンガンする人が一定数いる。そういう、ものすごい悪意があることを知っているので、好意がある上でのちょっとした無知や失言などは、とるに足らないことだと思う。

もし、周りに障害や病気のある人がいて、付き合い方に迷っているのだとしだら、恐れず「何も知らないんだけど」という前提で近づいていってほしいと思っている。もし、相手に避けられるようだったら、それは、そーっと退散するしかないが、それは障害のあるなしの問題ではなく、やはり、通常のコミュニケーションの問題だと思う。

はっきり言って、気持ちのまっすぐな人ほど、障害者とつきあうのはしんどいと思う。自分の差別心を急に自覚させられることもあるし、いつも「相手を哀れと思っていないか、自分の方が上だと思っていないか」と問うたり、逆に「障害者だからと神格化してないか」と問うたりして、気持ちが忙しくなってしまうかもしれない。

身も蓋もないが、それはもう、慣れるしかないと思っている。私もまだ慣れていない。だから、近づいて行って、かえってご迷惑になったり、いろいろ教えてもらえて嬉しかったり、成功と失敗の繰り返しだ。

でも、慣れて仲良くなってしまえば、その人は「障害者」であるまえに、タダの人、になる。○○ちゃん、という名前を持っていて、あのテレビが好きで、これをやると嫌がる、得意なことはコレで苦手はコレ。ただそれだけの話になる。

何度も言うが、それがコミュニケーションだ。

障害者との付き合いも、トライ&エラーでいいと思う。地雷みたいに思われて暮らすよりも、多少のエラーがあっても、人付き合いがあった方が、私は嬉しい。

そんなことを考えながら、お茶を淹れて、私もお菓子をいただいた。お菓子はおいしかったし、こどもも喜んだ。ニンタにお菓子をもらったことは伝えていないが、ニンタを見守っている人の多さに、いつか気付いてくれたらいいな、と思う。

サポートいただけると励みになります。いただいたサポートは、私が抱えている問題を突破するために使います!