【ケアラー’s コラム】“働き盛りのケアラー”研究レポート:必要なのは周りの「理解者」
※この記事は「ケアラータイムズ 第5号」(2023年4月号)からの転載です。
◆コラム執筆者・鈴木洋介さん(作業療法士)
「働き世代にある人々が親の介護者になる移行」。私がこの研究に取り組んだのは、ケアラーとしての実体験がきっかけでした。
葛藤や後悔に苛まれた30代
ケアの始まりは32歳の頃、母が入院した時でした。父はパーキンソン病(※1)ですでに体が動きづらい状況でしたが、青果業を続けていました。私は母のサポートはもちろん、母の代わりに父の弁当や夕飯を作っていました。その後、母は半年で亡くなったのですが、葬儀の準備や父の引越し等…目まぐるしい忙しさの中で、私は母が居なくなった寂しさを紛らわしていました。
その頃の私は転職も重なり、仕事後の父の食事作りや通院の同行も続けていたため、時間的、精神的に精一杯でした。非常事態であっても私たち親子は団結できず、私が夕飯を作って待っていても、父はパチンコに行って1か月分の給料を使い果たしてきました。私は耐えきれず怒鳴り散らして帰宅すると、後悔と自己嫌悪で眠れません。後日、気持ちを立て直して父の家へ向かうものの、仕事後、疲労困憊で作ったおかずに「飽きた」と言われると、結局また暴言を吐いて飛び出し、自己嫌悪…ということを繰り返しました。父の病状は悪化する一方でした。
私は作業療法士ですが、父のケアに携わり始めてからは、勉強会や飲み会に行く機会がぐっと減りました。たまに参加しても、デートや将来の夢といった同年代の話題はあまりに遠く、自分だけが違う存在になったような気持ちになりました。仲間に複雑な感情や葛藤を共感してもらうことは難しく、キャリアや家庭を築いていく30代の“主流”から外れる焦り、孤独感、海外留学の夢を諦めなくてはならないかもしれないという絶望感を抱いていました。
在宅介護が4年を過ぎ、心身ともに限界を感じて、私が36歳の時に父は施設に入所しました。施設の職員さんのお心遣いもあり、5か月のオランダ留学が叶いました。しかし、コロナ禍で面会の許されない時期に、父は母のもとへ―。「施設に閉じ込めてしまったのでは」「父の介護より自分の夢を優先して良かったのか」という罪悪感に苛まれ、父の顔を思い浮かべては涙が溢れます。
ケアラー研究から分かったこと
このような実体験の中で、より深く、多様なケアラーの経験を知り、社会から疎外された「見えない存在」にならないよう、問題提起することが必要だと感じるように。私は、父の施設入所を決めた頃、「働き世代にある人々が親の介護者になる移行(※2)」をテーマに研究しようと、修士課程に入学しました。研究では、20代後半から50代までの方のケア経験を分析。その結果として、いくつかのことが分かってきました。
例えば、介護者は親と自分の人生を振り返りながら、「子ども/ケアラーとして」のみならず、「母/職業人として」等、担っている役割の意味を見出そうとしていたことが分かりました。また、「女性/未婚者/長男だから」等の価値観の押しつけや決めつけ、同世代からの無理解等、コミュニティの態度に打ちのめされていることが分かりました。一方、職場の同僚や上司の理解、似た経験をしている同世代との交流等、周りの「理解者」に救われる経験をしていることも分かりました。
親のケアラーへの移行というと、始まりから変化があって、親が亡くなりケアが終わるという、一方向のイメージがあるかもしれませんが、実際はもっと複雑です。時間をかけてケアラーとしてのアイデンティティを構築しても、家族の死など予期せぬ出来事に遭遇し、新たな意味づけが必要となって振り出しに戻ることも。介護と向き合いながら自分らしく生きる方法を一旦見出しても、状況が変われば行ったり来たり、複雑なプロセスをたどるのです。
研究結果から言えることは、社会を構成する人々はケアラーを考慮し、決めつけや無理解といった態度に注意を払うこと、ケアラーが経験している複雑さに共に向き合える「理解者」になることが必要だということです。私自身、今回リレーしてもらった冠野真弓さんが「うんうん」と話を聞いてくれたことが、どんなに心強かったか。まずは私自身も、周りにいるケアラーの「理解者」になれるよう、これから実践していきたいと思います。
※1 脳の異常のために、筋肉のこわばりやふるえなど、体の動きに障害が現れる病気
※2 「移行」とは、変化する状況や役割、アイデンティティ(自分らしさ)の構築のこと
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