遺品整理をおわる(2)公共にするとは
ヨーロッパの古い街を歩くと、石でできた数百年前の建物を平気で使っている様子をみます。外側は古いままで、中は新しく、使い心地はよさそうです。古いままで良いものは古いままにする。ずっと使えるものを何代にも亘って作っていく文化があるようです。
日本の様子をみると、「公共性」に対する考え方が違うようです。土地の所有がしばしば問題となります。相続すると土地は分割される。小さく分割された土地はあるとき誰かやどこかの企業がまとめて買って、大きな建物をつくる。分割するときに、あるいはまとめて大きな建物をつくるときに、邪魔な建物はすべて壊してしまう。
それは建物だけの話でもなさそうです。
そしてアメリカでもそれはあるように感じます。公共性に対する考え方が違う。
坂口恭平さんの「生きのびるための事務」を読みました。公共と事務はつながるように思います。自己の楽しみや成功と社会を結びつけるものが事務だとすると、よりわかりやすい三次元として現れるものは、多くの人が目にしたり、利用したりする建物です。「事務を整える」ことと、私的な土地や建物を公共に、公共のものをみんなでうまく使っていくことは似ているように思います。彼は自分の電話番号を公共にしていますが、そこがとても新しい。
お墓のあるお寺と住まいが離れていたり、夏は仕事でヨーロッパにいったりしたことから、初盆を行えませんでした。そのかわり、イタリアの古い教会を巡って、自己流の「供養のお祈り」をしてきました。
ある修道院では、聖堂の一角で若者に向けたなにかの研修をやっていました。大型バスで何百人もの高校生くらいの若者があつまっています。修道院の人のような人が前でしゃべっていました。当然イタリア語はわかりませんが、「アモーレ!アモーレ!アモーレ!」と連呼していました。それはまさに「やってきた」ものでした。喋っている言葉はわかりませんが、「アモーレ=愛」という言葉をきっかけに、祈るとはどういうことかが、やってきた良いうに感じました。
「考える」だけではうまく回らないところに「愛」があるとちゃんと進む感覚。それは、2歳の下の子をみていても感じます。彼女には「好き」が先にある。「考える」先は「好き」なものであるということ。
それは、聖職者にとって、不可欠な感覚であるでしょう。決してその対象は人だけではない。さまざまな宗教の教典には、世界への愛について記述されているのではないか。聖職者のしごとは「生死に関する気持ち=愛」をうまく公共にのせる場をつくることなのではないか。
それが、ほとんどの教典を読んだことないわたしが一周忌でただお経を読んでいるだけの(ように感じられる)お坊さんをみて、感じたものでした。