テーブル上のケーキ、夢見る地球
目の前にショートケーキがある。
これは甘い匂いがするし、触れば生クリームが手のなかで溶けてやさしく嫌な感触を残すだろう。食せば味蕾がスポンジのやわらかさや苺の甘酸っぱさを感じる。 私がショートケーキを掴むのを他者が見ていればそれは現実だと言えるっぽいけれど、ふたりがただ同じ幻覚を見ている可能性は否定できない。
私たちは、決して世界5分前仮説を否定できない。時間や知覚はひとが生むものだから。最初から世界なんて存在していなくて、地球の脳みそが"地球で生きる人間たち"という長い夢を見ているのかもれない。そういうことを最近ずっと考えている。
人間が怪物になるのを目にするようになった。友人の知り合いやもう往来のない幼馴染、私の生活圏からはすこし遠い人たちが怪物になっていく。人間が怪物になる過程には必然的に深い思考があって、最後は攻撃的になり自殺したり発狂したりどこかしらがおかしくなって色んな形で社会的動物としての終末に至る。
目の前のショートケーキは本当に実在しているのか?みたいな深くて浅いところまで常態の思考が落ちてしまうと、人間は駄目になってしまうと思う。何事においても深く考えてしまうのは危ない。 とはいえ私はこんな思考回路の人間で、これなくして私は私ではなく、じゃあこの思考回路と心中できるかと問われればそれはできない。
季節の花や文学や語らいに生きる意味を見出していた時は死から遠いところにいたんだと最近分かった。
幻覚が迫ってきている。現実と夢の区別がつかなくなっている。
わたしは本当に実在しているのだろうか。少なくとも書いた文字は残るから、何かを書けば私の存在証明になるのではないかと駄文を連ねるが、こうなると「無人の森で倒れた木の音はこの世に存在していると言えるのか」という問いに行き着く。どこに視点を置くのかで答えが分岐すると思う。木が倒れる音は存在する、と答える人は俯瞰で客観的な視点から答えるだろうし存在しない、と答える人は主観的でマクロな視点から答えるだろう。
ひとは一人称視点の隣でしか生きられない生き物だから、他者から認識されなければ自分は存在してないと言えるのだろうか。だから、透明人間や生きる幽霊なんて言葉が生まれるのだろうか。
人間もどきや人間未満という言葉、じゃあそもそも人間ってなんだろう。普通ってなんだろう。けれど普通のイデアを求めて人間は生きているように思う。普通なんて言葉があるだけで普通なんてものは存在しないのに、自分が普通ではないと分かってしまうのはなぜだろう。考え過ぎってなんだろう。何も分からないのに「もう分かった。もう分かったから」と呟いてしまうのはなぜだろう。
こういうものは大きい。宇宙の大きさや海の深さを初めて知って布団のなかで蹲り眠れなくなってしまう小学生が抱くあれ。ずっとこうだ。考えても何も分からないし、何も分からないまま生きていられるのが不思議で仕方がない。呼吸も脈拍数も正常、どうやら普通に生きている。鏡を見ると人間が写る。 "き"に対する祈り、みたいなものについて熟考できるうちは幸せだった。幸せはいつも過去形だから、せつない。
私からとり除くべき病理はどれなのか。この思考回路は本当に必要なのか。エンターテインメントで笑っていられる人間になりたかった。人間ってなんだろう。答えのない問いを考えることは必要だろうか。あるいは時間の無駄なのか。少なくとも幸せと不幸せをくれるから、無意味ではないのだろうか。
どう生きればいいんだろう。何処へでも行けるし何処へも行けない。知り合いの小説を読んだ。文章に血が通っていて体温があった。生活の匂いもした。そう考えた自分がいた。ノイズ混じりのテレビがある部屋にいた。
本当だろうか。
きっとこの世は蜃気楼なんだと思う。あると思えばあるしないと思えばない。じゃあ、今の自分にとって世界はあるのだろうか。
希死念慮について、ずっと考えている。答えが出ない。しばらく赤色を見ていない。あの鮮烈な色は今やおぼろげにかすんでいる。必要とも思わなくなった。ただ、あの日々を無意味とは思わない。そういう時があった、とだけ思っている。