短編小説「赤猫が走る」
あの時分は、ちらほらと雪の降る寒い年の暮れだった。
わたしがひとり喫煙所にいると、カタン、とちいさな物音が聞こえた。反射的に振り返れば、1人の青少年が喫煙所の入口に立っている。青ざめた顔が夕闇のなかに浮き上がる様は、さながら亡霊のようだ。一瞬どきりとしたが、彼が懐から煙草とライターを取り出したのを見て、自然と目を逸らす。大抵無人のこの喫煙所に人が来るなんて、珍しいこともあるものだ。
喫煙所に、重い沈黙が降りる。
わたしは妙な居心地の悪さを感じながらも、無心で煙草を燻らす。遠くの方でカンカンと踏切の音が聞こえる…… が、また直ぐに喫煙所は静寂に包まれた。雪が音を吸っているのだろうか。ふたりの微かな呼吸音だけが聞こえるこの場所では、まるでわたしと彼だけが世界にとり残されたような、そんな錯覚を覚える。
「あの」
のっぺりとした、感情のない声色だった。突然のことに動揺して手が震え、持っていた煙草を取り落としそうになる。はっと視線をあげれば、ゆらりと深海魚が泳いでいるような、深い翠色の瞳と目が合う。
「もしよければ、僕の身の上話を聞いてくれませんか」
咄嗟に言葉が出ないわたしを前に、彼は淡々と話し始めた。
3年前、この街で放火事件が起きたのはご存知でしょう。全国紙にも載ったあの事件です。警察の見解では地元住民の犯行とされていますが、犯人は未だに捕まっていませんね。放火された一軒家は全焼して、逃げ遅れた両親と弟は真っ黒焦げになって焼け死に、当時14歳だった長男だけが生き残った。
未だにこの辺りでは、例の事件の話がちらほらと出ますでしょう。犯人はS公園に住んでいるホームレスじゃないか、とか。実は生き残った子どもは犯人の顔を見ていたらしい、とか。ええ。あの事件です。
実は、その生き残った子どもというのが僕のことなのです。
忘れもしない、あの日の夜。午前2時過ぎにたまたま喉が渇いて部屋を出た僕は、階段の下が異様に明るいことに気付きました。まるで真昼のような、いえ、それ以上の明るさなのです。家に太陽が降りたような、とでも言いましょうか。慌てて階下に降りると、1階は火の海でした。住み慣れた我が家が、轟々と燃え盛る炎で覆われているのです。
火事だ!
僕は叫んだつもりでしたが、真っ赤な火柱があまりにも恐ろしく、ただ口からは声にならない嗚咽のようなものが漏れました。玄関の前で立ちすくんでいると、火の手は見る見るうちに階段から2階へと廻っていきます。そこで初めて、僕は悲鳴を上げました。
異変に気づいた両親と弟がばたばたと部屋から出て、階段の上に現れて……次の瞬間、真っ赤な炎に包まれました。僕の目の前で、家族皆が火達磨になっていくのです。暴力的なまでに燃え上がる炎が、父母や、弟を焼いていく……三人は彫刻のように微動だにせず、声を上げる間もなく、真っ黒な炭になって……その一部始終を、ぼくは、…………
……いよいよ火が階段から玄関に廻り、命からがら外へと逃げました。玄関の扉は、熱されていて、あつかった。
そこで僕は犯人と出会いました。全身黒の服を着て、片手にチャッカマンを持ち、燃える我が家に魅入られるように立っている男と。彼は僕に気づくと、すぐに逃走してしまいました。
「でもね、僕は犯人のことを警察に言わなかったのです…… なぜだか分かりますか」
ゆらり。青少年の瞳が揺れる。
嫌な脂汗が額を、頬を、背中を、全身をすべり落ちていく。身体がわななき震えて、足元がおぼつかない。彼から目を、逸らせない。
「立ったまま燃えていく家族と、残酷なまでに美しい炎がゆらゆらと踊る様に見とれたんです。煙草をつけると、火の向こうにあの日の光景が見える。どうしても忘れられなくて」
ふらりと、青少年がわたしに近づく。
「魅入られたんです、僕も、あなたのように」
酷く緩慢な動きで───…
「僕の家に火をつけた時、どんな気持ちでしたか。ねえ」
彼の煙草を、わたしの手の甲へと押し付けた。一拍遅れて鋭い痛みが走り、短い悲鳴をあげる。
あなたのせいですよ。
低く嗄れた、底冷えするような声色だった。青ざめたわたしの顔を見て、青少年はうっすらと微笑む。そのまま足元に火の消えた煙草を落とし、踏みにじる。
彼は喫煙所を出ると、一度も振り返ることなく、夕闇のなかに溶けるように消えていった。
【お題】喫煙所