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浴室の死

 もう何回目だろうな、あの人の死体を浴槽から引き上げるのは。

  仕事終わりにふらりと寄った酒場で隣に座っていた青年が、不意にそう呟いた。ちらりと一瞥すれば視線が交わる。
 間髪入れずに、再び彼が口を開く。
「元恋人の死体がね、度々浴室に現れるんですよ。所謂溺死体です。まるで眠っているような穏やかな顔で、鼻まで湯船に浸かっていて。だから、水を吸って重たくなったそれを毎回引き上げているんです。あの、俺っておかしくなってるんですかね」
  はじめは酔っ払いの戯言だろうと思った。しかし彼は神妙な面持ちで、冗談や妄言を言っているような気配は一切ない。周囲の酒乱騒ぎが一気に遠のいて、私と彼との空気がシンと張りつめる。
「……いや。でも、やっぱりそれは有り得ないんじゃないですか。人の死は一度きりですし、あなたの精神が参っていると考えた方が現実的に思えますが」
「俺もそう思います。でもね、たしかに溺死体はあるんです。証拠だってありますよ。ほら」
「えっと、証拠があるんですか?」 
  彼が差し出した黒いスマートフォンを覗きこめば、湯気で若干ぼやけてはいるものの、それらしき人物がカメラロールに映り込んでいる。
 写真は3枚ほどあって、同じアングルで撮影されていた。  写真に写っている男性は、衣服を着たままの状態で目を見開いて死んでいる。人形ではとても表現できない緻密な肌の張りや皺、血走った目は、それが本物の溺死体だと証明しているようだ。  さらに、同じ死体ならば日毎に腐乱し形が崩れていくはずだが、そのような様子も見られない。非現実的な出来事ということは、酒が廻り切った頭でも理解できる。けれど、カメラロールの死体やそれを語る彼の様子には、それが現実に起こっていると実感させるような嫌な生々しさがあった。幾ばくか間を置いて、尋ねる。
「何かきっかけに心当たりはあるんですか」
「彼を殺した次の日ですね。初めて死体が現れたのは」
  青年は、感情の読みとれない顔でぼんやりと笑った。

  気が付くと、俺の前には死体がありました。当時の記憶はすっぽりと抜けてしまっているんですが、どうやら無理やり彼を湯船に沈めて殺してしまった後のようで。状況を鑑みるにひどく抵抗したみたいです。俺は引っかき傷や打撲痕だらけ、床にはボディソープなんかが散らばっていたりして。殺した理由は思い出せないんです。当時のことは全く思い出せない。ただ目の前には、俺が殺したあの人の死体がありました。
  インターネットで調べて知ったんですけど、実際猫の砂って消臭効果が凄いんですよ。なので、敷地内のガレージいっぱいに猫の砂を敷き詰めて、そこに死体を並べています。バレるのも時間の問題かもしれませんね。何せ7、8体は並んでいますから。
  こういう話、聞いたことありませんか。無念の死を遂げた人は、亡霊になっても死ぬ瞬間を繰り返し続ける。つまり死んでもなお死に続ける、みたいな話。俺、あれじゃないかと思っているんですよ。でもね、問題は実体が伴ってしまっていることなんです。意識体や魂なんかじゃなく、生身の肉体を持ったまま死の瞬間を繰り返している。それが問題なんです。やっぱり、俺が殺しちゃったせいなんですかね。もしいつか、ガレージが死体でいっぱいになったら。もしこの出来事が近隣住民にバレてしまったら。そう思うと、俺、恐ろしくてたまらないんです。………
  青年の口は淀みなく事の顛末を語っていく。私は酔いも冷めて、次第に恐ろしくなった。
「あ、あの」
「はい、なんでしょう」
「写真を見る限り、屍体が現れたのは3、4回ですよね。なぜ倍近く多い屍体がガレージに並んでいるんですか」
「あ」
青年は今気付いたと言わんばかりの表情で、さも当然のように言う。
「俺のもそこに並べているんですよ」
  私は絶句した。

  青年はどうしたら良いのかわからない、という旨の主張を繰り返していたが、私が黙り込んでいると、やがて席を立った。
「話を聞いて下さってありがとうございました。では、良い夜を」
  青年が後ろを通る時、ふと嗅ぎなれた匂いが鼻を掠める。まるで三角コーナーで腐った生肉のような匂いだった。

   無念の死を遂げた人は、死んでもなお死ぬ瞬間を繰り返し続けるという。
  私は想像する。二人は殺し殺され、死に至る瞬間をずっと繰り返し続けているのではないだろうか。あの青年は殺人を犯した直後、罪の呵責に耐え兼ねて自殺したとする。そして死んだ翌日から、殺人から自殺に至るまでの瞬間を何度も繰り返している。青年は己の死体を認知していながら、己の死には気付いていない。実体を伴ったまま、殺した彼とともに死に続けている……
  ここまで想像して、ふっと息を吐く。あまりに全てが非現実的だった。私が話していた彼は、生きている人間そのものだった。私はからかわれたのだ、と思いながら、しかしどうにも釈然としない。
飲み屋を出る直前、店の大将に声をかけた。
「あの、先程隣にいた男性って……」
  どうにも言葉にならず黙り込んでしまって、暫く不自然な沈黙が落ちた。大将は怪訝そうな顔をして、しかしぼんやりと遠くをながめて、独り言のように呟いた。

「なんだか死人、みたいな人でしたねぇ」

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