Behind a cigarette
その日は出張で東京に赴いた。
仕事後の会食を終え、二次会への参加をひらりとかわした。特に予定はなかったけれどビジネスホテルへは向かわず、あてもなく渋谷を歩いた。田舎ではすでに終電が終わっている時間だが街は煌々と明るく、人で溢れかえっていた。
今日という日が惜しくて眠りたくないと言うことは、昔からよくある。
※
小さなライブハウスの前に、女の子が数人並んでいた。聞くとこれからライブがあるのだという。時間は24時。この時間から?と言う愚問を飲み込んだ。
「超かっこいいですよ」
そう言う彼女達の顔がとても素敵だったから、全然知らないアーティストだったけれど、当日券を購入した。
携帯が頻繁に震え、着信を知らせた。画面を見なくても母だとわかった。その頃の私は、母を取り巻く環境の不協和音を聞き、宥める為だけに存在していた。
「明日帰ったら話を聞くから。」
短くメールを送って、携帯を閉じた。
※
薄暗い会場、小さなステージに並ぶベース、ギター、ドラム、スタンドマイク。
タバコの煙とアルコール。
24時過ぎのライブハウス。
ライブハウスは地下だから、携帯電話はその機能を殆ど喪失する。それなのに頻繁に携帯を開くのは、母の影に怯えていたからだと思う。母が最も嫌うであろう空間だった。
カウンターでスミノフを受け取った。ざわつく気持ちを落ち着かせるように、半分ほど飲み干す。
しばらくすると、バンドメンバー達がビール片手にラフな感じで登場した。
流暢な英語、長身で長い手足、美しい容姿。
ウェーブがかった長髪で中性的な雰囲気を醸し出している彼が、フロントマンらしい。
シンディローパーとか、アデルとか、マイケルジャクソン、プリンス、ビートルズなんかの洋楽カバーのライブだった。
And I’m talking to myself at night
(夜になると、俺は独りごとを言う)
Because I can't forget
(怒りを忘れられなくて)
Back and forth through my mind
(心の中を行ったり来たり)
Behind a cigarette
(タバコの煙に紛れたり)
Seven Nation Army / The White Stripes
“cigarette“で吸っているジェスチャーをしながら歌う所作。その指先から目配せまであまりにも妖艶でセクシーだったから、何年もたった今もくっきりと脳裏に焼き付いている。
「超かっこいいですよ」と教えてくれた彼女は、頭を振ったり、時折目を瞑ったり、ステージ上の彼を見上げてうっとりしている。
そうしてフロア全体が、各々の楽しみ方で浸っていた。
私のスミノフはあっという間に空になった。そのままカウンターに向かって、もう一つ同じものを受け取った。ヒールが痛かったから途中から裸足だった。ゆとりのあるフロアで、知らない誰かと乾杯した。携帯は見なかった。
ふわふわとした酔いが心地よかった。
※
ライブが終わったのは明け方で、地上に出ると薄明るくなっていた。
フロントマンの彼は、このライブを終えたらそのまま飛行機に乗って出国するのだと言った。彼は、ほとんど手ぶらでにこやかに私達に別れを告げて朝の渋谷に消えた。
それぞれがそれぞれの道へ散っていく様を見ながら、果てしなく自由だと感じた。その朝方の一時だけ、自分の人生が自分のものになったような気がした。
思えばずっとだ。会食の後、一人になってからずっと。あれからずっと心地よかった。
渋谷の交差点を歩きながら、溢れる人混みの中に、私を知る人が1人もいない事に歓喜した。
24時過ぎのライブハウスでアルコール片手に裸足で踊ろうが、私を咎める人は誰もいない。このまま携帯を投げ捨てて人混みに消えてしまえば、私と言う存在はあっという間に溶けるだろう。
誰も私を、知らない。
なんて素晴らしいんだろう。
※
胃の中のアルコールと穏やかな睡魔を感じながら、コンビニでタバコを買った。ボーカルの彼がステージで吸っていたものと同じ銘柄。
初めてのタバコ。
I’m gonna fight ‘em off
(奴らをぶっ倒してやる)
A seven nation army couldn’t hold me back
(7カ国軍にだって、俺は止められない)
They’re gonna rip it off
Taking their time right behind my back
(俺の知らないところでひっそりと搾取する奴ら)
And I’m talking to myself at night
(夜になると、俺は独りごとを言う)
Because I can't forget
(怒りを忘れられなくて)
Back and forth through my mind
(心の中を行ったり来たり)
Behind a cigarette
(タバコの煙に紛れたり)
オーガニックとか、どこぞの綺麗な水とか。
そういうものを強要して、あらゆるものを禁じる母の顔を思い浮かべながら、一気に肺まで吸い込む。
大きくむせる。頭がクラクラする。
And the message coming from my eyes
Says “Leave it alone”
(俺の目に映る言葉は「放っておけ」だとさ)
オーガニック?綺麗な水?
そんなん知ったこっちゃない。
And the feeling coming from my bones
Says “Find a home”
骨の髄からやってくる気持ちは
「自分の核を見つけろ」だとさ
母の希望通りに形成されている私。母の忌み嫌う不純物で肺を満たして、吐き出す。
『私の身体は、私のものだ。』
数時間もすれば、母からの電話がやってくる。夜通し私に無視された母は、怒り狂って鋭い言葉を投げてよこす筈だ。私はまたきっと、傷つくだろう。
それでもこの夜に、後悔はなかった。
イヤホンから流れるSeven Nation Armyは鎧になった。
その日の夜更かしは、私を少しだけ強くした。