【創作文】根音
(約4000字)
七月下旬。寝室。ベッド。
「うぅ……。う……」
身体のそこら中でダラダラと流れている汗。
「あっつ……」
目を覚ます。布団に寝転がりながら頭だけを動かし眼鏡を探す。無事、枕元に迷子眼鏡を発見する。
眼鏡をかけ、グチャグチャのコロコロになったタオルケットをベッドの上で畳む。腰のあたりに無造作に置かれていたノートパソコンを開いて電源を入れる。
PCをベッドに置きっぱなしにして床に立つ。眠っているあいだずっと回り続けていた扇風機の向きを自分の顔のほうに向けつつ、エアコンにも目を向ける。が、すぐに目を逸らす。しばらく扇風機の前で魂を抜かれる。
ゴホゴホと咳込みながらトイレに向かう。洗面台の前で大きく咳払いをする。咳払いに力が入って「オエッ」となる。小さく溜め息を吐いて歯ブラシを持つ。歯磨きをしている途中で「ヴオェエッ!」っとなる。
リビングに入る。キッチンで水を飲む。ソファーテーブルの上に置かれたスマホが目に入る。スマホの前を素通りして窓を開ける。無意識に声が漏れる。「th……」。
冷房をつける。ソファーに一本の抜け毛を見つける。つまんでゴミ箱に入れる。その流れで掃除が始まる。本棚を拭いている途中で漫画を読み始める。数ページ読んだあたりでソファーに寝転ぶ。通常通り二度寝が開始される。
快適な時間旅行のあとで起き上がる。ソファーに二本の抜け毛を見つける。つまんでゴミ箱に入れる。
本気の寝起き体操を始める。体操用の音楽が頭の中で流れ始める。隅から隅まで記憶した体操音楽をもとに全力で体を動かす。頭の中に浮かんでくる高い壁、そして崖。ダイナミックな動きに合わせ、ダイナミックに眼鏡がズレる。
寝起き体操がフィナーレに差し掛かる。最後、空を仰ぐポーズでゆっくりと深呼吸をする。(類似:UFOを呼ぶときの姿勢)。頭の中の体操音楽が鳴り止む。
キッチンで冷蔵庫さんの扉を開け、スーパーでまとめ買いした乳酸菌入り飲料を取り出す。(宅配のほうが安い)。窓の前で風を感じながら無心で乳酸菌入り飲料を飲む。飲み終わったあと静かに窓を閉める。
着替えとタオルを持って浴室に向かう。浴室に入る前に洗面台のタオルを変える。シャワーからお湯を出す。いつもの道を歩くかのようにシャワーをし、再びキッチンに向かう。冷蔵庫さんに手を触れる。冷凍室と間違えて野菜室を開ける。三本のミョウガが目に入る。しばらくぼんやりとただミョウガだけを眺め続ける。冷蔵庫さんからピーピーと音が鳴る。「はい、閉めます。すみません」と謝る。
前日の夜に食べきれなかった二本の“ねぎま”串を電子レンジで温める。続いて冷凍パスタを温める。個包装の割り箸入れ(本当はペン立て)から一膳だけ抜き取る。割り箸が入ったビニールを剥がす。その際、同封されていた爪楊枝一本をポロッと床に落とす。落とした爪楊枝を拾う。キッチンの掃除用歯ブラシの横にそっと添える。
作りかけの水出し麦茶を先駆けてコップに注ぐ。注いでいる最中、冷蔵庫さんから再びピーピーと音が鳴る。慌ててドアを閉める。直後、ガラララッ!と自動製氷の氷が落ちる音がする。体がビクッ!となる。(声は出ず)。鼓動がそれなりに激しくなる。
ダイニングテーブルの上に麦茶と“ねぎま”と冷凍パスタを置く。パスタを割り箸で混ぜる。中心部からシャリッと音がする。混ぜる。食事を開始する。
“ねぎま”を食べている最中、竹串の一部にささくれ立っている箇所を発見する。また無意識に声が漏れる。「th……」。
パスタにも口をつける。セールでまとめ買いした冷凍パスタが予想以上に“当たり”だったことで「へへ……」と声が漏れる。
食事のあと、防災用から日常使いになったラジオの電源を入れる。食器をシンクに運ぶ途中、不意に椅子にぶつかる。ゴロロッ!と音がする。反射的に「うわ、すいませんっ」と口から出る。
ラジオが一瞬途切れて、何事もなかったかのようにまた流れ始める。食器を洗ったあと、ダイニングテーブルの椅子に座る。しばらく魂を抜かれる。脇の下から汗が流れる。
ジィーーーーッ、ジジジジ……。
蝉の声が聞こえてくる。
チチ……、チチ……。
蝉の声に混じって鳥の囀りも聞こえてくる。連日連夜ダイニングテーブルの上に置かれている個包装のサラダ煎餅を無意識に手に取り、袋を開けて無意識に口に入れる。煎餅を口に入れてから意識が戻ってくる。少しだけ血の気が引く。
ふとメモスタンドに目をやる。町中華で会計の時にいただいた『餃子割引券』が挟まれている。が、期限切れになっていることに気付き「あー……」と声を漏らす。立ち上がって割引券をゴミ箱に捨てる。
立ち上がったついでにラジオを持って寝室に戻る。扇風機を付け、アイロンとアイロン台とラジオをラグマットの上に置く。
ローテーブルに置かれたカレンダーを見る。上部には印字された『七月(文月)』、下部には緑ボールペンで手書きされた『三回忌』、『帰省→』の文字がある。カレンダーの横には雫型のガリレオ温度計。(透明の中にある昇る色と沈む色)。
急に頭の中に理科室が浮かぶ。
窓が開いている理科室。黒いカーテン。窓際の水道から、ぷっくりと膨らんだ水滴が落ちる。ゆっくり、とてもゆっくりと。
水滴が落ちた音がする。ポタッ――……。
理科室の広い机の上でパラパラとノートが捲れ出す。時刻は昼過ぎ。五時間目。
ジィーーーーッ、ジジジジ……。
蝉の声で理科室から現実に引き戻される。きゃあきゃあとした声も聞こえてくる。蝉時雨に子ども達の笑う声が混ざっている。
寝室の窓を開ける。遠くにあるビル、続いて近くにある住宅地を見る。ある一軒の民家にタチアオイが咲いているのを発見する。色はピンクと白の二種類。(いずれどちらも薄い茶色になる)。
窓を開けたままでクローゼットを開ける。黒いネクタイにチラッと目をやったあとで白いワイシャツを取り出す。
ラグマットの上に座る。ワイシャツにアイロンをかける。窓からも風が入ってくる。それが扇風機の風と合わさりカーテンがさらさらと揺れる。微かに柔らかな良い香りを感じる。タチアオイが風に揺れているところを想像する。
ラジオから昔の西洋音楽が聞こえ始める。(あとで1970年代の曲だとラジオパーソナリティーの説明で知る)。スローで穏やかな主旋律の奥に、重たく低く、見えにくい音がある。
一旦アイロンを台に置いて音楽を聴く。理科室がまた頭に浮かんでくる。理科室。階段。下駄箱。帰り道。だんだんと近づいてくる帰る場所……。
――到着。
玄関入ってすぐ目に入るシンプルに活けられた季節の草花。淡く柔らかい色で描かれた絵画。よく分からないけど綺麗だと感じるクリスタルガラスの置物。
木目がはっきりと見える廊下。どうやって付いたのか分からない天井の薄いシミ。名前のシールが貼られた衣装ケース。色と大きさがそれぞれ異なるご飯茶碗。数本だけ残っている手持ち花火セット。ところどころ灰色になっている薄茶色のぬいぐるみ。首掛け紐が短いものに付け替えられた双眼鏡。古いけれどちゃんと動く柱時計。何故かごくたまに作られる濃いラッキー麦茶。気付くといつの間にか友達が出来ている爪切りとハサミ。
それから、その場所から出てすぐ近くにあるブランコと滑り台と広場と砂場。砂場にしゃがんで自由に山を作り、絵やよく分からないものを自由に描く。手のひらに砂の感触が蘇る。ひんやり、そしてざらざらと。また一つ蘇る。その砂場で教えてもらったこと。「あのお花が一番上まで咲くと夏なんだよ」。
ジィーーーーッ、ジジジジ……。
ハッとして頭の中の砂場から帰ってくる。相変わらず外から聞こえてくる蝉の声。そして室内に響く穏やかな音楽。ラジオが流すその音楽に、時々「ポツ、ポツ」と音が入る。「ふふ」と声が漏れる。再びアイロンをかけ始める。
シューッ、シューッ。
『三回忌』に着る用の白いワイシャツの上から白い蒸気が上がっていって、あっという間に消えていく。
♪~~、♪~~。
ジィーーーーッ。
チリン、チリン。
チチッ、チチッ。
ブーン……。
聞こえてくるのは昔の西洋音楽。蝉の声。それに自転車の呼び鈴の音と、鳥の囀りと、扇風機の音。それから、目の前のアイロンの音。
シューッ……。
また蒸気が上がって消えていく。
ジィーーーーッ、ジジジジ……。
ミーン、ミンミンミン、ミーン……。
何度も放たれる蝉時雨。ワイシャツからまた蒸気が上がって消えていく。
アイロンの電源を切り、温かくなった白いワイシャツをハンガーにかけ、一旦カーテンレールに吊るす。ワイシャツがさらさらと風に揺れる。どことなく良い匂いが漂ってくる。額から汗が一筋だけ流れ落ちる。
カチャッ。
玄関のドアが開けられた音が耳に届く。「ただいまー」と声がする。体全体がピクッと動く。「あっ、おかえり」と声が出る。
寝室のドアを開け、パタパタパタ……とスリッパの音を立てながら玄関に向かう。
パタパタパタパタ。パタパタパタパタ。
「おかえり。外暑かったでしょ?」
「暑かった! 今日はまだ風があったから良かった……、いや、にしても暑い。暑すぎー」
聞き慣れた声が届けられる。
「お疲れー。アイスまだ二本残ってるよ」
「おおっ」
パタパタパタパタ。
パタパタパタパタ。
洗面室のドアノブに手をかけ、代わりにドアを開ける。目の前にいる人が「あっつ……」と言いながら洗面台の蛇口に手を伸ばす。
ジャアアア……。
昨日と同じような手を洗う仕草と昨日と同じような流水音。音が止み、あなたが手を拭きながら言う。「あ、タオル変えてくれたんだ?」。
「うん。変えた」
「有り難う。そうだ、聞こうと思ってたんだけど、アレ持ってる?」
「アレ?」
「あの、何だっけ、アレ。名前が出てこない。えっと、アレだ、アレ……」
「アレ……」
「いや、ホントに何だっけ? ど忘れした」
「あははは。思い出したらまた言って」
「思い出すの十年後になるかもしれない」
「ええ? そんなにあとで思い出されてもその頃には無いかもしれない」
「あははは」
波。
凪に似た凪ではない波。いつもの声が続いている。見えない波と、いつもの顔と、いつもの仕草。水道の蛇口からぷっくりとした水滴が落ちた。
窓の外。蝉時雨が放たれる。
ミーン、ミンミンミン、ミーン……。
― 根音 ―
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お読みいただきありがとうございます。