小夜セレネ論考β版

 私から他己紹介の感覚で言葉を紡ぐつもりはない。その日に食べた夕食が唐揚げで、サラダでないとしても、文字に起こせば「サラダ記念日」なのだから。言葉は書き出した瞬間に「嘘」になる。Xのリンクで何卒ご容赦を。
 さて、本稿では「私から見た“小夜セレネ”さん」像を描き出すことを目的としている。目的地へ最短距離で詰めていくものにはならないだろうが、できる限り専門性を排して「ゆるくゆるく」書いていこうと思う。

文化の進歩とは日常使用するものから装飾を除くことと同義である。

アドルフ・ロース(伊藤哲夫訳)、2021、P.121

 モードとゴシックを足し合わせたような装い。前掲のロースの言葉、その真逆に位置する衣装。装飾を極力排したいなら、黒いシャツ一枚でいいのだ。これはどきつい。下品な野生を包み隠そうという、人間として必要最低限の「微々たる」努力すら怠っているのだから。では、ゴテゴテした装いを纏おうとするのは、「弱さの発露」なのか。いや、断じてそんなことはない。

ロースが語った装飾性を剥いでいく近代化の動きは、人間からペルソナという装飾までも剥ぎ取ってしまったのではないかと思えるほどだ。いっさいの装飾をやめれば、すべての表面は均され一様となる。識別に必要なのは大きさや色のちがいだけ、という状況だ。そのような平板化に乙女は真っ向から対立する。(中略)装飾はけっして弱さのしるしではない。誰彼かまわずにおのれを曝け出せることはむしろ、あるがままの自分とあるべき自分の二重化を引き受けられない弱さを、無神経にも強さと履き違えているだけだ。

横田、2024、P.133

 小夜セレネさんが「乙女」の括りに包摂されるのかは取り敢えず保留する。それでも、Vtuberを語る上で、極めて重要な文言があった。曰く、「ペルソナ」である。Vtuberとは、やや粗雑な言い方をすれば、「幾重にもペルソナを纏った」存在だ。生身のレベルで視聴者と共有されるのは、「声」と、まれに「手元(指先)」だろう。「顔」は、基本に秘せられたままだ。これまで述べてきたことを踏まえると、「小夜セレネさんも(同様に)、ゴテゴテしたペルソナ」で鎧っている、と言える。

 しかし、それらを「貫通」する何かがある。あくまで私の肌感覚にすぎないことを断っておくが、身体的な行為ー歌を歌う、ギターをかき鳴らす、激情を込めて弾き語る等々ーを配信の軸にしているから、というロジックでは到底回収できない「何か」がある。それにはきっと、「実在の手触り」がある。


《文楽》において、舞台の動作主は人の目に見えるものであり、同時に無感覚なものである。黒子をきた男たちが人形の周囲を忙しく立ち回るが、しかし、どんな巧妙さも自由さも見せびらかさないし、いってみればまた、どんな人目をひくための策略もおこなわれない。

ロラン・バルト(宗 左近訳)、1996、P.96

 西洋の演劇においては、巧妙に隠されている「人形遣い(舞台の動作主)」が、観客の視界に入るようにできている。これが文楽(日本の演劇)における特色だ、ということだろうか。Vtuberという存在は、「キャラクター」という強固なペルソナを身につけている。ゆえに、「その人がここにいる」確からしさは、どんどん弱くなっていく。「実在の手触り」を感じさせる「何か」が微弱になっていく。しかし、小夜セレネさんは違う。

β版のβ版たる所以、これから詰めるべきこと
・「実在の手触り」とは「アウラ」?AI coverと本人歌唱の違い。学習可能-性(再現性)
・『Vtuberの哲学』必読。

参考文献
アドルフ・ロース(伊藤哲夫訳)、2021、『装飾と犯罪 建築・文化論集』ちくま学芸文庫
横田他、2024、「ユリイカ 特集 嶽本野ばら」no.820 vol.56-6 青土社
ロラン・バルト(宗左近訳)、1996、『表徴の帝国』ちくま学芸文庫

いいなと思ったら応援しよう!