あたしは、数多いるサリエリだったんじゃないか
「あたしに“だけ”は、宮崎駿の良さが分かる」。
「サリエリ気取り」の優越感から、少しずつ解放されつつある昨今。卒論は遅々として進まないから、深夜に走り書く文字の羅列を、その前奏曲にしたいと思う。
宮崎駿は、不幸な作家である。小松原や今村、そして岡田の「風立ちぬ」評に目を通すと「風立ちぬ」という作品自体というよりも、監督たる宮崎駿にばかり焦点が当てられているように思われてならないのだ。ならば、「風立ちぬ」という作品そのものに、それを見る人に焦点を当ててみるべきだ。
文学・芸術を「製作者」の立場からではなく、それに触れる「受容者」の立場から論じる。作り手から受け手へ、視点をスライドさせる理論体系。手近なところで考えると、やはり「受容理論」だろうか。
受容理論とは、川島によると
ものであり、とりわけH.R.ヤウスの『挑発としての文学史』では、受容者の「期待の地平」という受容の様式を軸にしている。
「期待の地平」(以下、「地平」とのみ表記する)とは
「地平」とは、端的に言って、受容者が「これまでに身につけた作品に関しての知識」と「先入観」をもとに、作品の受容が行われる様を指している。
「風立ちぬ」に即して、「地平」という概念を噛み砕いておく。「風立ちぬ」における「地平」とは、視聴者が「これまでに身につけた『風立ちぬ』や『宮崎駿が手掛けてきたジブリ映画』にまつわる知識」と「ジブリ映画についての印象・イメージ」を元に「風立ちぬ」を受容する様、と言えるだろう。
さらにヤウスは、「地平」に合致しない作品こそ、芸術性の高いものだ、と述べている。「風立ちぬ」は、まさに「地平」と隔たりのある作品だ。「子供向けファンタジー」の枠組みから脱した、強いメッセージ性や作家性を持ったものだ、とも言い換えられよう。冒頭部で触れた、小松原・今村・岡田の「風立ちぬ」評も、そのことを裏付けている。
以下に、岡田が「風立ちぬ」の感想として挙げている部分を示す。こうした感想が挙がる一方、2013年9月末の時点で、興行収入は100億円を突破し、また観客動員数は1000万人に達すると見込まれているようだ。(岡田、2013、P.7参照)
ほんの僅かの言葉だが、ここからも「同時代の公衆に不安を与え」るような、「こんなのジブリじゃない」という「拒絶」を伴う受け容れられ方がなされたことが伺える。しかし、興行収入と観客動員数を見れば、「全く受け容れられなかった」のではないことは明らかだろう。賛否両論の様相を呈していたと言っていいだろう。以上を踏まえると、「風立ちぬ」は視聴者に「地平」の更新を迫ったと考えられる。
ただ、同時代の視聴者には「拒絶」されたとしても、後の時代の視聴者にとっては、違和感なく受容されることもある。「君たちはどう生きるか」公開後、「風立ちぬ」の受容態度はどう変わっただろうか。
参考文献
今村純子、2015「夢見る権利ー宮崎駿監督映画『風立ちぬ』をめぐって」、人文・自然研究 10 20-292016-03-31、pp.20〜29
岡田斗司夫、2013、『『風立ちぬ』を語る 宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来』光文社新書
小島孝誠編、2023、『批評理論を学ぶ人のために』世界思想社
https://www.moderntimes.tv/articles/20220613-01/ 2024年11月2日 閲覧
H.R.ヤウス(轡田収訳)、2001、『挑発としての文学史』岩波書店
アニモグラフィ
「風立ちぬ」2013、宮崎駿監督
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