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短篇集Ⅳの周辺

アナログ作家の創作・読書ノート    おおくぼ系

連載小説の合間に、エッセイを掲出します。連載の〈はるかなるミンダナオ・ダバオの風〉の(25)は来週の予定です。ヨロピク!


 秋がなくて、いきなり冬がくる感がしてますが、WBC、ニューヨークでのドジャース対ヤンキースの第5戦、すごかったですね。負けたヤンキースには申しわけありませんが、野球エンタ―テイメイトの極致、ハラハラドキドキで面白過ぎました。

 

 で、本題にはいるのですが、今月に短篇集Ⅳ〈銀色のbullet(銃弾)〉をPOD出版したところ、九州文學時代の同人のひとりである〈たぢからこん〉氏からの感想(評)文をいただいた。

 この短篇集は、現代作家代表作選集第8巻や九州文學で発表した短編 〈 砂原利倶楽部ー砂漠の薔薇 〉〈 桜花吹雪のオトコたち 〉〈銀色のbullet(銃弾)〉に新たに未収録の〈ナッキー姉の手紙 〉を加えて一冊にしたものだ。

 

たぢから氏の感想(評)の一部であるが、〈銀色のbullet(銃弾)〉に関して、

〈ユカリの描写についてですが、「自由劇場で自由な生き方をしているアバズレだが、品のあるアバズレだ」とか「彼女の一見、能天気な明るさと力強さは、強力な武器だ」と書かれていますが、おおくぼ系氏自体アバズレに接したことがないのか、アバズレだと判断する小さなエピソードでも書かれていれば、ユカリの人間像によりディテイルが加えられるのではないでしょうか。「品のあるアバズレ」を具体的に書き足す必要はないでしょうか〉
と言うものである。

 ご意見ごもっともと受け取った次第である。

 氏ご明察のとおり、典型的なアバズレさんと親密になった経験はないのである。ただ、女性のオトコどもに対する情念のすごさは経験済みであり。これはスサマジイものがある。いわゆる真正のアバズレさん、またはレデイースと一度は親密になりたいとは願っている(笑)。

ネタをバラすと、そもそもアバズレの発想の発端は、山田詠美氏の小説〈ひざまずいて足をお舐め〉、タイトルからしてすごい作品であるがーーのあとがきの欄に、編集担当者が山田詠美氏を相手に紹介するときに〈こいつ、小説を書かなきゃ、単なるアバズレだからさ〉と言う一文に出会い、衝撃的な感銘を受けたことにはじまる。

 

 もっとも小説とは、世に出せば、いかように読んでもらっても読者のかってであり、作者の意図とは乖離があるのであるが、〈銀色のbullet(銃弾)〉を書く側として、もっとも苦心したのは、放映ドラマのなかでの西郷と愛加奈の別離の言葉、表現をいかにするかということであった。アバズレを書きながらも、この作品は、系どんなりの西郷隆盛論を伏線にした小説であると考えている。

 作品の締めくくりにあるドラ猫参議の言葉において、それをすこしでも感じてもらえれば、ありがたいの一言に尽きる。ただ、前述したように、作品をどのように読んでも可能であり、面白くないと閉じてもらっても読者の自由であるのだ。作者と読者はある面、共同幻想の当事者となる。

 

 西郷論を伏線としたように、ひとつのテーマとして研究しているうちに、後になって志村有弘先生の監修された『西郷隆盛事典』に二十数項目書かせていただき、いままでの蓄積が結実していったと思う。

 その一端は、NOTEのエッセイ、〈アナログ作家の創作・読書ノート トラ、トラ、トラウマ〉で述べたとおりである。時間があればご参照ください。

 

 九州文學は、同人誌でも全国同人雑誌賞の大賞に選ばれた実績があり、参加同人も多く、百人をゆうに超えていた。系どんも当時の波佐間編集長の推薦をうけて参加し、数年間書きまくった。たぢから氏は、その時の同人仲間であり前衛的な作品を発表していて、おやっと目にしたのがはじまりだった。氏の創造した作品は難解であるという評がついたのだが、読めるのなら読んでみろとの意気込みを持つことも書く側として必要であることを学んだ。

 さらに、読む側については、拙い作品であるかもしれないが、作者が驚くほどの新しい価値を作品の中から発見してみるというのも、それは読者としての力量であるのだ。

 

 ところで、同人会には合評会というものが有り、それぞれの作品たいしてお互いの評が下されるのだが、結構、辛辣な指摘がなされるのである。どの世界もだが、文筆で生きる世界もそれなりに大変なのだ。

 作品指摘の観点を〈 砂原利倶楽部ー砂漠の薔薇 〉において、書きあらわしているので、以下に抜粋してみる。

 

 「でね、本論にもどろうか、深見君の小説だけど、はっきりいって面白くない。新聞でもわかるとおり、そもそも今回の件は、米国の予算の都合だったと考えられないかしら、その大波に翻弄された結果だと。その巨大な敵を相手にして単身で乗りこみ、設計の事実をホームページでばらすというのは一種の脅しだけど、巨大機構を相手に立ち回りが過ぎる気がする。無理が見え見えで、かえってチンケすぎる気がするのね。ハードボイルドに仕立てたとしても、中途半端すぎるよ。巨大な力に弱小者が力で対抗するって、カッコと意気込みは買えるけど、よほどうまくさばかないと。現実には蚊がさしたほどもなく、無視されるか簡単に潰されるかだわよ。どうぞどこにでも訴えてください、ただし、訴える相手を間違えないようにって、その辺りが落ちじゃない。それに読者層をどこに設定してるのかも、わからない。分別の付いた大人か、まだ発展途上の若者なのか、男女どちらなのか、まあ著者は自分が書きたいように書くんだけど、ホントにそれでいいかも一度は考えなきゃ。作文じゃなくて、読者が読むに値する小説を書かなきゃ。お金をだして買ってもらうものでしょ小説って……」

 ママは一気にいうと、グラスを飲み干した。

「次に、作者が何を考えて何を書きたいのかが、全然わからない。ただ活字を並べているって感じで、読む者を引き込まない。新聞の記事を単にふんふんって読んでるみたいよ。作者の視点のブレもあるから、読む者がこんがらかる。説明もくどすぎて、ハードボイルドにしてはスピード感がない。ああ、言うの疲れた……要するに、読んでもらうことは、読者の貴重な時間を泥棒することだから……ここんとこ、わかる? この小説は破綻していると言われるんじゃないかとか、恐れてては小説は書けないよ。破綻があっても当然じゃない、それぐらいでないと」

 いろいろ迷っていることをズバリ指摘されると、さすがにカチンとくる。

 

 まあ、この程度はサラッと受け流して、何度でも描き直して、突き進む強さがないと、文筆の世界でもやっていけない。

 

石原慎太郎が、〈太陽の季節〉で芥川賞を取ったときの選評者の意見は割れた。

 

某氏は、「推すならばこれだという気がした。」「欠点は沢山ある。気負ったところ、稚さの剥き出しになったところなど、非難を受けなくてはなるまい。」「倫理性について「美的節度」について、問題は残っている。しかし如何にも新人らしい新人である。危険を感じながら、しかし私は推薦していいと思った。」「芥川賞は完成した作品に贈られるものではなくて、すぐれた素質をもつ新人に贈られるものだと私は解釈している。」とのコメントを残している。

後に石原氏自身も、小説にも破格と言うものが有り、文壇の常識を破るぐらいの挑戦をするのが、作家だと述べている。

 

 系どんの作品は、同人参加の時に了承を願ったように、小説ではあるかもしれないが、文学ではないと思っている。自身、文学という概念がつかめないし、欠落しているのである。さらに、作家とよばれたく、そうなるにはソロで活動せねばならないと感じていた。九州文學の表紙に作品名と作者名を掲載していただき、けっこう表紙を飾ったのであるが、〈九州文學のおおくぼ系さん〉といわれるより、単独で作家〈おおくぼ系〉さんと呼ばれたかったのだ。

 

小説は〈ウソのことを本当のように書くこと〉であると同時に。反対に、〈本当のことをウソのように書くこと〉でもある。  

系どんの小説は評論家によると、社会派の中間小説に位置付けられている。

また、作家には執筆する時の目線(視線)がある。先ず一人称の視点。次にあなたと私の二人がいる二人称の恋愛小説。さらに多人称の視点。これは、群像小説、社会派小説など。さらに神の視点があり、これはミステリー小説などで、作者は犯人が最初から分かっていて、すべてを知りえた創造神の立場から書き綴るものである。

純文学と言われる小説には、内面をえぐる一人称や恋愛もののように二人称の視点が多くあるようであり、社会派小説は登場人物の多さから多人称、神の視点が多用されている。

 

再度〈銀色のbullet(銃弾)〉に帰るが、この作品は、十年ほどまえに九州文學に発表した作品であり、今回、再集録したものだが、校正の際に読み返してみると、若いなりの荒さがあり、それ故に若さのエネルギーを感じた。

洗練されていないことは、ある面欠点であるが、洗練されていないことが、返って違った味を醸し出しているのではと考える。

完璧な小説というものは存在しないというのが、系どんの持論であり、そもそも司馬遼太郎氏が述べるように、小説とは、読むに値するものをそれなりの枚数書けばいい、という考えに同調するのである。

 

さらに、長く小説を書いていると、経験を重ねた人生のように小説が洗練されて丸くなるのだが、そのことが、面白くなくなることではないか。

 くわえて、世に出るか出ないかは、作者の力量もさることながら、強力な〈推し〉の存在に出会えるかどうかであり、人との出会いであり、運であろうと考えている。

 

 最後にひとこと、敬愛する文芸評論家の越田秀男先生から、必ず短篇集Ⅳの評を送るので、しばしお待ちあれとのメールをいただいた。楽しみにしているところである。

 

 読者諸氏のアナログ作家への〈推し〉をヨロピク!


*次回は、連載小説〈はるかなるミンダナオ・ダバオの風〉の25回の予定です。応援ヨロピク!

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