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これが正解?

アナログ作家の創作・読書ノート

                                                  〈イラスト ルイズ・グラバー〉


「エッセイでいきまーす! ヨロピク!」

 

 小学のころは、シャイながら算数の計算テストに正解して、満点をもらうことにたけていた。

 中学校に入り、学期末のテストの学年順位が発表されると、一喜一憂して競い合っていた。さらに、義務教育をおえて高校へはいると、大学を目指しての予備校生と化した。そこは学業を物差しにした、し烈な総力戦場でもあった。ここで自由を求めてタモトを分かち合った友も多く出たが、一貫して、出された問題に正解を出す努力をすることだけに集中することは、変わらなかった。

 

 大学で〈優〉の数を多く取り、一流企業や大きな機構に入り、37、8歳になると一次選抜がおこなわれるという、こう眺めてみると、人生や教育の制度とは、勝ち抜き競争であるかのようである。いわゆるサバイバルゲームなのか?

 人生ゲームの勝者は賞賛されるとともに、反面、うさんくさい目でみられることにもなる。高度成長時代の常に競争を強いられ、脱落していく犠牲者が多かった反省からか、ゆとりの時代へと転換されたが、ここでいかに生きていくかのロールプレイングのモデルは、まだ見いだせていないのである。

 

 とかくこの世は住みにくいとなると、ソウセキ先生のように、ドロップアウトして、詩歌や文学が生まれるのだろうが、昨今はSNSなどの発展により、なろう系のファンタジー小説(これは、シンデレラや白雪姫の新展開かと考えるが?)やYouTubeなど、いろいろ多面性があり、それで成功し生計を得る者もでている。

しかし、ドロップアウトの先進者であった文士たちが、はなやかな時代を築き、さらに、彼らは文壇という新世界を創造したが、評論家伊藤聖のいうごとく「文士たちが実社会の地獄から逃げ出して、文壇という僧院に入った」のだが、「今度はその僧院が地獄になった」という結果になったようである。

 

 社会の既定路線にのらずに、より自由に羽ばたこうとした、なろう系の小説や、youtuberの世界でも、ひとにぎりの成功者の陰には、無数の報われない者たちがいるように、どこの世界においてもシビアな競争が待ち受けているのである。NOTEにおいても、成功をつかむ者と、つかめない者、似たようなことが起こっていると思う。かように人が集団化すると、競争になり優劣がつくことは致し方ないことに思える。

 ただ、これらのネットワークに参加することに意義を見出す風潮も確かなものとして存在している。これらは、一面、社会が余裕があり、豊かになったたまものかと思える。

 

斎藤環が、『戦闘美少女の精神分析』において、オタク文化について述べているのだが、セーラームーンに始まる戦闘美少女にはまっているオタクはマニアで、倒錯異常者かというと、そうではなくて、普通の生活をおくりながらも趣味のいきでのフアンというべき存在であり、オタクにかかる部分はあくまで趣味の範囲として、それ以外については結婚もしたりして普通人として生活しているとのこと。

 いわゆる、ふた昔前の〈飲み、打つ、買う〉といった楽しみが、オタク文化へ変化したようなものと思える。ちなみに、現代の〈飲み、打つ、買う〉は、ドリンク・栄養剤を飲み、パチンコ・麻雀をうち、宝くじ・馬券・フィギアを買うということだろう。世間を気にすることなく純粋に自身の興味のみに生きることとなった。

 

 読書についても、自己紹介などで〈趣味は読書です〉が一般的であったが、今では過去のはなしで、読書が趣味とは、うさんくさく思われるようである。かように、時代はうつり変わり、さらに進化(?)を求めて疾走している。コロナが発生し、戦争もおこり、十年後にどう変わっているのかは予測がつかない。

 人の集まりであった会社などの大組織も、ネットでつながって、人と人とのダイレクトなつながりは希薄になりつつある。こういうシステムに変わっていくと、当初は、人恋しさを感じるのかもしれないが、次の世代になると至極当然、あたりまえとなり、当然にパソコン・携帯タブレットのみを頼りとする世代となっていくであろう。

 

 アナログはしだいに影を薄め、過去の面影をうつすことだけになるであろうと、アナログ作家は思うところであり、過去の遺跡になりつつあるのをヒシヒシと感じるのである。

 

 ところで、まつりごと、その構造・組織などを小説の題材にしている、アナログ作家が読んだもので、特に参考となったのは、『ピーターの法則』である。面白いと思ったのは、〈組織社会では、組織にいる人は自身の無能力のレベルに達するまで昇進する〉と説き、そこを生きぬくには〈無能力レベルに近付いたと感じたら、その一歩手前で軽くつまづいて、そこが自身のレベルと思わせることで、無能力レベルまで昇進することを避けることである〉とする。

 このことによって、その人は、〈自身の有能レベルにとどまることができて、仕事生活を、余裕をもって楽しんで生きられる〉としている。現実として、このような生き方ができるのかは、大いに議論のあるところであろうが、色々な考えがあるなと思わせる。

 

 表題にもどるが、ステレオタイプのない多様化の時代にあっては、自分らしい生き方が正解であり、正解というものは、その人なりにいくつもある。

 競争社会でもあるが、楽しみながら、自分に合った生き方をする。いい時代であると思う。


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