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アナログ作家の創作・読書ノート

「エッセイでいきまーす!」    おおくぼ系

                                                〈画・白尾 貢〉

          小説のゆくえ

 高校の国語教科書について、小説などの文学的な文章を「現代の国語」からのぞき、古典などとあわせて「言語文化」のなかにいれて、再編をはかったことが報道されている。これについて「評論文や実用文と、文学は別物」とするのはおかしいという議論がなされている。が、私としては、文学としての小説ではなく、たんなるエンタメ小説を書いているのでどちらでもよく、ささいなことに思える。

 ひるがえって、文学という概念はマスメディアの一端を担った活字・紙媒体の興隆と軌跡を同じくしているのではないかと考えている。
 古典的な話ながら、三島由紀夫が、『小説読本』において、「テレビの発達につれて、ラヂオはずいぶん衰退した」と書きはじめて、途中で一転して「……私が今までただ永々と、ラヂオのことを語ってきた、と人は思うであろうか? 実は私が語ってきたのはラヂオのことではない。小説のことである。小説は現在なお大部数の出版に耐え、ラヂオほどの日陰者になっていないように見えるけれど,本質的にはラヂオと同じ運命を荷っている」と50年以上も前に小説のゆくえを予言している。
 今、ふり返ってみてわかることだが、活字の娯楽が全盛のときにおいて、三島氏には今日のありさまが見えていたのだろうと不思議を感じる。

 かってイギリス大英帝国が世界を席巻して、現在にあまんじているように、大国の興亡のごとく、興隆するものは次第に収束していくのも当然の帰結なのかもしれない。ひとつの想いや考えをSNSでだれでも表現できる一億総作家の時代においては、小説も爛熟(らんじゅく)をすぎ、ライトノベル、なろう系など、それぞれの方向をめざしている。川西正明の『小説の終焉』では、小説は明治維新後の近代日本のかたちとともに成立し、『浮雲』は明治の世にあらわれた新思想と旧思想の対立を主題としていたとしている。そして、現在の川西氏は小説はその使命を終えてしまったと感じて、「小説は終焉した」と結論づけているのである。村上龍、村上春樹から小川洋子、綿矢りさ、金原ひとみなどの現代作家の存在をふまえつつ「これからも小説をかきつづける意思をもつ人は、『小説の終焉』が提示した世界を圧倒する小説を書いていただきたい。そうすれば小説は持続しつづけるであろう」と述べている。
 
 NOTEにおいては、特に長い小説は読まれにくく(読みにくく)、小話やエッセイが主流に思えるのだが、いままで小説の媒介であった紙の本、―-これは紙の文化でもあるのだが、紙の本では長編小説も読みやすいものに思える。
    装丁からして気いった、いい紙の本というのはいいもので、読むのがもったいなくて頁をパラパラとめくったり、一部をそっと読んだりして、また表紙を眺めたりするだけでうれしさがこみあげる。この感覚はデジタル世代にもあるかどうか? それはわからないが、長年紙に慣れ親しんできた安定感(郷愁)がある。このように製本された本(小説)をだしてもらいデビューするのが、今までの夢であった。が、現代ではだれでも本(小説)を書いてだすことができる。専門作家から一般化へと進化したのである。

    またも古典的ではあるが、岩波文庫の『小説の方法』と『小説の認識』は、わたしにとって、そのような愛すべき(?)良い本である。著者の伊藤聖は作家で評論家なのであるが、氏は同評論において大正期に発生した文壇というものをとりあげ、「文士たちが実社会の地獄から逃げ出して文壇という僧院に入った」と考えて、そこから「組織と人間」という新たな一章をおこしている。
    これは、小生も追い求めているテーマと同じで、伊藤氏が七十年もまえにこのことを鮮明にとらえていたことに驚愕している。

 文士が、いわゆる読者である一般人と画して集団化して、文壇という権威あるものをつくり出した。このことは、個人より集団がすごしやすいと同時に社会的に集団としてのエネルギーをもつことになったと考える。この発展過程は、個人の作家が集団化して同人として活躍する場を得ることと同じ類のものであると思う。
 ただ、専門集団化してひとつの作家社会を形成することは、伊藤氏が指摘しているように、文壇とは「色々な点で実社会の秩序とは違う概念によって、即ち世俗人、遊び人、博徒、芸人、革命家等の混合した観念によって形成された秩序に支配されている」とし、さらに「たとえばジャーナリズムという組織の中では、それの下請職人である文士や、それの組立工である編集者等は公然とは文化事業を良識によっているものと認められて比較的良質の人間あるけれども、その組織の構造の中では、歯車(編集人)や材料(作家)にすぎない」と論じている。

 このような歴史的経過を経て現在の紙本の小説があるのだが、いままで小説の作者はブランド(確かな商品?)となっていて、ブランドのある作品が読まれる傾向にあった。これが、なろう系の作品となると、人気投票によって作品の良し悪しが判断されて作者はおいておかれ、面白い(人気)作品のみが評価されるとのことである。もっとも生みだされれば作品は常に一人歩きする運命にあるのだが。

 NOTEというひとつのサロン的なクリエーター広場が開設されて、だれでもより自由な創作を発表できることとなり、形にとらわれないクリエーターの活躍が期待される。SNSの発展にともないYouTuberがあらわれたように、新しい何かの文化が形作られていくのは確かではないかと考える。
 最後に、みなさん、アナログ作家の小説もヨロピク!

     




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