短篇集Ⅳの周辺 その2(ナッキー姉の手紙)
アナログ作家の創作・読書ノート おおくぼ系
島尾敏雄という作家がいた。『死の棘』というスゴイ作品を書いた文学全盛期、昭和後期の文豪である。短篇集Ⅳの中の〈ナッキー姉の手紙〉は、了承のもと田中成子氏の実名を用い、彼女と豊嶋高雄(島尾敏雄)との交遊を軸にした短編小説である。文芸評論家の越田秀男先生から作品への丁重な評をいただいたので、ご参考までに以下に掲載します。
〈 評 〉 文芸評論家 越田秀男
(図書新聞同人誌評・文藝年鑑同人雑誌概観などを執筆)
砂原利倶楽部──砂漠の薔薇(さはりくらぶーさばくのばら)
輝美ママが帰って来るはずもないアンディを今も待っている。このひたすら待つ、とい うドラマの主人公は、妻問い婚時代以来、女と決まってましたね。たくさん歌が作られま した、ついこないだまで。
◇万葉10-2251:橘を守部の五十戸の 門田年稲 苅時過去 不来とすらしも(訳:秋の イ ヘ カ ド タ ワ セ カル ス ギ ヌ コ ジ 稲刈りは疾うに過ぎてしまったワ[約束の時が疾うに過ぎてしまったのに]来るつもりない のネ) ◇阿久悠『ジョニーへの伝言』:ジョニーが来たなら伝えてよ二時間待って
たと~
◇阿久悠『北の宿』:着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます
◇岡 林孝子『待つわ』:わたし待つわ いつまでも待つわ
──こうした感性も過去のものとなりつつあるようですね。
◇越純平『浪曲子守唄』:逃げたぁ女房にゃ未練はなぁいぃがぁ お乳ちぃ
欲 しがるぅこ の子がかわいぃ
桜花吹雪のオトコたち (さくら ふ ぶ きおとこたち)
作中の藤嶋崇志の自決、これを三島由紀夫の自決と読めば、作中の蔡巌平に「彼はナル シストじゃッどと。本質は文学少年よ。そイが、成人してから体を鍛ゆっこツで、武士に なろチしたとよ。小説家としっせえ剣を愛せばよかとが、ペンを捨てっ武士になろうチし たのがふて間違(ま)っげよ」と語らせた批判的言辞は、当時確かにありました。わたし なんかは、まったく背景が解らんちぃでしたが、なるほど、なんて思ったりもしました。 あれから半世紀以上が経過しましたね。
久しぶりに吉本隆明の『追悼私紀』の「三島由紀夫─重く暗いしこり」を読み返してみ ました。吉本は1924年生まれ、三島はその一年後、共に同じ時代情況を生きてきたわけで、 国家に身を投じることを不可避のこととして受容せざるを得ない世代でした。 寺山修司の〽マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや──は、い つだかも引用しましたが、寺山はかれらより十歳年下ですから、〈身捨つる〉ということ に対する深刻な思いは戦時下においてあったとは思われませんし、敗戦という衝撃もお二 人とは別種のものであったはずです。大江健三郎と同じ歳ですね。わずか十年の差だけで、 発想がガラッとかわります。
三島と吉本は同じ情況に立ちながら、まったく相反する方向へ進んでいきました。三島 はどこまでも〈身捨つる〉べき祖国にこだわり続けました。一方の吉本は国家自体の本質 と構造解明に向かいました。そして三島は自決という形で全てを放り投げてしまった。以 下は吉本が三島を批判する核心部分です。吉本は三島の何を批判したのか。〈身捨つる〉 べき祖国へのこだわりに対して? いや自決という行為自体にです。
《知行が一致するのは動物だけだ。人間も動物だが、知行の不可避的な矛盾から、はじ めて人間的意識は発生した。そこで人間は動物でありながら人間と呼ばれるものになった。 /〈知〉は行動の一様式である。これは手や足を動かして行動するのと、まさしくおなじ 意味で行動であるということを徹底してかんがえるべきである。》
人間が人間として生きるということは〈知〉と〈行〉の〝不可避的矛盾〟を生きるとい うことです。この〝不可避的矛盾〟とは何か、それは自然界の春・秋を延長し、夏・冬を 縮小しようとする人間の営みです。文芸活動もこの〝不可避的矛盾〟を生きる活動なので す。〈知〉と〈行〉は、人間にとって共に別々の〈行〉であり、それを弁証法で止揚させ たり、禅で合一させたりしても意味がない。
「飢えた子に文学は可能か」などという引き合わせは、大災害を前にしてお笑いは可能 かと言っているのと同じ。TPOさえわきまえれば可能であるに決まっている、というこ とです。
ナッキー姉の手紙(なっきーねえのてがみ)
この作品はおおくぼ系さんの作品の潮流の中の一つと、単純には言えない重要性があり ます。島尾敏雄の晩年の姿を映すものとして、佳作ですが、それに止まらない。ナッキー を私は実在の人物と理解しました。どうなんですか、ここが重要ポイントです。島尾敏雄 は戦後以後の日本の作家の中で第一級に属するものと思っていますし、また専門家もその ように認めているはずです。そういう作家が晩年、寄る辺としてナッキーとの関係があっ たとすれば、これは島尾敏雄を捉えるための、文学的にも、思想的にも重要なメルクマー ルとなります。
これまでの島尾敏雄に関する論考は、私などはほとんど読んでいないので、教えていた だきたいが、ナッキーの存在を捉えた論考や小説は存在するのですか。存在すれば、私と しては、ホッとするのですが、もし、存在しないとなれば、これは おおくぼさん 責任重 いですよ。小説のなかでおぼろげに影絵みたいに書く話ではない。おおくぼさんとの交換 文書の公開をした方がいいと思いますが、最低限度、ノンフィクション小説にしてもらい たいな、と思います。反響は絶大だと思います。
島尾の息子さんの挙動も重要ですね。島尾の遺品を古本屋に、私はその気持ち分かるん です。彼が幼児~思春期において、父親としての島尾はどうだったのか。父親としての島 尾と、日本を代表する作家としての島尾、この二人の敏雄、息子さんの混乱は大きい。そ こも、おおおくぼさんは意図されたかどうかはわかりませんが、小説は示しています。
銀色のbullet(銃弾)
構成が対句的で、リズム感があって秀作です。テレビドラマvs.その楽屋、二人の女優 ユカリvs.三条志穂、西郷隆盛vs.大久保利通、西郷隆盛の妻 島妻・愛加那vs.正妻・糸子─ ─そして〝かち合い弾〟! 結末もよろしい──《シンジといっしょに沖縄で暮らします》 ──最上の住処を見っけ!
(評は以上です)
*〈あとがき〉
島尾敏雄の遺稿を✕千万円で買い取った、かごしま近代文学館が、島尾敏雄の研究を行っているので、もっか、そこへ照会をしています。いずれにしても〈ナッキー姉の手紙〉を長編小説として書かねばならぬのか(笑)。すこしずつ手紙や資料を読みなおしながら、考慮中というところです。出版関係のみな様、〈ナッキー姉の手紙〉に関してなにか情報などがありましたらご一報ください。ヨロピク!