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アナログ作家の創作・読書ノート

「エッセイでいきまーす!」        おおくぼ系  

                  (イラスト・奥田鉄人)

  

           眠れぬ真珠

 YouTubeで鈴木喜一郎、初枝れんげ、石田衣良氏などによる小説講座が連載されている。それぞれをのぞいてみてのお気に入りは、キャラが面白くて波長が合う鈴木小説講座ラジオになったのだが、石田衣良小説スクールはアップ数も多く、たまにクリックすると、非常にオーソドックスな内容で氏のスマートな語り口は、小説界をリードしてきた自信に満ちている。

 石田氏については、いままで作品を読んだことはなかったが、テレビ出演等もあり、著名な作家だとの認識はあった。作品については、文芸雑誌「小説現代」において直木・芥川賞作家の小説特集が組まれ「クレオパトラ」という短編と出会ったのが最初だった。ただ、この号では、重松清氏の「俺の空、くもり。」という青春小説も掲載されており、思春期の異性経験物語が面白く読めた。石田氏の作品については、円熟世代が対象でこってりした大人の世界を描いて、淡々とした作品であると感じた。
 それがどういうきっかけか、このたび、『眠れぬ真珠』(新潮文庫)を手に取ることとなった。
 四十五歳の脂ののった銅版画家の女性が、十七歳年下の青年に恋するという、ナウさを感じさせる物語であり、とくに主人公女性の繊細ともいうべき心理描写の巧みさに驚かされた。小池真理子氏が同小説の解説で述べているのだが、「小説を書く人間は全員、両性具有である。男の作家は『女の眼』を、女の作家は『男の眼』を密かに具えていて、本人がはっきり意識しないまでも、それは折々、自作の中に反映される」とし、さらに「これは本当に、男性作家である石田衣良氏が書いたものなのか。たまたま、石田氏の作品と思い込んで読み始めただけで、実はこれは、女性作家の作品だったのではないのか、と。それほどまでに、本書のヒロイン、咲世子の描写には、男性作家が書いたものとは思えないほどのリアリティと迫力がある」との賞賛を送っている。

 男性作家が女性を主人公にすえることについては、ひとつには時代感覚というものではないかと考える。現代において、北方謙三ばりのオトコ(漢)を書こうにも男の感覚はどこを探しても見つけ出せない。仮に男を存在させたとしてもパロデイにしか思われないし、オトコは時代的に消滅して、もはや歴史小説や時代劇の中にしか存在しないのだ。オトコとかオンナという枠にとらわれずに自由に生きている現代は、やさしさにも満ちあふれていて、逆戻りはできかねるだろう。これも進化・発展の結末で、将来は論理回路で形作られたAI人種が席巻するかもしれない。

  『眠れぬ真珠』に返ると、この小説は熟年女性、咲世子の恋愛小説であるのだが、彼女は四十半ばにして、銅版画家として地位を得た。だが、いまだに独り身である。それが、ホットフラッシュを起こしたとき、助けてもらった手の綺麗な青年と出会って、年齢の後ろめたさを覚えながらもときめいていく。
    また、咲世子は版画の美を追求するアーティストであるので、随所に彼女の美意識に裏付けられた芸術論が顔をだす。愛の行方も面白いのだが、この背景(隠し味?)ともいうべき芸術に対する考え方がハンパなく、うならせるのである。
 すこし抜き出すと、
「版画でもそうだが、多くの人は完璧なものなど好きではないのである。どこかに愛すべき傷を一つ残しておくこと。それこそ愛される秘訣なのだ。それは咲世子が学んだ法則のひとつだった」
「自分を表現したいのなら、極限まで自分を透明にするといい。自分をなくして、個性を徹底的にそぎ落とす。それが完璧にできるほど、澄んだ空気の様に忘れがたい個性が作品を満たすだろう。無理やりつくりあげた『わたし』などすぐ剥げ落ちてしまうが、そうして得られた表現には、その人にしかだせない味わいが隅々まで濃厚に存在するのだ」
「普通の人たちのことをバカにしたらいけない。世の中に開いていく力がなくなるもの」
「セルフイミテーションは表現者の最大の敵ね」
「頭でわかるような意味など、遙かに遅れてやってくるのが普通なのだ。咲世子は言葉の人ではない。表現をこととする人間は、頭など悪くていいのだ。というより積極的な意味で、頭が悪い方がいいとさえ思う」
 このようなセリフが金字塔のごとく随所にうめられている、これがパール(真珠)なのであろうとさえ思え、石田氏の表現のすごさを感じた。
   石田氏は主人公が感涙する場面では、自身も涙しながら書き綴ると言われている。

 表現者を主人公にした作品は、私も表現者であるので、のめり込むほど大好きなのだが、石田氏以外に目を向けると、北方謙三の『冬の眠り』や画家を主人公にした『抱影』さらに能面打ち師の狂気ともいえる美意識を取り上げた『白日』がある。こちらは、オトコの匂いや感性をふんだんに盛り込んだハードボイルドであり、「男の眼」そのものの芸術論が込められている。北方氏がこれを書いた時期は、チョー長編の『三国志』を執筆している時期とかさなりで、氏は、『三国志』について、「『三国志』というのは。結局は男の夢が潰えていく小説であり、男というのは滅びの中に生きていく。滅びを目指して生きていく、それは、自分がハードボイルド小説でずっと書いてきたものだが、それをもっと明確に書くことができたのが『三国志』だった」と述懐している。
 オトコ(漢)は消えゆく時代なのであろう。


       (次週もエッセイをいきまーす!)


      


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