回遊16000歩
アナログ作家の創作・読書ノート おおくぼ系
久方ぶりに東都の友人が来鹿した。
午前11時半に中央駅で待ち合わせて、混まないうちにと〈ざぼんラーメン〉で昼食をとった。ここのサツマラーメンは、白濁した濃い豚骨スープが強烈な味を奏でる無骨な逸品である。ただ、塩分も多いので、スープを残さず完食すると、あとで喉が渇く。
食後しばらくしてタクシーで、街の中央にそびえたつ城山に登った。頂上の展望台は何の変哲もないところなのだが、火の島を背景にした市街が目前にパノラマ展開される名所である。
と、同時に、この山のもつ妖気、トラウマに触れなくてはならない。
ここは明治時代に、西郷隆盛をかついで蜂起した薩軍の終焉の地となったのである。政府をただすと意気込んで出立したが、熊本城で必死の抵抗にあい攻城戦にやぶれると、宮崎方面に敗退し、その後は覚悟を決め、ひとめ火の島を仰いでと血路をひらき城山に戻り、死に場所をここに定めたのである。
山頂の自然林の中に〈薩軍本営の跡〉の碑がひっそりとたたずんでいる。
客人とここを出発して、薩軍がそうであったようにつづら折りの道路をおりていくと、五合目あたりで防空壕を思わせる〈西郷洞窟〉にであう。ここにこもりながら西郷軍の残党は最後の対峙をしていたのだった。城山全体を包囲した官軍が、一斉攻撃をかけるという最後の日に、西郷は自ら突撃するかのように坂道を下り、下りきったところで銃弾にたおれ、付き添いに首をはねさせた。
われわれ二人も当時をしのびつつ坂道をくだり、〈西郷終焉の地〉との碑のある記念公園にいたった。ここまで万歩計は13000歩ほどをさしていた。
さらに私学校跡の石垣をまわりこんでいくと、石垣に当時の無数の弾痕あとが、刻まれている。ただ、これは、西南戦争のものだけではなくて、先の大戦時の飛行機からの機銃掃射の痕跡もまざっているらしい。
目先に、堀にかこまれた石垣のなかに城門が見えるが、これは近年になって復元されたもので、薩摩の鶴丸城は天守閣をもたない平城であった。堀に架けられた橋に、衛兵よろしく甲冑姿の武士が仁王立ちしていた。これは絵になると、ともにならんではい、ワンショットとなった。
少し進むと、小山の上に直立した西郷銅像に出会う。上野のひとえ姿と違ってこちらは陸軍大将の制服姿で、東の空をにらんでいる。サツマの地では、西郷どん人気はハンパなくて盟友で会った大久保利通は、郷土の敵に思われほとんど話題にのぼらない。銅像まで至ると西郷どん歴史ツアーもほぼ終わりとなり、街中まで脚をのばし〈扇屋〉という甘党の店で一休みとなった。ここには、じゃんぼ餅(じゃん棒、二本の棒)という郷土菓子がある。三センチ四方の焼いた角餅に二本の竹串がさしてあり、みそ味ふうの蜜をつけて食べるのであるが、けっこう美味であった。二本の棒はサムライの二本差しを表すと言われている。
で、しめに、当時をあらわすサツマの言い伝え? 〈サツマのぼっけもんに肥後のもっこす〉〈サツマの芋づるに肥後のひいきの引き倒し〉〈長州の議論好きにサツマの女好き(笑)〉
何のこっちゃ~? わかりますか?
あとご参考までに、前回述べた『西郷隆盛事典』のなかから系どんが執筆した「城山」の項目を掲載します。
城山(しろやま)
城山は鹿児島市の中心部を流れる甲突川の東側にどっしりと腰を下ろしている。青々とした楠の大木のなかを山頂へ上り、展望台から眺める桜島と錦江湾は絶景であり鹿児島市紹介の際の定番とされた。城山と呼ばれるとおり南北朝時代に上山氏の上山城という居城があったが、後に島津氏に明け渡され、山頂に本丸と二の丸をもち麓に居館がある鹿児島城(鶴丸城)となった。城山に上る要所は三か所あり、大手門のあった大手口が西側の現照国神社の横にあった。今は山頂付近まで急な階段が続く遊歩道となっている。北方面は新照院口とよばれるが、山の一部が高度経済成長時代の波にのって城山団地へと変わった。一角には草牟田墓地が残っている。東側は岩崎谷口で、岩崎谷荘という天皇陛下も宿泊された由緒ある旅館があったが、山を抜けるトンネルが設けられたため撤去された。この城山が西南戦争での薩軍最後の決戦の舞台となる。熊本城の攻防戦に敗れた薩軍は官軍が海路鹿児島へ上陸したことで挟み撃ちにあい、宮崎、佐土原、延岡方面に退き、宮崎方面を拠点とし西郷札を発行するなど再起を画策するも、官軍に比べて火力、兵力ともに劣り窮乏を呈していた。官軍が都城を抜くと投降する兵士も増えていき、さらに官軍は延岡に至り可愛岳、鏡山など丘陵に囲まれた長井村の小盆地に西郷と薩軍主力を取り込み、せん滅を期せんとした。西郷は本営となっている児玉家において陸軍大将の軍服、重要書類を焼き、投降するものは投降せよ、死を共にする者だけが同行せよと覚悟を決め、八月十八日午前零時にひそかに村をでて可愛岳頂上を目指した。その後、前後三軍に分かれて三井田に進出し第一旅団運輸出張所を襲って現金と糧米を奪い、高千穂、小林を経て鹿児島北東の横川まで出た。そこから吉田を経て辺見十郎太の前軍が鹿児島へ突入し私学校を奪還した。このとき長期にわたり転戦してきた薩軍の様相は、衣服は破れ顔はヒゲにおおわれ頬はこけて鬼気迫る無残ななりで、城山山頂に本営を置き土塁を築くも総勢は三百九十七人であった。九月二十四日午前四時、官軍の総攻撃に洞窟を出た西郷は岩崎谷を下り前線へ出たが銃弾を受け「晋どん晋どん、もうよかろう」と別府晋介に介錯を頼む。巨星が城山に落ち戦争が終結した。当時を山頂からたどると、ドン広場の横にある「薩軍本営の跡」を下り「西郷洞窟」に至る。さらに下った私学校跡の裏手に「西郷終焉の地」の石碑がある。歴史の旅はご当地でしかないものに接して、おやっという発見に浸るものであるが、西郷洞窟前の土産店にはいって店主の婆さんに出会った。芯の強いしたたかな弁舌に「サツマおごじょ」がよみがえり、郷愁をさそう反骨精神豊かな薩摩がにおった。〔参考文献〕畠中智耕『激闘田原坂秘録』(肥後評論社、二〇〇五年)、児島襄『大山巌』(文芸春秋、一九八五年)(おおくぼ系)
何の意味もない蛇足……〈おおくぼ系〉というペンネームは、西郷どんでは恐れ多いからと、大久保利通公の系列(子分?)を意味することに由来するとか?
(適時、掲載します。ヨロピク!)