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アナログ作家の創作・読書ノート

                おおくぼ系

「今回もエッセイでーす! 次回は小説でいきたいとおもいます。ヨロピク!」


       ひみつというインビ(淫靡)な響き

 まえに、読書の楽しみは、好きな時間に過去の人とも自由に会えることと述べたが、その意味で、読書は一種のタイムカプセルであると思う。このフレーズは『書店はタイムマシーン、桜庭一樹読書日記』と同じ発想かと思う。
 そして、本というタイムカプセルを開くと、そこには著者の〈秘密〉が隠されているのである。この秘密を発見し、秘密に浸り、全身で味わい、そこにいたるまでを、あれこれと、考えをめぐらし、作者の思いなどを再現し、共有することから同化して、自得のものとすることが、読書人としては無上の楽しみである。

 今、手に取った本は、寺山修司編『日本童謡詩集』である。
寺山修司は、昭和10年生まれで昭和58年に47歳でなくなった。歌人で劇作家。「天井座敷」という前衛演劇を主宰したとある。
 この本をいかにして入手したかは思い出さないが、手に取って頁をめくっているうちに、おやっ、という興味がわいたことだけは記憶にある。あらためて、本を眺めると三か所ほど付箋が張り付けてあるが、これも、いつ、なぜ、付けたのかは定かでなかった。
 最初の箇所は、〈網走番外地〉で、作詞者はタカオ・カンベとある。〈春に 春に追われし 花も散る/酒(きす)ひけ酒ひけ 酒暮れて/どうせ 俺らの行く先は/その名も 網走番外地〉~いよっー健さんまってました! ・・・東映ヤーさん映画のヒット作ではなかったか? これが童謡? 

次の付箋にあるのは、〈空をこえて ラララ 星のかなた/〉。これはみなさんご存じの鉄腕アトムです。これは童謡でしょう。しかし、ここで目を見張った。この作詞者はなんと、あの谷川俊太郎さんなのだ。しーしらなかった。アトムは星のかなたを飛び越えて、二十億光年のかなたへ飛んでいくに違いなかった。
 そして、さいごの付箋だが、どうしたことか、な、なんと、〈一つ出たホイのヨサホイのホイ/〉のヨサホイ節なのである。ごていねいに、一番から十番まで出そろっている。にやりとする以前に、出版規定に抵触しなかったのであろうか、との疑問が先立つ。パスしたのであれば、1992(平成4)年における、金字塔であり、〈表現の自由〉側の大勝利であろう。

 しかし、これが童謡とは? こちらが動揺してしまう(笑)。
 まえがきを読んでみると、

――すぐれた「童謡」と言うものは、長い人生に二度あらわれる。一度目は子供時代の歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。
――かならずしも唱歌やわらべ唱ばかりでなく、CMソング、軍歌、春歌などにまでおよぶことになった。どんな唄でも、それが私たちの子ども時代にあった唄ならば、私は「童謡」としてあつかうことにした。
――何年か前に、ジャイアント馬場に会ったときに、彼は体の大きさに似合わぬような弱音をはいた。それは、平均的なものを優先する社会が、彼のような規格外の大男をどのように疎外してきたか、ということであり、もはやヘラクレスのような英雄は,見世物にしかなれないのだ、といったようなことであった。
 いやなことが重なると、ワシは唄をうたうんです。と、ジャイアント馬場が言った。 
 何の唄? ときくと、「砂山」ですよ、とこたえて、唄いだした。
   海は荒海/向こうは佐渡よ/雀泣け泣け もう日は暮れた
 新潟出身の馬場にとって、それは望郷の童謡でもあったのだろう。

 なるほど、そういうことかと幾分かの納得がいった。このあたりが、この童謡詩集の秘密であり、童謡詩集とうたってはいるものの、読者は子供のころをなつかしむ、大人であることがわかった。で、ポルノチックな春歌が堂々とでてくる童謡詩集とは、小説の中でセックスシーンが出てくようなものかもしれない。となると、それほど、深刻なものでもないか? とも思える。
 森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』が、発禁になった時代からすると、雲泥の差があり、みわたすと官能小説も自由自在、きままである。男女の秘密は、白昼にどうどうとさらされて、秘密の匂いが消え去った。日本経済新聞の発行部数に貢献したという渡辺淳一の『失楽園』を取り上げるまでもなく、今では、ポルノ小説を書くための『官能小説用語表現辞典』(ちくま文庫)なるものもある。

 ただ、外国をのぞむと、英語版の『SEX』というペーパーバックのマニュアル本があるが、これは、また、あっけらかんとして、セックスに関することが、イラスト入りで微に入り細に入り書かれている。男女の成長から、性交の方法、テクニック、年齢と性欲、さらには、同性愛や変質者、レイプの割合など350頁に渡りのべており、これを所持すると性の秘密は秘密でもなんでもない。国による文化の違いはまことに大きいとおもう。

 こう考えると、日本の性は、私小説としてあらわされる、私という一人称の恥(秘密)文化なのだろうし、小説は他人の人生の〈秘密〉をのぞき込む楽しみなのだ。

 人が生きるには、まだまだ秘密であることが、ありふれているように思え・・・読者とともに秘密を共有するというワクワクした淫靡の想いで、このエッセイをかきあげることが出来た。ヨロピク! でした。


          (次回もヨロピク! ピク!)


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