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アナログガール

アナログ作家の創作・読書ノート   おおくぼ系

 

 昨年、一年をかけて連載小説をつづり、日々放電する生活を送った。年末にどうにか書きおえると、さすがにすべてを出しつくした感がある。

 年もあけたが、いまだ、ほうけている。

このような情感を三島由紀夫は、〈小説読本〉において、〈最後の一章を書くときの昂奮と幸福感はたとえようもない。しかし、書き終わって、昂奮のさめやらぬ一夜が明けると、何とも言いようのない虚無感に襲われるのが常である………この虚無感がもっとも似ているのは、むしろ性交のあとで男性の感じるあの虚無感なのだ。彼は酒を飲む。何日かたつ。そしてまた、同じ虚無感に到達するために、原稿用紙に向かうのである〉と述べている。

 

作品を生みだすとは、そんなものかと思いつつ、束縛の日々から解放され、与えられた自由時間をぼーっとしながら、うろうろと本をあさったりして、執筆のエネルギーがすこしずつ充電されてゆく感覚を楽しんでいる。

予定がなくて、自由のみがあると、気持ちはワクワクして、久方ぶりにNOTEの他の作品も眺める余裕ができる。

あちこちとめくっていると、緒真坂(いとぐち・まさか)氏のコーナーで、なぜか〈アナログガール〉という作品に出合った。こちらの系どんは、アナログどんでもある。アナログガールとは何かを、書いた小説? 謎を解明したくて、さっそくアマゾンで購入したのである。

 

小説を読む面白さは、林の中を散歩し、森のなかに迷い込みさまよう、また、高くそびえる広大な山のすそ野に立ち、すそ野から木々と雑草の間にもぐりこんでいく感覚である。静寂をともにする孤独な散歩であり、散策となり、探検ともなる。

 

届いた〈アナログガール〉は、新書版スタイルの短篇集で、本のタイトルとなった〈アナログガール〉ほか、〈だって二十九といったら就職する年齢としては、ぎりぎりでしょう?〉〈コク―〉の三篇からなっている。いずれも若者をえがくパンチのきいた作品である。

基本はミステリーサスペンスに思えるのだが、サスペンス度合いが、三作品の一作ごとに深まっていき、読む者は現代の感性や風俗のなかで、ともに生きる感覚になる。この辺りが面白い。

 

最初の短編は、〈自分の夢にきっぱりと見切りをつけることも大事なことなのだ〉とのフレーズのごとく、軽いノリでの謎解きなのであるが、二作目は白骨死体と友達になりながら、自殺死の真相を突き詰める。メイン作の〈アナログガール〉は、ジャズの軽妙なリズムにのりつつ、〈猿は猿を殺さない。でも人間は人間を殺すのです〉のキーフレーズをストーリーにして展開したものであろうか? その概念を〈アナログガール〉のネーミングに込めタイトルにしたかと思う一方、デジタル的で多彩な展開のなかで、流れるようなメロデイーが激しくなり、いくたびか突然に転調へと変化する。そんな味わいがあった。

ネタばれをしないために、これぐらいにするが、作者は、早稲田文学、江古田文学などで活動する気鋭の作家で、各文学賞も受賞している。地方在住の系どんからすると、作者の活動の場からして優位なものがあり、それなりの実績を積み重ねていることから、今後、どういうふうに活躍していくのかが楽しみである。

 

小説は、マスコミと違って間口が広い。マスコミが報道しにくいことも、活字にのせて、いともたやすく人を殺したり、悪事を企てて億万長者になったりができる。

そういう無限性のもとに、何をいかようにとりあげるかが、作品の個性であり質であり、作者の生き様でもあると思う。

 

自身のことで恐縮ながら、かつて社会派の中間小説作家と位置付けられた。その心は、実社会をモデルとして客観的にながめており、それが非常に面白いからだといわれたが、社会派の小説を書くために必要なことは、経験と取材にあると考える。

事件や事故との遭遇、また、いろんな面白い人物との出会いなど、親しみを込めて書き残したい思いがつのった結果である。

ただ、現役時代に〈本読むことも大切だが、人を知れ〉といわれたことがあったが、社会を生きるには、これも真理であろう。

日々の生活からして、ひいては人生は、どんな人と付き合い交友し合うかは、運にかかるということであり、いい人々(?)と知り合うことで、良い方向へ導かれていく。さらに以前から述べているように、作家が、世に出るには能力は当然ながら、いかに多くの〈推し〉を、いかに多くの良い読者を獲得できるかにかかってくる。

膨大な推しによって祭り上げられると、ベストセラー作家になれるのだが、某作家は、Youtubeにおいて、〈よく問われることだが、作家になるには実力と運のどちらかですか〉と言う質問に、半分半分と答えている。

 

あれやこれやと自由に本を手にとっているのだが、〈アナログガール〉と併読していたのは、山崎豊子の〈仮装集団〉である。これは、週刊朝日に一年二か月にわたって連載された長編小説であり、けっこうな量があり、どっぷりと浸かりこんだ。

主題は、労音(勤労者音楽協議会)をモデルとした、労働運動と音楽芸術論を対比させたダイナミックな力作である。ただ、モデルを労音としたことにより、労音は最初は取材に協力的であったが、新聞の連載が進むにつれて取材拒否になったのである。

山崎豊子は、綿密な取材をもとに社会的問題を超大作として書きあらわす作家で、司馬遼太郎とともに、国民的作家であると思う。

ことに〈不毛地帯〉は、よくぞここまでと思えるほど、戦中、戦後、高度成長時代を余すことなく書き出し、ものスゴイ取材の量の蓄積を感じさせるが、このような社会小説をかきあげたことは驚嘆するとともに、系どんの最愛の一書となっている。

こういうチョー大作の取材が可能であったことは、山崎豊子氏のタフネスぶりもさることながら、女性であったからだと密かに思うところである。

 

話はとどめもなく、あちこちに飛ぶが、昨年〈海の沈黙〉という映画を見た。これは孤高の画家による贋作問題をあつかっているが、背景は〈永仁の壺〉事件をモデルとしていて、芸術とは何かを追求している映像作品である。系どんとしては、芸術論を述べるつもりではないが、芸術は、社会的に、あるいは人々に何らかの余裕がない限り、繫栄しないのではないかとの仮説を信じている。

 

ともあれ、安心安全、平和な今日において、〈アナログガール〉という森のなかで迷路の散策を楽しみ、山崎豊子という巨大な密林にまぎれこみ、無事に本の山の登山を終えたことを、至上の喜びとするところである。

読書の余韻に浸りながら、取り組むべき新作について、あれやこれやと手探りを始めている。


*適時、掲出します。読書士の応援ヨロピク!



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