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【映画履歴】『マッドマックス:フュリオサ』を観る

積ん読同様に、映画を買い集めるだけで鑑賞せずに放置する「積ん鑑」が溜まってきた。そんな作品の一つである『マッドマックス:フュリオサ』を観た。

『マッドマックス:怒りのデスロード』の前日譚であり、『怒りのデスロード』に登場したシタデルの大隊長、女戦士フュリオサの若き日々を描いている。本作『マッドマックス:フュリオサ』では、マックスはワンシーン(片腕になったフュリオサを崖の上から眺めているシーン)にしか登場しない。行き倒れになったフュリオサが引き摺られるシーンでは、マックスが彼女を運んでいるかのように思わせる演出がなされているが、そこはあえて明確には描かれていない。憎い演出だ。

前作同様、終末世界を表現する美術の作り込みが見事だ。本作では、前作以上に二輪と四輪を駆使したド派手なアクションシーンが映像として際立ち、観る者の感情をぐいぐいと引き込んでいく。バイクや車のデザインへのこだわりは並々ならぬものがあり、悪と善を感じさせる演出は、映画手法の教科書とさえ言える見せ方だ。

時に、貫けば世界観が一変するということを感じることがある。第一作「マッドマックス」、第二作「マッドマックス2」、第三作「マッドマックス/サンダードーム」までは、あくまでマックスがヒーローであり、その彼を取り巻く世界観が終末世界だった。

しかし、『マッドマックス:怒りのデスロード』から本作『マッドマックス:フュリオサ』に至るまで、明らかに世界観ありきのマックスへと変わっている。この違いは大きく、創作が突き抜けるための妙技に感嘆させられる。漫画的な演出や表現がリアルに感じられるのも、この世界観の作り込みがなせる業だ。第一作「マッドマックス」では想像できなかった世界が、今ここに存在している。

漫画「北斗の拳」が「マッドマックス2」なしには生まれなかったように、『マッドマックス:フュリオサ』もまた存在しなかっただろう。しかし、ネット全盛の今では、物を単純に比較し、模倣することが容易になり、独自の世界観を作り出すことの難しさを実感することが少なくなっていると感じる。今観る多くの作品における終末世界観は、「マッドマックス」をひな形としているものが多い。

自分が創作したアイデアは、少なくとも同時期に5人が同様のことを考えていると心得るべきだ。そう考えると、映画における歴史年数を積算した以上の同時多発的な創作アイデアが存在するわけで、心して取り組まないと盗作や模倣とされてしまう危険がある。少なくとも、世にいう名作は知っておくべきなのだろう。

シャーリーズ・セロン演じるフュリオサも素晴らしかったが、本作でアニャ・テイラー=ジョイが演じるフュリオサは、少女から女性、そして戦士へと成長していく姿を彼女の強烈な眼差しが印象づけていて、とても良かった。


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