シキ外れ

第三章

コン~コン

「どうぞ」

「お邪魔します。今日は慌てて、手ぶらでやってきましたけど、伊江さん、お久しぶりです。お身体はいかがですか」

 李鳴は呑気そうに黒い小型革製の箱を茶色の円卓の上に置いてから、箱から茶色のノートと黒い万年筆を取り出した。

 「李さんか、お久しぶり。見舞いのものなんてどうでもいい。体なら、全然平気、大丈夫。そんなことを、それよりお前の言い方は相変わらず水臭いね。まあ、好きにしろ。最近仕事はどう、久しぶりにあっちのことを聞いていないから、寂しくてたまらないな」

「まあ、前とはあまり変わりませんが。まあ、ずいぶん前からしていませんでした。記者に関わることは。せいぜい暇の時には、前のことを振り返るたびに、やっぱり李さんと過ごした時は最高でした。思うと胸の中に何かが湧き出る気がします。最近のニュースはほとんど価値のないもんばかりで、本当に目に染みました」

 李鳴があくびをして、たらたらと文句してばかりいる。

「それは褒めてくれるとしてもいいの。よく喋れたね」伊江圭が李鳴の言葉に乾いて一笑に附した。

「まことに心を込めた言葉でしたよ。私のことなら、伊江さんより分かってくれる方が決していないんですよ。もちろん、伊江さんがそのようにお考えになったら、誠にありがたく思います」李鳴が真面目な表情をして、大声で恭しく建前を唱える。

「建前はどうでもいい。いい加減にして。そういえば、李さんの肺は最近、大丈夫なの」

「肺なら、タバコはもうやめていますから。多分、大丈夫ですぞ」

「李さんは相変わらずな。何か決めた以上、すぐに全身全霊を打ち込んで、うまくできるリアリストの達者みたいな人だな。こっちは、そんなものって、若い女性の体の匂いより一層特別な香りがあってみんな形はほとんど変わらないのにそれぞれの匂いの持ち物それに溺れてたまらない。もし病気にかからなかったら、やめるわけねよ。そうそう、言ってるうちに、一本やりたくなってきた。李さんなかなか偉いね。」

「同じなんでしょう。ただ、生き延びたいにすぎないです。死ぬまでに孫の顔が見たい望みを死神さんに許してほしいだけです。この前、いざ煙草を吸いたい欲望がでるとそれを思って、自分のことを戒めて、吸いたい気分もなんとなく納まってきました。」

「それは、それは、立派なお爺さんね。もう何ヶ月か、」

「もう4ヶ月になってます。」

「李さんのなら、信じてるよ、ずっと幸運の女神に恵まれている李さんだからこそ、お孫さんを一人前くらいの大人になるまで、ずっと笑顔で見守っていってあげられるだろう。」

 「それは何よりです。お言葉に甘えて、ありがとうございます。そう、あのうた、見つけましたよ。この前偶然雑物を始末していた時に見つけた」

 李鳴は言い終わってから、円卓にすばやく近寄って、じっくり黄ばんだ古く見えそうな紙を指で挟んで出して布団の上で広げた。

 紙には「時雨止み こきゅうつきき  丘つ塔 王ぞをりらむ 前かへるまじ 」といううたが書かれている

「これ、あの時の、せいじゃくなところの、そこの静かさを」李鳴が激高して、震えながら意味不明な言葉をぶつぶつ話し始める。

「ちょっと、妙な気がした。懐かしくて、暖かくて、でも、いくら考えても、思い出せないんだ。」伊江圭が言っているうちに、顔色が暗くなって、いくつ粒の涙が流れ落ちた。

「これは最後の翻訳でした。」李鳴が茶色のノートを開けて、
「寒冬骤雨过 
 寻道至虎丘
 闻王眠丘塔
 无道折春秋」と書かれている四行の文字を伊江圭に突き付けた。

「もう何十年前のことでしたっけ。息苦しかった時の悪戦苦闘を抜いて、もうずっと前のことでしたけど、何か思い出しましたか。」李鳴が何粒の涙を拭って、ティッシュペーパーを丸に撚り続けている。

「ちょっと、ちょっと、目眩が、せんせいを呼んでもらっていいの、先生を、」

 きっちり目を閉じる伊江圭が喘いはじめて、震えている手でつっと布団を掴む。

「あ、あの、せんせいはどこ」顔色の蒼白くなった、慌てて万年筆やノートをケースの上に放下した。

 李鳴が立ち上がるところへ、

「壁に赤いスイッチを押せばいい、頭、ちょっと重くなったみたい。なんだか、言葉も、」伊江圭は光に当たられないように、目をかっちりと瞑って、震えている右手の甲で顔に覆う。


 一分たりとも過ぎなく、四名の白ずくめの服装をした医者からなる緊急事態対応のチームが呼吸器やいろいろな錠剤を載せた皿を持ってきた。


「すみませんが、これからすぐに伊江さんの救急をしますので、室外にお待ちください、ご協力に誠にありがとうございます。」医者が言うか早いが、機器を立ち上げて、速やかに呼吸器を付けてから、応急手当を始める。

 がちゃんー

「どうしましたか。さっき廊下から急にぱたぱたした足音がして、李さん」
 トイレを出た伊江奈々子が医者に追い出されたような李鳴を見かけて、びっくりしたあまりに言いよどむ。

「あ、伊江さん、」

 こわばった顔をしていた李鳴が右手の人ざし指で部屋を指して、焦るほど言葉を何度も言いかけて、言い直して、ようやくはっきりと言い出した。

「伊江さんが気絶してしまった。念のため、早く伊江武を戻してくるほうがいいと思います。」

「え?気絶って!」たまが出るほど呆れた伊江奈々子が手を口に当てて、人形のように佇むようになった。

「いや、こっちも説明できないんです。とりあえず、伊江武を呼び寄せたほうが、」

 青ざめた顔色の浮かんでいた李鳴が一気に同じ言葉を何度も復唱して、ようやく五里霧中の状態を抜け出した伊江奈々子を呼び覚ました。彼女が言われたとおりに、それに慄いて、震えている手で携帯を取り出した。


「じいさんは、じいさんは、」

 しばらく経って、ドアが開けられた音が立った。汗に濡れた伊江武は全身の力を使い切ったように、喘ぎながら、壁に寄りかかって、李鳴と伊江奈々子のところに足を引っ張ってゆっくりと近づいてきた。


「デザートなんて抜いたら命を落とすんじゃないですか!」


 伊江奈々子が怒って叫んで、ぱっと伊江武のところに飛びかかっていくところを、手首を李鳴にしっかり掴まれて、必死としている。

 「ちょっと、伊江さん、頭を冷やしてくれ、お息子!、お息子よ!」

「あ、そう、そう、息子、あ、どうして、どうして、こんなことになってしまいました、嫌だ、もし、もし、あの時、李さんの言ったことに聞けば、南谷もきっと、きっと、きっと帰れます、でしょう。そうすれば、お義父さんも武も、そんな理不尽なことに、」

 伊江奈々子が突然に素っ頓狂したようにより大きくなる歩幅で左に、右に、歩いては止む、歩いては止んだ末に、壁に縋って、すすり泣く。

「伊江さん、やめてください、しっかりしてください、もう過ぎたことは変えようとも仕方がないでしょう。死んだ人が蘇れるわけがないでしょう、もう数年も過ぎましたでしょう。伊江さんが、今、もう一度現実に背を向けたことは、その日の誓いに背を向かせるには違いがないでしょうか、伊江さん!どうか、現実に向き合え!」

 獣のような咆哮した声に呆れた伊江奈々子は目元の光がぱっと消えて、がっくり首を垂れて、バランスを壊して、跪いてしまう。
 
「おじさん、なんでお母さんを泣かせますか、おじさんの顔色も怖すぎますよ!ウワワー」

 女のすすりの声と子供の号泣の声が廊下に木霊する。


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