第七章
「外国人フロント再開のことは定まっているらしい。部長の席に戻る日までは多分遠くないはずだね」
「えーこれはこれは、なかなかおめでたいことだね。というと、言われたとおりに鐘明景があっちに行くことになるだろうね、」
「え、そのとおりだ。とはいえ、」任遠帆の話が急に途切れた。
任遠帆が長く溜め息をして、タバコをつけて、ぐっと吸い込んだ。
「難しいのは難しいとはいえ、簡単なもんだけど。あの、インターンシップの学生には日本語ができる人いるの、なんでもいい、一言くらいの挨拶でもいい、いるの」
「へっ、いきなり。すみません。そこまで調べていなかった。少し時間をくだせば、」
「えん。見つかったら知らせてきて。たしか二つの学校からの学生は全部旅行の学部なんだっけ、それならちょっとまずいなあ」
「あの、一言言うべきかどうかは知らないけど、」
「他の人がいなくて、遠慮しないで、言おう」
「専科なんて学校を卒業した学生から、まして別科として勉強していたなら見つからないのではないって思うけど、ひと言の挨拶しかできない人って言われても、まあぺらぺら話せる人は探すなら難易度が恐らく思ったより」
「相当迷っているよ。私も。鐘明景は985、211のではなくとも、せめて一本の学生だね。まあ、今度は彼もインターンシップの身だけど、彼らと比べたら大した者だ。だとしたら、いっそう日本語専門出身の一本、二本大学生を募るほうが適当だと思わないの。もちろん、専科の学校から卒業した学生には外国語がペラペラ話せる人がいないのではないけど、さすが今の学校には英語が第一位の外国語になっているだろう。旅行を専門として習っていて、また二つの外国語ができることって、多分無理なんだ」任遠帆が苛ついて言っている。
空気さえ焦燥感に炙られてひびが出るくらいの暑さに汗を掻いて、とうとう気も抑えきれなかった男の人が口を開いた。
「では、どうしたらいいの、」男の人が確かに手を上げたらしい。
「求人広告を載せてみたけど、そのくらいの給料なら恐らく効果が出ないかもしれない。最近の求職申し込み書を多く見たけど、ぜんぜん駄目だよ。明後日各部の部長が教室に集まることになる。外国人向けのフロント再開の会議だ。あった、あった、学生たちが各部に割り振られる前に『誰か日本語ができるの』って聞けばいい、もし日本語ができる人を見つけたら、すぐに知らせて」
「はい、わかった」
「えん、私はまた応募者についての資料をもう一度確認しよう、とりあえずこれしかないんだ」
「では、お先に」男の人がまた何を言おうとするように見えたが、やがてその微動した唇を噛み込んだままオフィスを立ち退いた。
間もなく、任遠帆がオフィスを離れた。
「あら、もうこんな時間なの、ったく」任遠帆は携帯を見ながら、つぶやいた。
「任さん、今日の夕食はどう、っていうか、まだ食べていないだろう」話し手は黄ばんだ古いシェフのような服装をしている。
静かな廊下に響き渡っているきつい声に皺のついた皮膚が加わって、いかにも任遠帆の年に近い人なように見える。年齢だけではなく、薄暗い廊下で幽かな灯りに描き出されたぼやけた影の線まで非常に似ている。
「あ、ごめん、今日は忙しくて、つい」その声の方向へ任遠帆がぐっと振り返る。食堂の側からこそだ。
「もったいないなあ。最近新人のことで、料理の種類も多くなってきたのに。‘任部長’知らないわけでもないだろう」
「仕方ないんだよ、仕方ない。忙しくて、食べないことにすることがある。よくあることだから」
「最近、家族のほうは大丈夫なの、息子がもうすぐ高校三年に入るだろう、妻のほうはどう」
「実は最近息子の成績のため、もうけっこう口喧嘩しちゃった。恥ずかしいながら、先週危うく離婚しちゃうところだった。友達の口説きがないと本当に想像できなかった。今日もまたこんな時間になってしまった」任遠帆が文句を言いつけているところを、携帯が鳴り出した。
「本当に噂をすれば影だね。あの、ごめん、今度出ないと大変なことになるので、普通『家に戻れ!』って急かされているはずなんだけど、ご飯は明日、明日きっとね、」任遠帆が一礼をして電話をしながらエレベーターに小走りに向かう。
「はいはい、ごめん、ごめん。今日は仕事なので、わざと約束を破ろうつもりがないよ。だから本当に緊要なことだから、なんであのことをずっとこじらせているの。勘弁してくれよ、いま更衣室に行く途中だから、家に着いたあとはしっかり話し合おう。いいの」
電話の向こうは任遠帆の妻こそだ。更衣室までずっと任遠帆が柔らかな口で許しを求めていたが、渋い顔だけから見たら相手は相変わらず態度を変えていないようだ。
「もういいだろう。もう更衣室についたから、後で」更衣室に入ると同時に任遠帆が電話を切った。
「偶然だね、」
「あ、陳さん、仕事もう終わったの」ホテル係り専用の通路の出口前の空き地で、買い物をやってきたばかりのの穎毅然と袁章が陳欣明と鉢合わせた。
「終わったっていうより、まだ始まっていないんだ。夜勤だから、まだ時間があるから、空気が良くなくて、寮にいられなくて、ちょっとタバコを吸いに来た」
「え、夜勤?っていうか、私たちにもそのような仕事があるの」袁章が袋をそばに一時に置いてからライターを出して、陳欣明のタバコをつけた
「あ、どうも。お前らだったら、言い切れないね。もし私のようにフロントのほうに手配されたら、夜勤の可能性があるかもしれないけど、インターンシップの人には、特に学生の身だったら、夜勤に関係がある仕事の可能性が低いけど。そう言っても、そもそも深夜の頃でも働かなければならないところといったらフロントだけだ」
「そうか」
「まあ、まあ」陳欣明が嘆いて、一本吸い終わった。白くて濃い煙が水に溶け込んだ白い粉末と同じようにあっという間に夜色に溶け込んできた。
のんびりと喋り合っている三人とは変わって、出口を出てそそくさ歩いている任遠帆だ。
「お願い、お願い、もういい加減してもらえないの、だから、もう全力で歩いているから、もういいの」大声で叫び終わってから、携帯をポケットに納めた。
怒りも無力さも悲しさも溢れそうに聞こえた大声に視線を奪われた三人では陳欣明が一番だった。
「任部っ、任副部長、こんばんは、」陳欣明が礼儀正しく挨拶をした。
「陳ちゃんじゃないか、こんばんは」その人を見た同時に任遠帆は張った顔の筋肉も少し緩むように見えた。
「当たられちゃった。ほんとうに仕方がないやつね」任遠帆が三人のほうにもう一歩近寄った。
ほかの二人でも話筋を掴んだようだ。一斉に「任副部長、こんばんは」という機械めいた声を上げた。
「こんばんは」任遠帆が微笑んで頷いた。それから二人を完全に無視するように陳欣明だけと話を続け始めた。
「忙しく見えるけど、大丈夫なの、」
「平気、平気、女房の性格がわからいものではないから。タバコ、吸うの」
「あら、めっちゃ高そうなタバコだね、遠慮なくいただいた」
「おっと、忘れかけちゃった。お二人、吸うの」
「結構だ」穎毅然も袁章までも遠慮した。
「そういえば、さっき、友達に出会った。廊下で、」任遠帆が夜空を見上げながら、うっかりと話している。
「え?こんな時間、誰なの、」
「ハハ、教えあげよう、それはもちろん、」突然、任遠帆は感電したように身が激しく震えだした。それとともに張っている両目の玉も急速に回っている。
「任副部長、どうしたの、大丈夫なの」陳欣明が慌てて任遠帆の体を支える。
「気にしないで、ちょっと疲れ気味だ。ちょっと疲れただけだ。今日はマイカーでないほうがいいかも、タクシーにしようか」完全に血色が見えそうな顔をした任遠帆が幽かな月光を浴びて、一際に不気味そうに見える。
「やっぱ薬を飲んでおくほうがいいかも」
「そう、そう、どうも」任遠帆が慌てて小瓶を揺らしていくつの錠剤を飲み下した。
「今日はお宅まで送らせていただいたらどう」
「そこまで必要がないんだ。結構だよ」任遠帆があっさり断った。
「しかし、」
「一人でもいいって言ったんだろう。邪魔するな!」任遠帆が叫んでひたすらと距離をおいた。
突如と次から次へとの激変は末の唸り声も相まって、ほかの二人がそれに呆れているほど呼吸すら忘れていた。
薬を飲んだばかり、任遠帆が速く遠くに消えた。
「ごめん、今日のことをなかったことにしてくれないの」陳欣明が二人をじっと見つめている。
「あ、はっはい!」穎毅然がそれに何度も頷いた。
「それは一体?」穎毅然が袁章だけ聞こえられるほど小さい声で聞いた。
「多分、いや、それは聞くべきではないことだろう。言われたとおりに見なかったことにすれば十分だ」袁章は真剣に言い切った。
「さあ、さあ、どうしたらいいの、」袁章が背を向けていてタバコを吸っている陳欣明をちらちら見たりした。
「じゃ、これならどうしよう」穎毅然が置いてある二つの袋を指してみる。
「それもそうね、帰ろう。大したことではないし、どうせそのことを言及しなければ、向こうも多少気楽になれるかもしれない。つまり考えすぎるんだね。いつものままでいい、いつものふりで」
「じゃ、行こう」
二人が行ったばかりで、陳欣明も帰りの道に踏みだした。エレベーターを降りてからじっと携帯を見つめている両目に複雑な色が映えいる。廊下に響いた足音が大きくなるとともに、色も深くなっている。
廊下を通り抜けてまた前へ何歩もして右折するとガーデンに繋がっている地下トンネルだ。
配電室とホテルの修理を担当している係の仕事部屋はここに設けてある。
通路のつきあたりの扉を開けて四階登ったら露天ガーデンに着ける。直接と繋がっているので、階段でもお踊り場でも二人で並んでいけないほど歩きににくいごく狭いところだ。もちろん、扉の右にエレベーターが設置してあるが、専用のカードでないと使えない無用の長物にすぎないと思われている。
「なにをしているの、お前!」
白い髪がついて少し痩せた男の人が大いに怒って大声を出した。後ろについた二人の若い人が男の視線を追って、陳欣明を見た。
誰でも蒼色ずくめの厚そうな作業着をしているが、一番目の人のはずいぶん草臥れそうだ。
ただボタンを押したという動きに憤んだ不満な気持ちに満たされた声には陳欣明は怒るのも驚くのも少しもせずに、ただ微笑んで身を回した。
「へっ!陳ちゃん。陳ちゃんじゃないか。わるい、わるい。まったく、なんだかフロントの背広をしないと、見分けられないんだ。わるい」男がエレベーターの前に立っている人の身分を確かめると速歩で寄っていく。
「新しい服だから、平日より一層格好良く見えるだろう、ハハッ」
「そうだ。そうだ。新しい服をするともっと元気になるね」
「って、こんな時間なのに、まだ働いているの」
「実はね、ちょっと長いけど、」
「チン」エレベーターが開いた。
「あ、開いた。入って話そう」男が手を振って、後ろの二人の男の人をエレベーターに乗らせてきた。
陳欣明がカードでエレベーター起動の電子ロックを解除した。
「チン」赤い光が青いのに変わった。
「やっぱ陳ちゃんのカードはまだ使えているね」
「どういう意味?」
「外国人向けのフロントが開いていたころは一日あっちへ三回もおかしくなかったけど、その時カードはまだ効いていたけど、後はうちのカードはアップデートで消磁されて、新しいのを替えてくれた。それ以来このエレベーターが起動できないようになっている。先月うちの部に入ったばかりの新人が一人で仕事でここを通りかかった時、都合のためにエレベーターに乗った。あいにくあの日はエレベーターの調子がちょっと狂って、何度もカードの認証失敗になったあげくに閉め込まれた。
普通ならばうちのカードでも起動できないのに、その事故のため、部長に散々叱られてしまった。そうだ、あっちのことって、まだやっているの」
「あっちのことって?」
「もちろん外国人向けのフロントのことなんてさ、ほら、今使っているカードはあの時と同じものなんだろう。うちのはもう変わった」
男が見せたカードは青いのに対して、陳欣明のは茶色のだ。
「あっちなら、こっちよりもっと知っているんじゃないの.相変わらず接客禁止中だよね。あっちでは今でも働いているのはルームの衛生を保っている掃除さんだけなんだろう。そういえば、時折あっちに行っているだろう」
「え、私たちなら普通ニ、三週間おきに行っているけど、昔より存否同じくらいのことだ」
「今度はなにあったの、こんな時点になってしまったのに、確か退勤の時だよね」
「えっと、5階のその日本人って、まだ覚えがあるの、山本奈奈子って女のお客」
「もちろん、」
「セントラルエアコンは水が漏れているって急報を受けた。普通のトラブルなら二日に後回しにしてもいいけど、そんな状況になったら、放っておいたままならば大変になるね。仕方がない。あっ、急がないとね、フロントのマネージャがあっちで待っているんだ」
「まだ前と同じなんなの」
「そうね、一番重要なのは、あっ、開いた。今度は話そう。お先に、」
「では」
修理屋チームが姿夜闇に隠れて消えた。
陳欣明がゆっくりとエレベーターを降りて、ベンチに腰を据えてじっと携帯を見つめる。
間もなく携帯が震えだしてきた。
携帯のディスプレイには、映っている名前は任遠帆だ。
「速いなあ、」陳欣明が周りを見たりして、電話を受けた。
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