シキ外れ

第六章

「伊江さん、」

「はい」

「伊江さんのことは、やっぱお宅の下僕に内緒していますか」

 李鳴がバニラフラペチーノを啜って、ガラスコップをテーブルに据えて、ふっと押し殺した声を出した。


「私の知っている限りでは、召使いが知っていないはずだと思いますが、なんと言っても、お義父さんともう三年ぶりに会っていなかったことは李さんも知っているのではないでしょうか」

「別居そういうことならちょっと耳にしたことがあります。今伊江さんが入院した噂もうこっちに蠢いているらしいです。南谷が他界してからというもの、伊江さんがまったく変わりました。仕事のやる気を失って、鬱陶しく毎日を送っていたそうです。半年前にまた階段から落ちて幸いにも神様のご庇護で命を拾いましたが、記憶を損なわれて特に言語能力に致命的な傷を残されたことは、最初は信じられませんでしたが、お見舞いの時に前のことを喋ってみたら、しみじみ感じられました。正直いえば伊江さんは退院して前のように変わらずに無理をして会社を通うことにした日からおろおろして日々不安が募る一方です。やっぱ。伊江さんのことを知るとなんとかして、こっちにきました。前は体が悪化になったみたいだとか言われて、多分病院に入ったつもりで、ちゃんと聞かずに急いで病院に車をかって行ってしまいましたが、いなかったですね。まさかそちらに、伊江さんの調子から見れば、今はおそらく伊江家の生死の瀬戸際になっていると言っても過言ではないと思います」

 伊江奈々子が暗黙で耳を傾けて、一言も言わずにカップを持ち上げて残ったコーヒーを大口で飲みかわかして、言葉を紡ぎ始める。

「はい、李さんの言ったとおりです。私のことは李さんも十分知っていますでしょう。伊江家商売についてのことなら、あまり知らないのです。もともと数学が苦手ですし、商売にも無関心の私がなんで南谷の嫁になれましたかってこと、もう何度も考えに考えて、今でも。『普通だから、惚れちゃった』って言われました。南谷との出会いは本当にラブドラマみたいな展開でした。シンデレラのヒロインに変わりましたなんて、まるで夢を見たみたいです。それだけでなく、お義父さんのことまでもぜんぜん予想に外れていました。お義父さんが一度も商売音痴の私に文句も何も言ったことがないです。また、武を孕んでいるうちは、お義父さんがしょっちゅう南谷と一緒にたくさんの栄養食を買ってくれていました。そのたびに、南谷はいつも出前を頼んで、三人で食卓を囲んで世間話を喋りました。お二人の関係は本当に本当によかったです。南谷を亡くしたお義父さんの憔悴した顔を見るしかない自分の愚かさを日々嫌がってたまらない気持ちもますます、でも、でも武だけで、そのために諦めるわけにはいかないです。絶対に、それしなければ、私も多分、」

「伊江さんもなかなか大変ですね。今まで伊江家の精神面の重さを一人で背負っています。一人でもずっと金のことから考えてばかりいて本当に大変でした」

「そうか、そう言われてもストレスか金か何かもう考えていないです。言わずもがなの言葉なのかもしれないですが、いまさら聞いても、いいえ、多分今こそですが、ずっと前からどことなく南谷とお義父さんが私に何か隠している気がしていましたが、家でもずっと閉口していた会社に関することもほとんどは李さんだけ教えてくれましたって、それはちょっと哀れでした。多分それこそ日本人の婦人やるべきことの一環でしょうか」

 うろうろして、視線を逸らした伊江奈々子は緘して、空いたコップを持ち上げて口に寄せた。

「隠し事ですか。そう思っていますか。南谷の二番目の父さんって名乗ってもいいですよ。なぜかとういうと昔はちょっと事情で伊江圭の代わりに何年間も見守っていましたから、彼の一部ことなら伊江圭よりもはっきりわかっています。特にあの子の性格って、」

「性格って、小さい頃とは何か違ったところがありますか」

「ちょっと言いにくいですが、山本にも出会ったおかげでポジティブになりました。ちょうどバブル期に入って、伊江さんの会社も大ピンチに陥りました。あの時こそ南谷が伊江さんに、いや、その時の山本さんに出会いました。『山本さんに励まれて、山本さんのおかげで、幸い山本さんがそばにいてよかった、山本あってのことだ、』ってその子の口癖でしたよ。まあ、会社のことは詳しく言う必要はないでしょう、とにかくあまり損が出なかったまま難関を越えました。それこそ愛の力に起こされた奇跡と呼ばれたものなのでしょうか。どうして会社についてのことを伊江さんに教えなかったことというと、実はね、小さい頃から南谷はお母さんをなくしてしまいました。原因は、えっと、まあ、とにかく大いに衝撃を受けてしまいました」


「そうですか」


「南谷の心なら、伊江さんのほかにいないはずだと思います。今でもはっきり覚えています。はじめて『李鳴!私がコンビニでメガミに出会った、チョウーラッキー』って奇遇を見せびらかされた時にその子がきっと恋に落ちたとうっすら感じられました。不思議な出会いでしたね。南谷の表情を見ると、はじめて好きな子に恋い焦がれった記憶も蘇りました。南谷って、守るべき大事な人と並んで戦う道を選ぶというやり方より、自分一人で盾も剣も兼ねて戦うことを決めるのは南谷こそです。彼は何か失うのを怖がっていてたまらない人ですから。ここから二人にはちょっと悪口させていただけませんか」

「悪口?あっ、李さんならばご遠慮なく」

「身分差の立場から言えば、なかなか出鱈目な結婚相手ではないでしょうか。名門婚姻ということは私でも多少わかります。もちろん自分の一番の気持ちに従えることなのはめでたいことです。ひどいことを言ってしまいました。なにとぞ気にしないでください。今から見れば、最後までその子と付き合って歩いてきてくれて、誠に感謝しました」


「いいえ、さっき言いましたから。それに元々あまり期待していなかったのです。」


「マタ一つつかぬことを聞きたいですが、伊江さんはどうして名字を変えましたか、個人的な決定でしたか。結婚する前には『変えなくていい』って南谷が言いましたっけ。よろしければ教えてくれませんか」

「南谷が言わなかったのですか」

「えーさすがプライバシーに関わることですが、それはちょっとね、」

「そうですか、はじめて南谷と出会った時ぜんぜん外国人って思わなかったのです。すごくぺこぺこしていましたし、また時折関西の訛りが混じって変なことを喋ることがあります。ですから、身分を打ち明けてくれた時にまじびっくりしてしまいました。結婚の前は南谷が名字のことはどうでもいい、嫌なら山本のままでいいって伝えてくれましたが、お義父さんにそれだけに情けなく拒まれ飛ばしてしまいました。名字を変えなければいけないって命ぜられました。向こうも説明してくれなかったですから、知っているのはそれぐらいだけです」

「いいえ、こちらこそ、失礼なことばかり聞いてしまいました。」


 苦悶に満ちた顔をした李鳴がやや低頭をするなり、窓外に暗紫色の稲妻が走って、雷がごろごろ鳴った。

    いきなり轟音にドキリした李鳴が手で胸を抑えて、深呼吸して、気分を整えた。


「あの、実は今朝伊江さんがお息子についてのことを言い及びました。しかし真意をもらえずに終わりました。今までも気になってたまらないです。もし伊江家に何か役に立ったら、」

「お気持ち、よくわかっています」

「でも、今は無関係者の身分に囚われています。どうすればいいかわかりません。その時の決めたことを悔いているしかないでしょうか。南谷が会社‘お菓子エブリデイ’に入ったきっかけをにして、伊江さんに辞表を提出しましたが、最初は伊江さんに却下されるって考えていましたが、夢にも思わなかったのは南谷が私のために伊江さんと口喧嘩をすることになりましたなんて。とうとう願いを遂げて、首になりました。その辞表の認めをもらった私には、会社と別れたあの日の空の青さは何十年ぶりの清らかさが見える気がしました。もし、南谷がなければ血と暴力で染め上げられる世の災いみたいな源を離れることは夢だけで終わるでしょう。会社が発展するにつれて、自分にはふさわしくない背負っていた名誉という枷がいっそう重くて息をすることができないほど行きづらかったです。ずっと実もなく、名もない職を担当していた私が、その形のない名誉を早々見限りました。しかし、伊江さんが立派な方です。もちろん、南谷も立派な人です。ずっと息子として扱っていましたから、あの日彼の悲報に本当に、本当に、何本の金槌を散々に打たれたようです。胸が裂けるような痛みが全身を走って、気を失いしまいました。目が覚めたとき、もう一日も経ちました。今までも、ときおりにそのことを思い出すたびに、いったい痛んだほど気絶しましたか、それとも逃避するには眠っている振りをしていたか、わかりません。どのぐらい経ちましたか、会社のことが心配して、どうしても落ち着かなくて、とうとう電話をすることにした。


結局、『既に放ったことはもう強いて向かわせる必要はない』


 情けなく電話を切られてしまった。電話をしたのは私なのに、一言が出せる時間を一秒たりとも譲ってくれなかったです。悔しくて仕方がなかったんです。お願いー、伊江家のために、どうか、どうか、なんでも伊江さんを一人だけ飲み込まさせないで、どうか私の代わりに伊江さんを説得していただいて、ぜひとも、もう一度共にさせてくださいという気持ちをお伝えください」


 李鳴は両手で机を押さえて、やおらにたって、目尻にかかっている涙がかかりっぱなしに、頭を下げて、何度もお辞儀した。


「え……これでは、これって、その、なんとかします。」

 さすが長々とした内容過多の複雑な言葉に呆れられた伊江奈々子がうっかりして濁った目で顔を仰いだりして、きっぱりしない声でその願いに返事した。

「あり、がとう。」

 李鳴が長大息をして、また伊江奈々子に礼をしてから広い歩幅を伸ばして、お手洗いに立ち向かう。出た同時にいつ来たかのさっきの店長がノートを持ちながら、慌ててやってきた。


「まあ、専門家でもあるまいし、そんなことなら専門家の言う通りにすればいい。わからんよ、いちいちわざわざと俺に聞かないこと。経営方針はいつものに従えばいい。あの、伊江さん、そろそろ戻りましょうか」

「でも、それは、」伊江奈々子が立ちすくんだ店長を垣間見たりする。

「いいから、そっちは自ら後で電話するから、余計な心配する必要はないんです」


「かしこまりました。申し訳ございませんでした」


「行きましょうか」

「そっちのほうは本当に大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ。雑用にすぎないです。今度こっちに滞在できる時間は長くないですし、あっちはまだいろいろなことがあります。まさか戻ると息子に店のインテリアを直す作業を無理やり頼まされたなんて、」

「李さんもなかなか大変そうですね」

「いいえ、結構楽なんですよ」

「へっ、そうなんですか」


 その後、李鳴が店内インテリアについてのことを相談しようとする店長を二言三言でいい加減にあしらって遠ざけた。二人が歓談に笑い合って、二階を離れる。
 

 一階入り口に、

「そりゃ、嘘だろう、急に大雨が降りだしたなんて、まいったまいった」

「そうよ、ただ二十秒ぐらいすぎてこんな大雨になっちゃった。いくら運が悪くても、ほどがあるんだろう。ったく、こうになったら早く課長に連絡しなくちゃ、」

 雨にしとど濡れた背広をした、狼狽えた二人の男が慌ててドアを押して、喫茶店の入口で慌てふためいて携帯を取り出した。

「うそうそ、おい、早く動けよ。松本くん、携帯持っているだろう。僕の携帯が壊れちゃったみたい、早く課長に電話をしないと、」

「ヘイ?嘘?先週彼女が買ったものだろう。こうになちゃったら、大変じゃねの」

「そんなこと言う場合じゃねよ、それより早く電話しろよ、」 

「はいはい、わかった、わかった」

 松本の会社同士がにたにた笑って、手がポケットに入った瞬間に表情がこわばった。

「へ?や、もしかして、いや、ちょっとおかしいね、さっき使ったっけ?使っていたはずなのに、いや、」

「おい、おい、どういうことか、もしかして携帯を相手の会社に置き忘れたか、おまえ」二人の会社員が店内の客を無視して、互いにツッコミをしている。


 口紛争の声が店内のほとんどの客の目を惹いた。


「すぐに戻らなさそうですね、なんか、暫く店に寛いで、時間を潰したらどうですか。」李鳴が小声で伊江奈々子に言った。

「そうですね、仕方がないです。そういえば、あそこなにがありましたか」
 伊江奈々子が入口の二人を見ながら、入口の側へ少し近いところに身を動かした。

 伊江奈々子の動きに対して、李鳴がすでに二人のところにやってきた。


「よければ、私の携帯を使ったら」

 李鳴が一人で近づいて携帯を出して二人に渡した。


「え、それは大変お迷惑をかけました。申し訳ございません。すみません、すみません」

 松本の同僚が携帯を受け取るところを、手を松本に叩かれた。


「いって、何するつもりなの。」


「お前、バカか」


 松本が黒い鞄から取ったハンカチで濡れた手を乾かして、改めて、両手で携帯を受け取って、李鳴に礼をしてから、携帯を使い始める。


「はい、はい、申し訳ございません。はい、はい、すぐに参ります、はい、承りました」

「お携帯、ありがとうございます」松本が李鳴に辞儀をして、両手で電話を返した。


「さあ、早く戻れ、山兵部長が暴れだしていて、課長がまた散々叱られたらしいよ。オーナーさん、悪いけど、傘、貸してもらって、壊したら、賠償しますから」

「いいよ」

 奥の応えが届いたか早いが、二人が外の世へ駆け込む勢いをした。

 松本が先にコーナーにおいてある傘を二本引き抜いて、一本のを同僚に渡すと土砂降りの世に突っ込んだ。

「待って、待ってよ。」間もなく、会社員二人の影が声ごと雨の世に消えてきた。


 
 遠くなっていく二人を見ながら、店内の隅に小型のテーブルを囲んでいる二人が小声で話している。

「今の若者はそそっかしくて、なんか頼りない印象がつけられやすいなあ」

「さっきなのは ‘お菓子エブリデイ’ の人なんだろう。なかなか大変そうに見えたな」

 30歳ぐらいの痩せた男の人が煙草を深く吸って、ゆっくりともたれにかかって、一つ一つの煙の輪を上に飛ばした。

「確かに、山兵ってやつの性情はムカッパラで、ちょっと気に食わないことにあうと、周りの人に八つ当たりするよ。実に付き合いにくい人だね。いや、どうしてそんな人は起用されたの、おかしいな」

「いや、私が聞いているかぎりでは、伊江南谷が死ぬ前は、あいつの頭は大した問題がなかったそうだけど、ショックなの」向こうの同じ年くらいの人が伝聞に訝しげな顔で、忍び声で反論を唱える。

「ショックか、なかなかファンニーな言葉遣いだね」男の人が一笑にして、また煙草を深く吸って、いくつ煙の輪を飛ばしなおした。

「さて、伊江圭は病気が重くなって、和光市のあるどころで治療を受けている噂、知っているの、これは聞いた甲斐があるだろう」

「って、また何か噂があるの、なければ、せいぜい、一万円、どう、」

 痩せた男の人は半分燃えかけた煙草を、力を入れて、灰皿に突いてから、立ち上がって、上着のボタンを掛け始める。

「南部川を池袋駅の近くで見られたらしい」

 話が終わった瞬間に、痩せた男の人の手が強張って、凍りついたようだ。

「南部川って、言ったっけ」痩せた男の人が席について、もう一本タバコを燻らす。

「さぞ、知っているだろう。南部川が人殺しで今指名手配犯にされていて懸賞の額はもう240万円にも達しているらしいけど、樹海に逃げ隠れた人を探すなんて、どれほどのジョークか。えん、これ以上の噂もうあなたにとって無用のメッセージだと思う」

「ところで、南部川って、その伊江南谷を殺した人だっけ、間違いないだろう」

「そのとおりだ。伊江南谷を殺した人こそだ。もう長年も調べられていたけど、ずっと進んでいない迷宮のような犯罪事件の一つとなった。ほら、この写真を見てください。」


「その横顔は、確かにとても似ている。確かに、」

 痩せた男の人が写真を何度も見て、鞄から取った膨らんだ封筒をテーブルに当てた。

「十万円、どう」

「じゃ、遠慮なくいただきます」

 キラキラしている目で封筒をじっと見つめている情報売り手を察して、急に何か気がついたように舌打ちして、やっと気の苛立っている痩せた男の人は決心がついたように体を伏して、ポケットのカードを差し出した。

「南部川のことはいざ目処がつくと知らせてくれて、これ、名刺だ。報酬のほうは心配する必要がない。役に立てばいくらでも、じゃ、私が先に、」

 痩せた男の人が黒い折りたたみ式の傘を取り出して、外の雨景色をチラ見して、上着をぎゅっと引っ張って、早足で喫茶店を退く。

 
 雨足がだんだん弱くなっている。

 「弱くなりそうですね。伊江さん、行きましょうか」李鳴が頭を巡らして、外の風景は何度も眺める。

「そうですね、ずいぶん明るくなったみたいですし、足もだるくなちゃいました。戻りましょうか」

「はい、どうぞ、ちゃんと持ってね。焼いたばかりだから、」李鳴がほほ笑みをした。

「あ、はい、分かり、わかっ、た。」伊江奈々子が笑みを返した。

「そう、これだけでいいの、何か追加するほうがいいか」

 李鳴が心配そうな顔で、わざと声を高くして、軽そうな紙袋をシェイクする。

「大丈夫、武に甘いものはちゃんと控えさせないと、歯を壊したら大変になるわ。」伊江奈々子が笑いながら、そのアドバイスを断った。

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