シキ外れ
第十二章(終章)
コン~コン~
「入って」
「お邪魔します。社長、お元気ですか」
「会社じゃないし、他の人もいなっ、あら、あら、李さんも戻ってきたね。李さんはまだ何かご用があるの」
「えっと、実は、」
「まあまあ、気に入ったらこれからのことを合わせてノートに記録しても大丈夫。さあさあ、李さんがそっちの椅子に座ればいい」
「はっ、はい」
李鳴が震えて慌てて椅子について、次の言葉が出る前にすでに何かを書き始めた。
「会社のほうはもう済んだの」
「もう済みました」
「いいね、」
「言うかどうかのことですが」
「気ままに言えばいい」
「もともと株主たちに望まれていますし、前のやり方は確かに冒険しすぎると指摘されていて、現存利益を持ったままに穏やかな終末を迎えるのは何よりって、それは絶多数の考え方でした」
「まあ、予想どうりにすぎない情況だった。今の財務状況なら、退職慰労金がちゃんと配れるか」
「もう十分です」
「それなら十分で、幕もそろそろ下りるわけだ。本当に、無事で何より、」
「はい、物事はご存じ通りにうまく進んでいます」
「あの、そうだ、会社のことは一応置いて、鏡のことって、まだ覚えがあるの、」
「鏡って?」
「李さん、おいおい!ちょっとやめて、鏡のことって覚えがないの」
「は、あの、確か、」急に呼ばれてびっくりした李鳴が慌ててノートに何を探す。
「同じ服をつけば、ごく遠くから見れば誰でも同じ、同じ服をつけば、ごく近くから見れば誰でも同じだって言葉ですか」
「まさか、そんな言葉までも書いておいているの、って、山兵さんはどう思うの」
「どっちにして立っても問題なさそうですが、中間点にしてはいけない。矛盾だらけのやり方ですけど、やむを得ないやり方ですが、で、」
「李さんはそれをどう思うの」
「えっと、口にするのはなかなか難しいですが、多分抱いているお気持ちと同じなんでしょう。失礼ながら、おそらく、心を正視することでもいいが、金輪際心を直視するまじきことなんでしょうか」
「もういい、もういい、言い続ける必要はなし」
二人の愁色を湛えた顔を垣間見ると伊江圭は嘆いて、枯れた目を何度も拭ったりする。
キーン
骨董品らしい電子レンジは調子が狂って、発した怪しい音が溜め息もよく聞こえるほどの空間に響いた。そして、ベンチレーターの近くの標識が揺れ出したとともに暖かい風がもう一度部屋のを巡りはじめる。
「どうやら、直された」李鳴が吹き出し口を見ながら、言っている。
「そういえば、ここに来る途中で多くの業者を見た。最近その辺りにはどうやらまた新しい老人ホームを建てられるらしいです。その中に電気の仕事に関する人もあるんですから、同じ会社ですし、ちょうどぴったりした部品を持ち合わせたかもしれないです。前はそのため、修理の仕事ができなかったです」
「そう、新しく換えるほうが、」
「話を挟んでもよろしいですか」
李鳴が二人の会話に割り込んだ。
「なに、」
「その前大学で松下電器は営業赤字となっていたそうですが、本当ですか」
「それは事実なんだけど、李さんはそれくらいの真偽さが見通せないようになっているの」
「まあ、それは、」
「彼のことほっとけばいい。ただ気まぐれに過ぎないんだろう」伊江圭が言い終わって、目を閉じた。
コン、コン
軽い音が部屋に響いた。
伊江圭と山兵大野と同時に視線をドアに移したが、李鳴はまだ目を閉じている。
「誰?」
「長野です。新しい医療機器が届きました。よろしければ、入ってもよろしいですか」
「そうか、じゃ、早く」
指示を受けて、三人が入ってきた。一番先に立っている長野弥助が二人の医者と比べれば一番の違いは精神状態だ。そのスタイルに少しだぶだぶと見えそうな灰色のチノパンにした、濃密な髪色は地味な黒で、くまが出ていて、両目の眼球の表に幾つの赤い皸が見える。激務のため、徹夜したばかりの社会人というより教授に言いつけられた任務から解放された大学院生のほうがもっともだ。
機器の取り付けが進んでいるが、長野弥助が一人で何も言わずに山兵大野と平行したところに立って、伊江圭に笑顔のままで礼をする。伊江圭も無言のままで笑い返した。
その景色には眉をひそめた李鳴もゆっくりと席から立ちあがっている。
何分経って、機器をすばやく片付けた二人が伊江圭にも長野弥助にも礼をしたあとに、部屋を出た。
「伊江さんの言葉は本当ですか。お記憶は本当に取り戻しましたか」
「あの時、長野さんがもう力を尽くしただろう。そんな銃創だって、希望を求めて奇跡を信じきって、諦めずに無理やり南谷を救わせたって、きっと気が狂っただろう。いつも言った謝り、いつも救急だった時の同じ服の姿で見せてくれたってきっと苦しいだろう。言葉だけでは済ませないことなのに、」
「それにしても、やらないといけません。たとえ思い出せなくても、その覚悟もうしときました」
「そうか。長野さんも随分辛抱強いね。さっきからずっと考えていた。あの、長野さん、きみ、輪廻っていうこと信じているの。医者だったら、科学者の範囲に含まれるとしたらいいだろう」
「自分にもわからないです。でも運命ってどんなことは身をもって伊江さんに教えられたものでした」
「李さんはどう思うの」
「正直言えば、あまり実感がないようです。私には楽に口にすることが易くないんです」
永野弥助の答えを得たらすぐに李鳴に同様な問を投げ出した伊江圭が首を捻って、山兵大野に向かった同時に急にため息をついて、黙り込む。
コン、コン、コン
「入って、」
今度のノックは柔らかくて、リズム感のいい音だ。それがした伊江圭が聞かずに相手を入れた。
ドアを開けた人に数人の視線は驚きではなく、平日にありふれた気持ちだったが、これからの言葉で部屋の誰でもの目つきが変わる。
「あの、すみませんが、山兵さん、ちょっといいですか」
「えっ、私に?」
「はい」
山兵大野が礼をして、速くそっちへ近づいてくる。
「その人が私に?なんの用ですか。言わなかったですか」
「ただ松本健ニ郎と名乗りましたけど」
「マツモトケンニロウ?それはそれは。すみませんが、その人なら今どこですか」
「噴水のあたりです」
「ちょっと会いに行ってきます。伊江さん、ありがとう」
山兵大野が慌てて部屋の数人に礼さえせずに外に走っていく。
噴水の近くに茶色の帽子をかぶった、淡蒼いベストに灰色セーターとだぶだぶしたズボンのセットアップをした少し太い男の人が眼鏡を直して、礼をした。
「会社ではないし、そんな顔しなくていいじゃん」
「申し訳ございません。お顔を見るとつい、」
「松本さんがどうしてここに来たの。私に、何か」
「あの、すみません。実は伊江さんに頼まれて、写真を撮りに来たということですが、」
「伊江さんって、どの伊江さんですか」
「さっき入ったばかりの女の方なんですが」
「そっか、って、写真撮るって得意なの?この前一緒に食事した時も言っていなかっただろう。会社にでもね、」
「実はうちの兄は小さな写真屋を営んでいます。もともとうちの父はカメラマンですから、僕は高校生の時から撮影に夢中して、いろんな賞をもらっていました。普通、兄が北海道や沖縄に向かって民俗異文化に関した写真を撮りに行くなんですが、昨日兄がまた東京を立って、北海道に行きました。来月また中国の蘇州のお客様に会いに行くそうですから、とても忙しそうです。今は国内のことはほとんど私がしています」
「つまり副業なのか」
「そう言ってもいいですが、」
「兄の代わりですね、そう、会社のことならうまくやっていますか、最近は」
「会社なら、まあまあですけど、」
「けど?」
「恥ずかしながら、実は午後豪雨に遭って、彼女が買ってくれたばかりの携帯が壊れしまった。ちょうど最近懐が寒いし、その携帯の価格も高くて、同僚に金を借りて新しいのを買って、いい友達ですから、できるだけ早く返済したいと考えて、ってことすね」
「松本さんもなかなか辛そうだなあ。って、どこで撮ればいいの」
「まず人数を確かめないと、やはりちょっと、」
「へっ、そうね、やはり本人に聞くのは一番じゃ、行こう」
「はい」
山兵大野が先に何歩も歩いていないのに急に止まった。
「すまん、ちょっと電話を、」
「では、お先に」
「そうだ、今日のとこ、内緒してくれないの」
「すみませんが、僕は頭が悪くて、お言葉をもっと説明してくれませんか」
「入ると分かる。先に行こう。道がわからないのなら、下僕に聞けばいい、」
「はい」
姿が消えていくのを見送った山兵大野がため息をついて、震えた手で携帯を耳にした。
「もしもし、山兵大野でございます。どうしても伊江さんについてのことを教えてくれるつもりはないですか」
「もし山兵さんが直接に伊江さんに聞いたら、今の語気でないわけなんだよ。さっきと同じ言葉だった。その言葉を直接に伊江圭に伝えてみて。それとも明日から指名手配の一人になるか。くれぐれもお社長さんの命を、いや、お会社の命を重んじてほしい。ヤマヘイブチョウ」
「お前が直に来けばいいじゃない」
「いや、その一家のてつを踏むつもりはないよ。魔窟に身をもって入るものか。くれぐれも考えてください。では、」
噴水のあたりに、今は連続数年にも見られていない光景だ。
「では、あっちはどうですか、光線はいいよ。めっちゃいい天気に恵まれましたね」
カメラマンの松本が何人にも撮影の捗を解説しながら、撮影のスポットを探っている。
伊江圭の部屋の人はもう全部集まった。
伊江圭が車椅子に乗っている。
山兵大野はずっとディスプレイをじっと見つめていて、背にしたコッテージから出た数人の動くのにも気がつかないようだ。
「山兵さん、どうしたの、」
李鳴が近くに歩いて、小声でぼっとした山兵大野を覚ます。
「あっ、ちょっと、考え事、って撮影のとこはもう決ったの」
「今どころだよ、ちょうどいい。みんな揃っているから、さあさあ、速く来て、」
「あの、李さん、私の顔は大丈夫なの、」山兵大野が心配そうに聞いている。
「顔?なにかついていないの、メイクするつもりなの、」
「いや、なんでない、」
いろいろなことを合わせた末に、撮影のところが決った。
「では、3、2、1!みんな、笑顔で、」
シャッターの音が何度も立った。木に溜まっているほとんどの烏がどうもその音には抵抗があって、飛んでいった。
「では、次は二人だけの撮影です。あの、伊江さん、お孫さんのほうにもっとお首を傾けてもいただけませんか。そう、そうです、はい。ご協力、ありがとうございます。では、3、2、1!笑顔で、ナース!」
フラッシュが何度も明滅していた。
木には一羽もの烏も残っていない。
「よくできました。皆さん、今日の撮影、誠にありがとうございます」
撮影の後、衆人が解散した。伊江奈々子が一人でカメラマンに尋ねた。
「あの、松本さん、写真がいつ取れますか」
「至急なら、明日でできますよ。宅配便でもよろしいでしょうか」
「いいえ、そこまでする必要がありません。自らに店に行きますから。いいです」
「はい、かしこまりました。では、お邪魔しました」
松本健ニ郎がカバンをてきぱきと片付けた後に、一目散に気配を消した。
間もなく、
「大丈夫なのですか。さっき撮影の時にもしょんぼりと立っていたみたいです。元気なさそうでした」
「ええ、ちょっと疲れ気味です」
「まさかその人に撮影してもらった。それは縁ですか」
「そうさ、ちょっとびっくりした。午後喫茶店でその若者に携帯を貸したけど、またカメラマンとした彼と再会したなんて、さあ、そろそろ戻ろう。ほら、あっちの山兵さんもけっこう疲れそうに見えるだろう」
「おい!山兵さん、これから一緒に部屋に戻ろう、」李鳴が曇っている山兵大野に聞く。
「あの、そう、伊江さんがもう戻ってきたの、」
「そうよ、」
「お義父さんなら、さっき寒いって言って、もう長野さんと部屋に戻りました。どうされましたか。」伊江奈々子が二人のところに近寄って、言い足した。
「ちょっと用事です、」
言葉を投げるとしゃっきりぐるりと身体を捻っただんだん遠くなっていく影にじっと瞳を凝らした李鳴が悠々と後ろに付いてきた。
山兵大野が李鳴よりずっと部屋の外に着いていたが、ただぼんやりしている。
「なんで入らないの。山兵さん、山兵さん?」
「えっ、ええ、そうね、ちょっと眠気がして、気が散った。李さんが入りたいのなら、先にどうぞ」
「私には特別な用事がないけど、部屋に残したノートでも片付けようって思うけど」
李鳴が一歩先にノックをする。
コンコン、コンコンコン、
なんの応えもなく、ドアを開けたのは潤んだ目をした長野弥助だ。李鳴がすぐに長野弥助の身体を避けて、枕に寄りかかっている目を閉じた伊江圭をちらちらと見ると、ケースの上に置いた注射器とモルヒネと書かれた何本の空き瓶にも気がづいた。
「それは一体どういうことですか。もうこんな程度になっているのかい」
「もともと重篤患者ですから、できれば、あまり伊江さんに絡まないでほしいですが。二人に内緒しておいて、申し訳ございません」
口も目も大きくして、満面に蒼を注いた李鳴に言ったのは医者とした長野弥助こそだ。それを聞いた伊江圭がしんどく体を動かして、笑顔らしくない笑顔を作った。
「カイコウヘンショウってこと、それくらいもわかってくれないの」
「回光返照ってそれは、それは」
「実はね。李鳴、君が求めているものは私も一秒たりとも諦めずに探し続けているのに、もう手がないんだ。諦めろ、他人の隠し事を深く掘ればいつか自分もその闇の穴に落ちるものだ。だから、やめろ」
「で、でも、もうここまで辿りましたのに、」
「ここまで、誰がお前を‘ここ’におっくてくれたの、一方通行の時間ではただ‘かもしれない、はずだ’っていう推測はやめろ。
わうじゃくはやき きゃうごうおそき げんぜとふ いつかよいにぬ いまみここをり
今、これからをじっと見て、お孫が無事に生まれてくるのを祈るだけで、いいんじゃん?」
日がいつの間にか山陰に隠れつつあるとともに、顔にかかった雲も一層重くなっている李鳴が窓越しに異様な天の色にじっと目をつける。
森々たる冬木立の樹林から飛び出して、一面茜色に染まっていた血色の空を滑っている鴉の群れのみならず、廃園からひらひら舞い上がっている、まるで春のときの菜の花をひらひら舞った白き蝶の色と違った朽ちて暗黄色がついた腐った落葉がある。ちらちらと天の原を切り裂くのは庭に植えられた例の枯れ木の絡んだ枝の形に似ている赤紫色の稲妻だ。ぴったりと後ろに迫ってきて地さえ揺れるほど宙に轟いた雷鳴だ。
「暴風雨がくるらしいぞ」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?