シキ外れ
第七章
「母さん!」
玄関の足音にひかれた伊江奈々子が振り返ると、伊江武は階段のコーナーからぱたぱたと走ってきて腕でぎゅっと抱いた。
「武、授業終わったか、早いね」
「へ?私はいつも二時くらい下校していますよ」
「そうか、そうか、これ、一応お土産、食べてみよう」李鳴が伊江武の頭を軽く撫でて、紙袋を目前に揺らして手渡した。
「え、チョコとミルクの匂いがしました。開けてもいいですか」
「いいよ」
武が紙袋を開けると湯気も一瞬と噴き出して、濃いチョコとミルク混じりの甘い匂いが空気に漂う。
「うわ、美味しそうです。おじいさん、ありがとう」
伊江武はある鶏ちゃんのような形のクッキーを抓って、見たり、嗅いだりして楽しそうにクッキーを口辺に置いて、クッキー歯ごたえを楽しめる前に、焼き香りを残さずに吸い取るようにクッキーをしゃぶって、最後の余韻をよく玩味したすえに口に送り込んだ。
「うまー、こんな美味しいクッキーって初めてです。ありーがとう、」伊江武がクッキーを一枚ごとに食べると興奮するほど飛び上がった。
「こんな美味しい食べ物を爺さんに分け合わなきゃ、」
伊江武がつぶやいてから袋を抱えたまま部屋へ猛走りする。
およそ十秒ぐらい経って、
「いや、まずいなあ。武!ちょっと!」
李鳴が沈んだ声音を出した同時に、伊江武が伊江圭の部屋のドアを開けた。
「よ、武じゃないか。どうしたか」
「爺さんに美味しい食べ物を分けたいです」
「たべ、ものか」
強い焼き香りがした伊江圭の目に一瞬と不安な色が過った。
「クッキーですよ。李さんが買ってくれたとてもとても美味しいクッキーですよ。うまいクッキーを食べると爺さんの病気ももっと早く治れるでしょう。ええ、これ、一番可愛い猫のを爺さんに、」
伊江武が猫のような形の温かいクッキーをねじって、伊江圭の手のひらに寝かせた。
「あら、可愛いね。一番可愛い猫を送ってくれて、いいの、」
「爺さんですから、一番いいのがいいです」
伊江武はクッキーに目が煌めいている。
シャキーシャキー
伊江圭はクッキーの半分を折って、口に入れて、噛みこなすふりをして、残った半分を手に持ったままで、
「伊江さん、ちょっと話したいことがあるんですが、お都合はよろしいでしょうか。」
眉がぴくりと動いて、顔に緊張が走った李鳴がドアの隙間から覗き込んで、ちょろちょろ伊江武の後ろに足を止めて、伊江武の肩越しに紙袋をすっと掴んで、ひしと締めた。
「おーいいよ、武、遊びに行って、」
伊江圭が微笑んで、手のひらに隠したクッキーを隣の高くない箪笥に置いた。
「これをどうぞ」
姿が消えたのを見た伊江圭は激痛で引き攣れている手でティッシュペーパーを受けて、口に覆った。
ゲーゲーゲー
ティッシュペーパーに、散らばっていたさっき呑み込んだクッキーのくずと唾や胃液の混ぜものを見てみようだけで、伊江圭は再びげろを吐き出した。
「めちゃめちゃしちゃ、いい年なのに、おいしょー」
嘔吐物が散らばっていた布団を見て、自嘲するような笑いを浮かべた伊江圭が乾く笑って、背持たれにいっそう力を入れて寄りかかる。
過ちをした生徒が先生に叱られるのを待つかのように、凍りつくように立っている李鳴は黙り込んで、うっそりしてその顔をのぞき見している。
「落ち着けよ。李さんの悪いのじゃないし、なんでそんな顔してて、さ、顔を上げよう、」伊江圭は苦笑して、掠れた声を出す。
「敢えて、一言させてもよろしいでしょうか」
「構わん」
「クッキー、食べなくても…」李鳴が言いかけて、途中で黙ってしまった。
「孫くれたうえに、食べなきゃね、」
「とても失礼ながら、ご病気はどうやら山兵さんの言ったのより大変そうですが、本当に大丈夫ですか」
「いつもの癖に過ぎない、多分一週間ぐらい休めば治れる程度で、まあ、大丈夫大丈夫。そう、奈々子を呼び込んでくれないの。今までまだ彼女と話していない。ちょっと聞きたいことがある、彼女に」
伊江圭は李鳴の謝意をいい加減にして、命令を出すように無感情な冷たい口調で口をきく。
「はい、あの、布団は」
「あとでいい、そのままほっとけ」
「わかりました。では、」
「伊江さん、お呼びだ。おとうさんの、」
「はい」
「あの、伊江さん」
「はい、なんでしょうか」
「午後の件は後でぜひお願いします」
「え、はい、なんとかするわ」
部屋を出た李鳴が伊江武と鶏のおもちゃを奪い合うごっこをしている伊江奈々子を呼びつけて、目つきで合図して辞儀した。
顔を曇らせた伊江奈々子が気の迷いを晴らすように、何度も空気を吸い込んで胸を叩いて、かたい決意をつけたように澄んだ目をして、軽快な足どりで部屋に入った。
「あっ、久しぶりね」
「えっ!ダイ、お義父さんだいじょうぶですか、先生に早く知らせないと」
「心配しないで、ただ胃の調子は悪くて、」
布団にまみれた吐瀉物に驚きの色を浮かべた伊江奈々子にやおら手を振って、えっちらおっちらとベッドから立ち上がろうとするところに、
「危ない!」
空気の壁を蹴ったように、よろよろして、危うく躓かんとして、伊江圭は支えられた。
「あら、なんかきゅうに足が棒になって、力が抜けてしまった」
「どうか無理やりしないでください。今先生を呼び出してきます」
「余計な心配、窓辺の車椅子を押してもらえ、」
「はい」恐る恐る命令に服して、伊江奈々子はまごまごして車椅子をベッドの脇に停めた。
「あっち、」
窓辺に行けと言わんばかりに、目顔をした伊江圭が伊江奈々子に助けもらって、車椅子に座った。
「あ、ずっと近くなのに、その手で触れられないなんて、毎日毎日も空気浄化機の空気を吸ってばかりいて、数日なのに、なんだか何年も籠もっている重苦しさが胸に根付いた鬱気の腫れ物がどうしても晴らせない。ああ、もう辛抱しきれるものか。」
掠れた声を出して、うめきを洩らした伊江圭が片手でドンドンして、しんどく窓の隙間を開けた。
「あ、生き返った。涼しいな、それは暖房より何百倍ましものなんだ。でも雨上がりの庭園はあっちこっちの凸凹の水溜り、枯れ木、枯れ草、萎れたものばかり、本当に興ざめな景色ね、まあ、枯れ木も山のにぎわい。奈々子はその景色をどう思っているかい」
「べつに、強いて言えば、ちょっと不気味です」
苦渋に満ちた顔でふい嫌悪極まりない感情に動かされて流露した本音を吐いてしまった伊江奈々子が目の荒れ果てた野良のような庭園を虚ろな目で見渡している。
「フギミ、か、けどこんな不気味なところにしろ、世の人々の目を忍ぶために、これ上のない手、またやむを得ない手。正直言えば南谷がここを買ってくれた時に、そろそろ南谷に席を譲って、こっちも楽隠居して、そのまま静かに世を送ろうってバカバカしそうな願望を抱えていたのに、やっぱ南谷を殺したのは赤の人ではなく、父さんの私にほかならなかったなんだろう。彼がその道に歩むのは自分のタメニ、それとも、私のセイ?」
伊江圭の目尻に涙を浮かべている。言葉尻が徐々に弱くなっていく。
「私はそう思っていませんわ。南谷がずっとお義父さんのことに仰いでいたことは誰よりわかっていますでしょう。南谷はただ運が悪くて、そんな理不尽なことなんて遭ってしまいました。凶手の動機さえ知らないですが、いつか真相がわかるでしょう。さぞお義父さんもそうご存知でしょうか」
「今までも、そのことが認めたくないの。いくら頑張っても人が生き返るものか、まだ動機不明の点に迷っているの、健康診断書って、」
「長野さんが病院のほうからもらった診断書ですか。カテゴリに外傷性神経症と書かれています、でもはじめての健康診断がその病症は書かれていなかったのは同士ですか」
「さあ、方法はいくらでもあるね。それに、それを隠して、ただ気が狂って南谷を殺したことはもっと受け止められないだろう。とにかく、そのことがいくら認めたくずとも、南谷はもう死んだ。もう懸案になったのは事実だ。樹海に逃げた人殺しを捕まえる難点、冗談すぎ、せいぜい死ぬまでそいつの死体を確認できればってことだけでは、もう十分だ」
「そんな言葉をおっしゃらないでください。伊江家はこれからまだ長い道がありますので、どうか自分の寿命を人殺しに関係しないでください」
「それはどうでもいい。そいつは多分もう樹海に迷って、餓死になっただろう。そのやつの死に方はどうでもいい、そいつについてのことはやめろう。それより、やっぱあのことに謝らなきゃ、ね」
「え?あのことって、何のことですか」
「南谷が亡くなって以来、一度も見に行っていないって思っているだろう。昨日まで、わかっていなかった気持ちがようやく思い知れた。過去に沈み込んでいた気持ちに怯えるというか悲しむというか、いずれも未来に向かう心細い気なんだった。実に南谷の顔によく似ているよ、武が。その顔が頭に浮かぶたびに、ああ、それが息子ではない、孫だって、あれ、いつもそばにいる南谷がどこに行っちゃったの、ああ、もう死んでいるって。何も変わっていない風景に佇むと、背筋がぞっとして、急にどうもアドレスを間違えみたいな気がして、引き下がってしまった。やっぱしノックすら勇気も、」
「そのこと、知ってますわ、知ってますわ。武が何度も爺ちゃんに似ている人がこっちをじろじろ見ているって言ってくれましたが、窓越しに見て、お顔、すごく悪そうに、落ち込んだように見えた。きっと南谷のことに悲しんでいたのでしょう。その重さがちゃん分かっていますから、本当にそれ以上悲しませたくなくて、わがままに居留守を使うふりにしました。本当にすみませんでした」
「いや、そこまで気を配ってくれたとは、情けないなあ」
伊江圭は言いながら、骨と皮ばかりにやせ衰えた腕で痩けた頬の凸の頬骨を滑って落ちた涙をぎこちなく擦り落とした。
感傷な言葉を流されたまま、あっけにとらた伊江奈々子がガラスに映った自分の極不自然な歪んだ顔をじっと見て、五里霧中にいるようだ。
「そう、お仕送りって、足りなっかたら、直接と言え、遠慮しないよ」
「はい、お金なら、ぜんぜん問題がありません。むしろ予想以上大分多くて、贅沢な生き方にしても、差し支えがないと言っても過ぎはないですが、そのお金は元々武のためのお金ですから、自分の都合で無駄遣いをしたくなくて、会社が危機に瀕するし、この頃、家の近くのコンビニでパトしています」
「パトか、懐かしいな。日本に来たばかりの時、日本人の話スピードは早くて、古い本をもって了解したことと比べたら、全く別物だった。いつも店長さんに叱られたりしたが、いざトラブルにあったら、助け舟を出してくれて、謝りを繰り返さないように、分かるまで入念に教えてくれて、本当に助かった。えん、そろそろ無駄話を抜きにしょう。ところで、武のこと、奈々子はどう思っているの」
「武はまだ小さいですが、会社の柱になれると思われています」
「会社か、武にその会社の未来を背負わせるつもりか。そう理解してもいいだろう」
「はい、それもお望みでしょう。南谷の代わりにその会社を継いで、お夢を守り続けていきます」
「夢を守るか、万が一私がそのうちに他界すれば、打ち手、もう練っておいたか」
「ヘ?それは、」
突拍子もない問題を問い詰めれて、顔の色が青白くなった伊江奈々子が魔の手に引きずられて、よろよろと何歩下がった。
「それは奈々子には確かに無理なことだね。普通ならそんなことを持ち出してないのに、いまさら、ごめん、つい変なこと訊いちゃった」
「李さんはいかがですか。李さんに助けもらったら、どうでしょうか」
冷静な頭を取り戻した伊江奈々子は車椅子の方に少しついて、謹慎して、意向を打診した。
「帰らした人を呼び返すか、それはね、山兵さんって、えん、確かに、よく考えたね。よく考えたね、」
「あの、すみませんが、山兵さんはどんな方ですか。平日、南谷が山兵さんに電話をすると仕事のことについて話し込んで、ビジネスのこととか、何がなんだかわかりませんでしたが、なんだか良さそうな雰囲気に包まれているみたいでした。私には、できるのはただご飯を何度もあたためなおすしかなかったです」伊江奈々子が軽く嘆いた。
「山兵さんならずいぶん面白いやつだよ。年功序列制度のラディカルな異議者なんだよ。毎日も『若手の意欲を低下させるなんてやつ、さっさと消えろ、』って言い暮らしてばかりいるってやつなんだ。『山兵さんがきっと伊江さんの会社に非凡な活力を与えてくれるだろう』ってセリフで同じ業界の同士に押し付けられちゃったのにむかついちゃったけど、最初は。繁栄な時代の繁華な東京にも八方塞がりみたいなやつなんだとかいう伝聞をふと耳にしたことがあるけど、まさに百聞は一見にしかずって言葉に当てはまった。会社を騒がされて、また安寧も乱されちゃって、いずれもそいつのおかげだったよ。最初の時は首にするもりだったけど、南谷に説伏された」
「南谷がとき勧めてくれて、お二人は仲がもうそこまでですか、ほうとうに想像できな勝ったです」
「いいえ、ただ普通の飲み会がきっかけで知り合いになった、その二人は。一面識の縁で気があうにすぎないことだった。いまさら思ったら、その口吻はまさに李さんの言い方だった。そういえばやっぱそいつの甘口は馬鹿にならないぞ。山兵さんの主張はさておき、個人能力なら、彼に比べられる人は本当に、少ないんだ。それぐらいは少しも戯言ではない。同業界の皆さんは青田買に忙殺されていたのに対して、うちの会社は誰かを除名するか慮っていたなんて、時代の流れに逆らって進んでいるって前代未聞の馬鹿馬鹿しいことをやっているだけように見えたけど、とある日、バブルが崩壊しちゃった。新体制に敷かれたおかげで、災難が免れられた。何たる皮肉なことだった。何たる皮肉な世だったろう」
「え、山兵さんはそんな功績がありましたか、伝奇的な過去ですわ。えっと、そういえば山兵さんを押し付けた、え、その業界の同士さんはどうなりましたか」
「どうなちゃったの、あ、不動産のため、円激安のため、首吊り自殺しちゃった。もともと核家族だったから、娘が北海道に縁づいて、いろいろな事情もあって、夫婦関係にもひびが入って、何度も喧嘩したあげくに離婚した。って、時折振り向いて、やっぱ、結構だ。まあまあ、かわいそうな友達のことは一応やめよう」
「よいしょ、」
がったとして、まるでボロボロした人形になったような伊江圭が狂った節に引っ張られた手に力を入れて、肘掛けをぎゅっと握ってようやくあくびをした。
「奈々子、子供の時にどんな夢を持っていたの。聞かせてもいいの」
伊江圭が振り向いて、目とがぶつかりあった。
「一度、音楽の先生を目指していましたが、いろいろあって、やめました」
「そうか、音楽の先生っていいね。夢を追いかけていた時間、楽しかったの」
「はい、とても楽しかったです。時々弾き間違えて、叱られることがありますが、父さんと母さんがずっと応援してくれて、本当に楽しかった時間でした」
「夢っていいなあ。私には夢って儚すぎる遠いものなんだけど、奈々子の考えは分からないものでもない。あの、看護婦に布団の取り替えを頼んで、そして李さんを呼びつけてきて、少々私事があるから」
「わかりました」伊江奈々子が礼をして、部屋を出る。
ドアを開けた音が立った途端に、李鳴が立った。
新聞をてきぱき折ってからベンチの端に置いたまま、まるでどうと言わんばかりに伊江奈々子の前に足を止めた焦っている李鳴は、
「お義父さんが李さんに用がある」伊江奈々子がただドアのほうを見て、他には何も言わずに、身振りだけ、どうぞと示した。
「はい。」
「あ、そう、武が遊びに行った。心配しないで、では」ドアのノブを捻る前に、李鳴が首をひねて、礼をした。
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