だから僕は、
「た…だいま…」
リビングのドアをすり抜けたところで、恐る恐る声をかけてみる。
「…おかえり」
麗子さんのぶっきらぼうな返事が聞こえた時、胸を撫で下ろす自分がいたことを、ここで認める。
あぁよかった。
僕はまだ、ここに居ていいんだ。
※
「家に帰ったらいなかったから、もう消えたのかと思った」
麗子さんの語気は強い。剣のように真っ直ぐ届いて、僕の心を刺す。
「あ、ごめん。コンビニに行ってたんだ」
「コンビニ?」
小さな笑みを浮かべた麗子さんは、2つのコップに麦茶を入れ、1つを飲み干した。
「うん、ちょっとお腹すいちゃって」
「……入れる場所もないのに?」
「ま、まぁ…そうだけど」
苦笑いしかできない僕にしらけてしまったのか、麗子さんは目線をスマートフォンに落とした。高級そうなスナックを口に運びながら、部下への返信メールを惰性で打ち込んでいる。
「今日、仕事どうだった?」
僕は麗子さんに尋ねる。
「別に。いつもと変わらないけど」
「…」
沈黙に魔が刺したのか、麗子さんは何かを思い出したかのように切り出した。
「そうそう。あんたがいなくなって、ようやく全ての引き継ぎが終わったところ。ちなみに私は、なんの仕事も頼まれなかったわ。あの人たち、あれで気を遣ってるつもりかしら」
麗子さんの毒舌っぷりは、今でも変わらない。
そして、彼女が毒舌を吐いていいほどの実力と実績を持っていることも、僕は知っている。
「ねぇ麗子さん」
「何?てか、私の名前呼ばないでくれる?幽霊に名前呼ばれたら、呪われそうなんだけど」
刺々しい麗子さんの言葉に、若干へこみそうになったが、なんとか持ち直して、言う。
「僕のこと、もう忘れていいよ」
「…は?」
「もう十分なんだ。最後の喧嘩も勘違いだって分かったし、伝えたいことも全部伝えられた。僕は麗子さんに、たくさん愛してもらえてたんだってことも、理解できた」
「…なに言ってんの?意味わかんない。しょーもない幽霊みたいな格好して、現れたのはそっちでしょ?あんたが勝手に消えなさいよ」
麗子さんの、語尾が荒げる。
「無理なんだ。僕は麗子さんの中にある懺悔から生まれた幽霊だから。僕の意思で消えることはできない」
「さっきからうっさいわね、あんたなんか忘れたって言ってんでしょ!」
麗子さんは、持っていたスマートフォンを僕に投げつける。
もしそれが、直撃して、痛みを感じることができたら、僕はどんなに嬉しいだろう。
バン!ドン!
スマートフォンは僕をすり抜け、リビングのドアに当たって落ちる。
大きな音の後に生まれる、虚しく静かな空間の中に、麗子さんのすすり泣く声が聞こえる。
「ねぇお願い。もう何もいらない。何もいらないから、戻ってきてよ…」
だから僕は、いつまで経っても麗子さんから離れられない。
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