「運命」とやらの掌の上で。
夢、破れる。
小学生に上がる頃には、わたしの人格は乖離していた。鬱病の症状が出始めたのは中学生の頃で、一週間程度の間急に何も考えられず学校に行けなくなったり、カッターで制服からは見えない場所に自傷行為を繰り返した。
友人は多く、体育以外の成績は優秀だった。学級委員を務めたり、いわゆる素行が悪いと目をつけられるタイプの友人グループにファミレスで勉強を教えてテストでいい点をとってもらったりしていたので、内申点も体育の成績や急な連続した欠席を補って有り余るくらいにはよかった。
進学先に関する三者面談では、有名校の名前がずらりと並ぶリストと共に話が進められた。わたしはそのどれにも興味がなかった。「音楽を勉強したい」その気持ちしか、わたしにはなかった。毎年倍率が10倍を超える、都立の芸術高校に進む。片田舎の中学校では前例のないことだった。
親は猛反対だった。願書か何か、提出書類に印をもらう時「このまま本当に音楽の道に進むなら、金銭的援助は一切しない」と脅された。
必要な情報収集や手続きは全部一人で行った。受験する年のオープンキャンパスで、声楽の体験レッスンをしてくれた先生にプライベートレッスンを申し込んだ。「いい声だけど、今からじゃ無理。お金のかかる世界なのよ、親御さんと一緒に来れないっていう段階で諦めた方が賢明だわ」。何のツテもない私にはその先生のレッスンにつけなければ、それこそ本当に何のとっかかりもなく、受かることは難しいということは分かっていた。土下座をした。生まれて初めての土下座だった。
受験科目には、声楽やピアノ、器楽などの専科以外にも、ソルフェージュといわれる楽譜を見て正確に歌う能力を測る試験や、聴音というピアノで弾かれた音を聴いて楽譜に書き取る試験がある。オープンキャンパスの時点では、即興でそれっぽい曲を歌うことと、一度にいくつの音が鳴っているのかすら、それが何の調かすら判定できずにシャーペンを持って茫然とすることしかできなかった。
諦めなかった。特に壊滅的だった聴音は、受験前の冬休み、ネットで探したフリー教材で毎日8時間以上取り組み続けた。
滑り止めの私立の受験が先にあった。音楽の勉強に注力していたため、何も対策はしていなかった。それでも分からない問題がないくらいには簡単だったことだけ覚えている。対して、音楽科の受験は、夏よりは少しマシになった程度でそれはつまりどの程度かというと、ソルフェージュは「自分が全くとんちんかんな音を出している」と分かるので、試験室を後にする時は顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたし、猛特訓した聴音は「やたら難しいな」と思いながら臨時記号をつけまくっていたら途中で違う調だと気づいたり、緊張でカウントが狂いまくったりした。絶望的だった。
それでも奇跡は起こった。何故かその年は、一次試験で合格していた多くの人たちが入学を辞退したのだ。そもそも音楽の道に進む人というのは金銭的余裕のある人たちなので、私立に行ったのだと思う。音楽高校では唯一の都立だったので、校舎は古く薄暗かった。実際私達の代が3年間その校舎で過ごせる最後の学年だった。何はともあれ、成績順ではおそらくドベのようなわたしも繰り上がりで志望校に入学することができたのだ。
わたしがオペラ歌手になりたいという夢を持つきっかけになった、小学校の頃の音楽の先生に合格の電話をすると「リコーダー科で受かったのか?」と冗談を言われた。ソルフェージュと聴音が壊滅的なことばかり書いてきたが、歌も、お世辞には上手いとはいえない程度のレベルだった。その先生にとっても、歌で入るより、休み時間にいつも吹いていたリコーダーの方がはるかに合格できる能力を備えていると半ば本気で思われていたんだろうなと思う。
親との仲はますます冷え込んだ。宣言通り、本来の都立高校に通う範囲以上の金銭的な援助やサポートはなかった。それでも初学期の交通費を出してもらえたのはありがたかった。片道2時間かかる距離の定期代は、馬鹿にならない額だった。
普通科以外の教科書代、レッスン代、昼食費は自分で出すことになった。最初のバイト代が出るまでに必要なお金は立て替えてもらった。音楽に打ち込むため、校則でバイトは禁止されていたが、これまた先生に頼み込んで許可をもらった。わたし以外にバイトをしている子はいなかった。皆裕福な家の出だったから。
朝4時に起きて、6時半に学校に着き、自習室で練習して、学校が終わって17時からシフトに入り、終電ギリギリの時間まで働いて、家に辿り着くのは1時近くだった。
コンビニで一番安く、一番カロリーの高い食べ物を探した。あんコッペだった。100円と少しで500kcalが取れる。ひどい時には、1週間にそれ一個しか食べられない時もあった。友達と学食に行くことができない時は、練習室に篭っていた。見回りの先生が、事情を察してポリ袋に入った惣菜ぱんを分けてくれることがあった。
家に帰っても食事は用意されていなかった。シャワーを浴びるのも「うるさい」と怒鳴られた。
睡眠不足、飢え、過重労働。副科のピアノの試験の時、手の位置が飛ぶ、曲のキメのような音を全部ミスして、「どうしたんだ?」と訝しむ先生にこう答えた。「左側の鍵盤が急に見えなくなったちゃったんです」。青ざめた先生に連れられ、近くの大学病院へ向かった。検査の結果、おそらく過度なストレスによる視野欠損が認められた。「もう一つ同様の症状を引き起こす可能性のある病気があるのですが、脊髄を取らないと検査ができません」。説明を聞くと、それは難病指定されている病気らしかった。注射が苦手でお金もなかったわたしは、ただいつもよりなんとなく狭い視界を受け入れることにした。
夏休みのレッスンと練習以外全ての時間をバイトに捧げても、二学期分の定期代や休みの間のレッスン代に稼いだお金は湯水のように消え、生活はあまり変わらなかった。
二学期が過ぎる頃には、体調不良や寝不足で保健室への出入りが多くなった。
秋の終わり。声が出なくなった。唾を飲み込むのも痛かった。歌手にとっての生命線、慌てて病院に行くと、「喉に膿が溜まっている」と言われた。「煙草もお酒も呑まないのに、この症状が出るのは過度なストレスがかかっている状態だから、学校を休みなさい」と診断書を渡された。そして、「今の生活を続ければ、いつか歌えなくなりますよ」とも言われた。今の生活を続ける以外、わたしには音楽のそばにいる選択肢がなかった。
高校2年生の夏、屋上。バレないように繰り返していた自傷行為は、気づけば青いワイシャツをドス黒く染めていた。カッターと、太宰治の斜陽の文庫本。一番仲の良かった友達が横で泣きじゃくっていた。神妙な顔で立ち尽くす担任の先生。屋上の扉の前で、クラスメイトがコンビニのビニール袋をぶら下げていた。包帯が入っていた。屋上から飛び降りようとしていたらしい。記憶がなかった。限界だった。茹だるような暑さの帰り道、「限界だ」と思った。
「このままでは、わたしはわたしを殺してしまう。」
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