インターネットの集合知とAI
別の記事を書きながら思ったことを書いていたら主題から脱線したうえに想像してたより長くなってしまったので。
趣味のものを買うときにググりながらモノ探ししようとしてもおすすめ○○選!みたいなSEOだけの中身スッカスカ企業サイトばかりヒットするようになりましたよね。むかしより個人サイトに辿り着きにくくなってたいへんに不便です。
そもそも個人が情報発信する起点がこの20年ほどで掲示板や個人サイト、ブログからSNSに変わり、さらにdiscordなどの閉鎖的コミュニティに移行しつつあり(ゲームにおいては本当に顕著ですね)、インターネットは集合知へのアクセス性という面でかつてより退化してしまったと感じています。
情報発信の媒体が文章と写真という比較的インデックスしやすい要素から、動画(録画/ライブ)というインデックスしにくい要素に変わったというのが本質的な面でしょうか。
プラットフォームへの依存が生じた時点で検索エンジンだけではカバーできず、もはやアクセス性の退化は必然なのかもしれません。
文字と写真という要素に限って言っても「情報はデジタル化すれば永遠に保存される」というのは誤りでしょう。例えば日本のホスティングサービスだけみてもyahoo geocites、infoseek iswebの死亡と共に消え去った情報の量はきっと計り知れません。
Wayback Machineで消えたそれらを見ること自体は可能ですが、見るためにはURLを知っていることがほぼ前提です。「どのURLにどんなサイトがあって、どのような情報があったか」はインデックスされていませんね。検索によるアクセス性が担保されていない(個々人ごとの記録や記憶を頼りにしないと探せない)情報はもはや歴史的埋蔵物の類で、古墳に埋められた鉄剣や口伝の神話と本質的にはなにも変わりありません。紙媒体が神媒体というのはそういうことです。
20年でこれだけ変わったのですから、これから先20年はというとAIがさらに知識の普遍・陳腐化を加速させるのではないかと気が気ではありません。
指先ひとつと言われたインターネット検索よりもさらに労せず、思考せずとも極めて膨大なデータから取り出した平均的な情報が手に入る。
そこに個性はあるのでしょうか。ひとりの人間が自分で体感して、考えて自分で書いた文章からしか得られない情報や経験、熱量は伴うのでしょうか。指数関数的に進化していくAIのハルシネーションを果たしていつまで見抜けるのでしょうか。もしそれを自身の知識としてなにも疑わずインプットしてしまったら、果たしてそこに人間の意志はあるのでしょうか。
道具をうまく使いこなせないと道具に使われることになってしまいます。
そうならないようにしっかり意識して生きていかないと自分が自分でいられなくなる不安があります。うまく折り合いをつけていきたいですね。
自分だけではありません。子供、一次ソースを調べもしない大人、そういったリテラシーの低い使い手がAIを活用した時に、主従が逆転するリスクにもう少し目を向けるべきではないでしょうか。
何年か後の小学生は「親より先生よりchatGPTに聞けばよくない?」と言うようになる気がしてなりません。日頃から考えることの重要さ、平均で均されに均されたAIの回答ではない自分の考えを持つこと、そこからアウトプットされるものと生成されたものの違い、虚構と真実を見分けるリテラシー、そういったものを子供にもわかるように説明できるでしょうか。書いておきながらわたし自身も自信がありません。
AIに頼り思考しない癖がつき、聞けばすべての答えが手に入るようになり、うっかり全て知った気になれてしまうと「知らないことを知らない」状態に永遠に留まってしまいます。「無知の知」を一生自覚できない人間ばかりになってしまうような気がして、それはなにかとても大切なものをなくしてしまっているような気がするのです。
ところで誤解されそうなので一言申し添えると、「AIは一定のリテラシーをもって正しく活用するべき」というのがキモであって、わたしは反AI主義者ではありません。そもそも正しい活用ってなに?とか考えるとまた禅問答が始まりそうなので、考えることに疲れてきたここらへんで終わっておきましょう。
なお、個人的には自分で考えた文章で自分の考えてることを伝えたいと思っているので、noteのAI機能は死んでも使うつもりはありません。
が、反AI主義者ではありません。大事なことなので二度言いました。
人はこうして新しいものを拒み、古いものを崇め、老いていくんだね。