人生の重荷リリース⑧:母が宗教に入って生きづらくなった子供の話
~ 信仰という心の牢獄 ~ 元JW2世の心
この記事の要旨
JW2世の心の色は、ワインレッドではなくグレーや黒ではないでしょうか。
この記事では「JW2世の心は性被害者の心に似ているのではないか」という持論と解放の必要性について述べます。
※性被害を受けた・そのような現場を見たという話ではありません。心のダメージ具合に共通点を感じる、という私の一論です。
過去への思い
元JW2世さんの多くの方は、その過去を「恥ずかしい」と表現しています。「エホバの証人の子供であることが恥ずかしい」と当時も思っていて、脱会した後も人には言えないし言っていない、という方も多いようです。私もまさにその一人。信仰心薄めの子供だったので、小4以降はひた隠しに隠していました。純正ステルスJW2世です。
・自分の意志でやっているわけではないのに、世間に冷たい目で見られる
・やりたくないのにやらされる
・やりたいことをやらせてもらえない
・親はあくまで「あなたの意志でやっている」とする。ゆえに、学校行事への不参加は自ら先生に意思表示する必要あり。言わされているだけだっつーのに。
この親と子供の言い分の違い、加害者と被害者の言い分の違いが、性犯罪に似ているように思うのです。
親は言うのです。「ママは強制していないわよ、あなたの信仰の問題よ、信仰が試されているのよ、自分の信仰で学校行事に参加しないのよね、でしょ?強制していないでしょ?」とね。
「嫌なら逃げればいいじゃない」「嫌って言わないのだから合意があったってことでしょ?」とね。言われるわけではありませんが、こういう論法です。(実際には嫌と言おうものなら「サタン退散の懲らしめ」が待っているのですが)
自分の意志?自分の信仰?そんなわけないでしょう。
子供は無力です。親の元で育つ以外の生存方法を知りません。腕力でもかないません。嫌だからといって逃げる選択肢がないのです。親に嫌われ、見捨てられるのが怖いのです。
自分の意志なんかじゃなく、恐怖で身動きが取れないだけです。性犯罪被害者の方の叫びが、痛いようにわかるのです。
囚われた心
来る日も来る日も親から洗脳される子供は、次第に「自分の意志で宗教活動をやっているような気」がしてきます。「信仰という名の牢獄」に心を閉じ込められてしまいます。
「何事も自分が選んだこと」「そんな親を自分が選んで生まれてきた」的なすべての原因自分説はいったんどこかに置いておきましょう。今すべきことは、心を牢獄から解放してあげることです。
体が成長し、親の言いなりにならなくてもどうやら生きていけそうだとわかってくる中学生頃から、信仰心薄めのJW2世さんのフェードアウトが始まります。第一波です。私も第一波に乗ってツーっと岸まで逃げおおせた一人です。
脱会し、晴れてシャバに出て自由になれたのに、なぜ何十年も引きずってしまうでしょうか。何十年も前の経験なのに、「ひた隠しに隠さなくてはならない恥・人生最大の汚点」のように思ってしまうのでしょうか。
・自分の意志に反してやらされていた
・屈服してしまった自分への情けない気持ち、やるせない気持ち
・世間では腫れ物にさわるような扱いをされる活動(宗教)であったこと
が原因ではないかと考えています。
理不尽で悔しかったのだと思います。
真の自由を求めて~心の解放
「過去の嫌な思い出にしがみついたり親を恨んでもしかたないっしょ、さっさと忘れてキラキラ生きよう~★」とキラキラ系メンタルコーチ?スピリチュアルリーダー?的な方は言います。「私はいない、アハハ~★」それも一理あるかもしれません。しかし、幼少期の心の傷を「なかったこと」にしても何の解決にもならないのではないかと思い至りました。
ただ、「なかったことにしない」の取り扱いを、適切に行いたいところです。例えば、「日本に日本人として生まれた」という事実をとりあげましょう。「なかったこと」にはできませんし、それをなかったことにして今の人生は成立しません。ただ、ここで行ってはいけない方向「なんで日本に生まれちゃったんだろう、なんで日本人なんだろう」に進んでしまうとドボンです。前世の悪行がとか、カルマがとか言い出すと、また別のドラマが始まってしまいそうです。
「JW2世というハードモードで幼少期を過ごしてきたこと」をまず「あった」とし、「それが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかったこと」も「あった」と認めましょう。誰かを捕まえて言うことはできないけれど、書いて文字に出してみましょう。
「あった、あった、そんなことが確かにあった」と書きながら口に出してみてもいいかもしれません。
幼少期、世界を知ろうと素直に伸ばした触手を親にことごとく断ち切られた経験が、確かに自分にはありました。
世界は怖い場所で、信仰のない人やモノから距離を置くように言われたことが確かにありました。
繋がれた象のお話のように、自分を閉じ込めていた牢獄から自由に外に出られるようになった後も、自ら牢獄の中に自分の心をおさめてしまう。牢獄にいたことを人には言えないくせに、自ら牢獄に住んでいる。かなり滑稽かしら。
こういう心理、なった人にしか理解できないと思います。外野があれこれ言ったり寄り添ったとしても、牢獄を壊すことはできません。
自らの手でこの牢獄を壊す!壊してやる!乗り越えてやる!というのは、恨みや憎しみにとらわれている、ということだろうと思います。
牢獄を壊すのではなく、ただそこから出て別の場所で自由に生きる。
それが「ゆるし」であるのかもしれません。
・・・というわけで。
まずは牢獄から出る経験を繰り返すことが第一ステップでしょうか。牢獄から出ても大丈夫っぽい、牢獄にいたことを人に知られても大丈夫っぽい、のように「大丈夫っぽい」の積み重ねが、心の解放につながる道のような気がします。
今回は「思います」「気がします」が多い文章となりました。事実というより、私見を多く書きました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
あれ、最終回っぽい雰囲気になりましたね。まだ書くつもりではいますが、重荷となっていた大きなテーマについて一つまとめることができたのかもしれませんね。