ヨーガとの出会い
今から10年前の2013年、わたしはヨーガと出会った。
地元で働いていたわたしは、近所で通えるヨガ教室を探していた。肩凝りが酷く、運動不足を感じてはいたものの、身体を動かす事が嫌いだったので、ヨガなら大丈夫だろうという安易な気持ちがはじまりだ。
探して見つけたヨガ教室の玄関には『こころのヨーガ』と看板があり、「ヨーガ?」「ヨガではないのか?」という疑問を持ったが、ま、いいか、と門をくぐった。
部屋に案内されて衝撃を受けた。
みなさんは、ヨガ教室というとどういうものを想像されるだろうか。
ファッショナブルなヨガウェアを着て、鏡張の部屋にヨガマットが敷いてあり、
皆がそこでインストラクターの指示に沿って身体を動かし、隣の人や前の人を見て、自分のポーズは変だとポーズを何度もつくり、それをインストラクターが手や足を触り直していく、とそういったものを想像するのではないだろうか。
わたしもそういうのを想像していた。
しかし、わたしが初めて出会ったのは、『ヨーガ』だった。
灯りがひとつだけ灯ったほとんど暗闇のような部屋に、静かに流れる鐘の音のヒーリングミュージック。
まさに、静寂だ。
正直、怖かった。
だってそこはお寺だ。部屋には大きな仏壇がある。
宗教か、とも思い不安になった。
しかし先生の説明が始まり、わたしの固定概念がひっくり返された。
まず、目はずっと閉じたまま、だという。
他人を気にしない、自分に意識を向けるという意味らしい。
そしてポーズは重要ではない、という。
ポーズを学ばないのか?あんなポーズ、こんなポーズに憧れていたわたしは少しがっかりした。
なにからなにまでもが、想像していた『ヨガ』とは違うのだ。
先生の格好は、緩いインドの服のようなナチュラルな格好だった。肌など出してはいない。出してはいけないのだろうか、と思った。
雑誌などで見るような、ぴちぴちとしたお腹を出したウェアではないことに驚いた。
まず教えてもらったのは、呼吸だ。
目を閉じて呼吸をする。簡単なようで、難しい。そもそも目を閉じる事が難しい。他人を信用しなければ目は閉じれない。さらに呼吸に意識を集中などやったことがなかったので、意味がわからなかった。
しかし、そこで初めて『静寂』というものを実感した。
さらに驚くことに、それがとても心地良かった。特に身体を動かしたわけではなかったのに、頭も身体もとてもスッキリとした。
これは凄い。
終わった後、先生に質問攻めした。優しい先生はいろいろと丁寧に答えてくれて、そこで先生はヨーガ療法というのを基礎にヨーガを教えているということも知った。
救いを求めるようにして、
わたしは毎回通うようになった。
みるみる、体調も心も良くなっていった。
実はその頃、心の具合を悪くしていて、様々な薬を飲んでいたのだ。肩凝りと運動不足を解消するために始めようと思ったヨガは、心の不調を治すヨーガだった。
実感したのだ。変わっていく自分の心を。
心が変われば身体が変わる。
その後わたしは地元を離れ、パートナーと出会い、薬もやめて、健康な心身となり新しい生活を送るようになった。
もっとヨーガの事を学びたいという気持ちや、
同じように苦しんでいる人の役に立ちたい、ひとりでも多くの人が健康な生活を送れるよう、ヨーガ療法でお手伝いをしたい、
その気持ちが強くなり、先生が通ったというヨーガの学校に入学し、本格的にヨーガ療法を学ぶ事にした。
そこでわたしは仕事をしながら〈ヨーガ療法〉を2年間通いながら学び、卒業論文も書き、無事にインド中央政府公認ヨーガ教師の認定を受けることができた。
というのが、わたしとヨーガとの出会いだ。
インド中央政府は、今後、自国が認定していないヨーガインストラクターは、〈ヨーガインストラクター〉と名乗ってはいけないとするらしい、と聞いた。
どうなるのだろう。
ヨーガの世界は複雑だ。
自分の必要とする、自分に合ったヨーガ教室と先生に巡り会えて実習できることは、素晴らしいことだ。
人生の支えとなる。
みなさんにも、そういう出会いをしてほしいと願いたい。