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火の鳥鳳凰編に見る人の変遷

茜丸は将来、立派な彫物師になりたい人間だった。

そして山道を歩いている時に族である我王に出会い
服等持ち物を盗られ、しかも片腕を切られる。
※実は我王は赤ちゃんの頃に事故にあって以来片腕の無い身で、その事でも人々からけなされて生きていた。そして五体満足な普通の身体の者を羨ましく思っていた。


©火の鳥 鳳凰編
©火の鳥 鳳凰編

この頃の茜丸は
たとえ族に腕を切られても、そこで腐らないで克服。

族には何も恨みは無いと言いきる好青年。
自分の心の鍛錬としてますます彫り物師として修行をする。


©火の鳥 鳳凰編


©火の鳥 鳳凰編

ブチという娘とも出逢う茜丸。
村人達に、泥棒だから罰を受けていると言われても

可哀想に思い、茜丸はブチを助ける。
が、ブチは本当に自由で
人を翻弄する娘だった。
しかし、茜丸の後はずっと離れず付いて来る。

我王

小さい頃から身体の事で罵られ
父親も亡くなっているので食べ物にも困っている家の子だった。

そして、腕が使え無いので
村で違う方法で綱引きをして
勝ったら食べ物を貰えると知って、勝負をする我王。

©火の鳥 鳳凰編

勝敗に勝ち、食べ物を母親に食べさせようとするも
排泄物?を投げ入れられ…


©火の鳥 鳳凰編


最初の◯人をする我王。


©火の鳥 鳳凰編


そして歯止めが、かからなくなる。


©火の鳥 鳳凰編

速魚(はやめ)という娘を攫い嫁にする我王。
この頃も悪党なのですが…

ある転機が起こる。

そして僧正と出会う。

©火の鳥 鳳凰編

そして初めておのれの事を考えるようになる…

人は変われるという漫画なのですが
同時に人は悪い方にも変わるという対比をやっています。


都など自分には合わないと呟く茜丸だったが

©火の鳥 鳳凰編

都の坩堝、渦中にいる間に染まっていった茜丸が
やがて別人のようになる。

©火の鳥 鳳凰編


ちょっと待て…


茜丸が都住まいになる前に二人は出会っていて
この時に茜丸と我王のこの話には決着が付いていたはず。

©火の鳥 鳳凰編
©火の鳥 鳳凰編

この時に我王は
「俺に仇をうて」と言ったのだが「そんな事はしない」
と拒否をしていた茜丸だったのにね。

最後に何故そうなったのか?
漫画を読んでそれが分かる人間はいるだろうし
茜丸を非難する人間もいるだろう。

しかし今のエックスでの≪つぶやき判定≫でしたら
やはり

「我王がどんな産まれだろうが、許してはいけない」「最期にのたれタヒには自業自得」

「ブチはワガママなので嫌い」「男に色目を使うし恥知らずな娘」「米泥棒はタヒね」

という意見が何万イイネでしょうね。

人の感情は複雑に流れる

揺れ動く

そんな心の中まで人は気づかない。

変わらない人間もいるだろうが…

個人が個人を断罪する時に
では
自分はどうなのか?も少し考えた方が良いと思いますよ。

↓↓↓心が清らかであらねばならぬ↓↓↓↓
それを言った君が失ったもの

©火の鳥 鳳凰編





©火の鳥 鳳凰編

ちなみにブチは、嘘つきでわがままで、茜丸に色仕掛けをしたり言いたい放題の娘だったが

茜丸が権力者に首をはねられると知って助けようとするシーン…
これを見るとブチに対する気持ちは変わりますかね。


我王の良いシーンも入れないと…と思い
それも紹介します。

©火の鳥 鳳凰編

旅をしていて
ある地獄のような村に辿り着く我王と僧正
飢饉や疫病で、心細く
希望が何も無く不安で絶望的だった人々。

©火の鳥 鳳凰編

我王は何も出来ないと言いながら
取り憑かれたように彫り物をする。
そして自分の厄災を睨み返すような
気迫のある物を作った。

©火の鳥 鳳凰編

それを見て、心の希望を見い出す人々

我王も生きる意味をみつける。

宗教という存在とは?

と考える人はいるだろう。

そしてこの漫画には
宗教というものは
どういう使われ方をすると
人間にとって どうなのか?

というテーマもありました。

そして輪廻転生について、この漫画は日本で最初に取り上げた漫画でもあると思います。


↓今では、転生漫画が多いのですがこのような起源がありますので気になる方は見てみて下さい(またウィキペディア…)


ただの漫画とは言えない「火の鳥鳳凰編」でした。



※加筆修正いたしました。

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