最初で最後のつるっぱげ
関西圏在住の親族一同は「GWだけはどうか避けてくれ……がんばれ、がんばるんだじいちゃん」と長崎に向けて念を飛ばしていた。
というのも、昨年末に肺炎を、先月には脳梗塞を起こして意識が戻らないままの母方の祖父がいよいよだろうと察していたからだ。
私は昨夏、祖父がボケつつも元気なうちにお見舞いに行けたし、母は秋に、年末は兄が見舞いに行ったら驚きの回復を見せた。そんな感じでそれぞれに後悔を減らす努力をしていた。
とはいえ遠方だから気軽に会いに行けるでもない。
祖母もお見舞いに行くのに苦労しない体ではなかったから、面会は限られていた。祖父は病院でひとり、どれほど長い時間を過ごしたことだろうと思う。
というので、構ってもらえなかった祖父の最後のワガママだったのかもしれない。
GWのど真ん中に訃報を受けた。
なんでやねん。今かーい! と、関西圏の身内はほぼ同時に交通手段を選択し、必要な手配を始めた。
私は神戸空港発のスカイマークのチケット購入ページを見て笑ってしまった。前回行ったときの3倍以上の値である。あまりにお高い。
とはいえ仕事のスケジュールにも余裕がないため、交通費を抑えるために車をかっ飛ばして気力・体力・時間を削っている場合ではなかった。
というか、私は運転に飽きることがわかりきっているから片道2時間の距離が車移動の限度だし、中3女子を乗せては運転交代要員もおらずハナから車移動の選択肢はない。
行く1択だから、開き直って航空チケットを購入した。宿泊費も含めて、いつもだったら軽く2往復できそうな額になったのは気づかなかったことにしようと思う。
近い身内のなかで、一番出遅れたのが私と中3女子だった。長崎の葬儀場に着いたのは22時半頃。お通夜には参列できず、近親者たちで寝ずの番が始まろうとしている頃合いだった。
「身内だけでこじんまり」というにはやけに立派な斎場で驚いたのだけど、そういえば祖母は9人兄妹で、それだけでも参列者が多くなるんだった……とすぐに思い至った。もちろん、それだけに留まらない。
女性陣がちょうどお風呂の順番やら誰がどの布団で寝るかを決めているところでバタバタしているなか、ひとまず中3女子を連れて祖父の御身が安置されているところへ行くと、私の父が寝ずの番第1号をしていた。
やるじゃないか父よ、と思った。父は兵庫から車をかっ飛ばしていくことを選択したので、GWの混雑もあり相当疲れていたはずだ。
祖父は外出時には年中帽子を被る人だったので、棺の上にいつもの帽子が置かれていた。遺影が少し若かった。お線香をあげて顔を見てみると、祖父はびっくりするほど優しい顔をしている。気難しい偏屈者がこんな顔できるんか、と。仏になるとはこういうことなのか。すごい。祖父よ、すごいな。なんてことを心の中で話した。
それから私は女孫チームの部屋で寝ることになり、お布団を並べて敷いて4人で転がった。そこで可愛がられる中3女子。翌日の葬儀は午後からだったので、午前のうちに長崎観光しようぜ、と若者たちで盛り上がっていた。
いいな。私は仕事をする隙がそこしかなかったからお留守番組となった。
祖父は享年93歳だし、昨年からずっとこの日を覚悟していたので、悲しみに暮れるというよりは和気あいあいと祖父のことを話し、祖母を労うような穏やかな時間を過ごせた。とはいえ、やっぱり祖母と実子である私の母や叔父はやることも決めることも多くて慌ただしい。お葬式って大変。毎回思う。
血縁者の葬儀というのはなんとも不思議な気持ちになる。
祖父の場合は原爆体験をしているというのもあって、祖父がその過酷な時代を生き抜いてくれなければ私も中3女子も生まれていないから余計に。
そういう意味では、本当に偉大な祖父だ。よくぞ生きてくれた。
祖父は額から後退していったタイプのつるっぱげなのだけど、葬儀で顔の横にお花を添えながら、私は初めてその頭に触れた。
もしかしたらまだ物心つかなかった頃にペタペタ触っていたかもしれないが。少なくとも私の記憶にはないから、形のいい広い額に初めて掌を置いた。
心臓を止め、血液の循環のないひんやりとした頭。ちゃんと言語化しておきたいこの感触、この感覚をこの手に留められるように大事に撫でた。
近親者が次々にそのつるっぱげを撫でるから、「せからしか!!」という祖父の声が聞こえてきそうだった。
それから、火葬場に行って最後のお別れをした。人間焼かれてしまえばこうもコンパクトになってしまうのか……と、これも毎回思う。
まだ熱いままのお骨を拾いながら、さっきのつるっぱげはあんなに冷たかったのになあと、また不思議な感覚を味わった。
「お父さんとお母さんによろしく伝えてね」
というのは、祖父に向けた、祖父の妹さんの言葉だった。
原爆で亡くなった祖父の両親と末の妹は骨も残らず、その日突然、兄妹たった2人の家族となった。骨も残らないって何度聞いても想像を絶する。
この地で息を引き取ったことだけは、本当によかったと思う。きっと向こうでも再会しやすいだろう。大往生だったこともあって、「ありがとう。いってらっしゃい」と送り出すような気分で手をあわせた。
最後に余談として。
今年1月に参列した葬儀では喪服チャレンジにギリギリ勝利した。まだ着られる。腕上がらないけど、ギリギリいける。……と不毛なことを言っていたのにまだ新調していないままだ。
この場合のギリギリ勝利は実質敗北なのに。
10年前の私はリスクを放り投げて「体型を保つためにもこれがいい!」と7号サイズを選んでいた。
今回の参列者を見ながら思った。今後、喪服を着る機会が増えることは避けられない。ずっと元気でいてほしいけど、祖父のあとに続いていくのが自然な年代というのが当たり前にそこにある。
せっかく長崎に行ったのにちゃんぽんを食べ損ねたことを悔いている場合ではない。喪服を買え。
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