【イメージクリエイションラボ】道具も力もスキルもノウハウも、そして言葉も、全ては「扱い方次第」
人を傷つけるために力を振るう人間は、ツールが持つ本来の有効な力の性質を理解していない。
誰かから傷付けられたと過剰に被害者ぶっている人間は、単に現実に起きたことを盛りに盛って同情を誘うべくしてアピールしている。例えば暴言だ。暴言を吐かれて腹を立てたり気が狂ったかのように騒ぎ立てる人間は、その現実をどう受け止めれば良いか、その思考回路を持ち合わせていない。
力がどのように作用しているのか、その結果どのようになったのか、これを真実に辿り着くための論理的思考によってしか仮定することができない。
すべての力は、目的のために活用すべきではあるものの、その目的が恨み、嫉み、羨み、復讐心などによる個人的感情によって対象の人物に対して振るうためのものであるならば、結果はどうなってもおかしくないくらい際限がない。
また、他人を蹴落としてでも自分の保身のために振るう全ての力は、その場は良くても、蹴落とした他人たちの存在がある限り、必ず自分の心に幾度となく自ら問いかけることとなる。「その力の扱い方は本当に正しかったか?」と。
お金も力も、いくら自分のために使い続けたところで、それ以上の価値は見出すことができないし、誰からも評価されることがない。例えば、高額なお買い物をしたとして、一体誰がその出来事を正しく評価してくれるのだろうか。その話をしたすべての相手が「すごいね」で終わる話でしかない。捉え方次第では「自慢だ」と捉えられてしまうかもしれない。そこから派生して感情を恨みや嫉みにすり替える人間もこの世の中には必ず存在する。
宝くじで1等が当たったとする。これを自分から周囲の人たちに自慢げに話したとしたら、一体どんなことが起こるだろうか。最悪、命を落とすことになっても不思議はないし、自分だけではなく、家族や友人が狙われることだってあるかもしれない。
今回は、力に関する話ではなく、「想定できるということ」に関する話だ。小さいころから格闘技を習った経験のある人間は、喧嘩の時に相手に手を出すことはしない。そのように教わるからだ。絶対に自分から手を出すな、と。相手がナイフや銃を持っているのがわかったなら、すぐに逃げろ、と。
素人同士の喧嘩で言うと、中学生や高校生の喧嘩では内臓破裂を起こして死に至るケースは少なくない。なぜそのようなことが起こるのかと言えば、殺すつもりはなくても振るった力が致命傷を負わせることになると想定できないからだ。体格差があればなおさらのこと。喧嘩するにしても、首から上は殴らないし、腹部も攻撃することはないし、胸部も心臓が近いことから決して殴らないし蹴らない。それが本来の格闘家。
急所であれば、格闘家であろうと素人であろうと、相手を死に至らしめる可能性は50%以上の確率である。人体の急所がどこなのか、素人同士の喧嘩では互いにそんなことは考えない。だからもし、どちらかが死に至ったとして、その原因となった人物はこう言うしかない。「殺すつもりはなかった」と。
殺人犯の多くがこう言う。それで判決において執行猶予が付く意味ってなんだろうね?ナイフや包丁で刺せば人は死ぬし、ロープで思いっきり首を絞めつけても人は死ぬ。相手が死んでも構わないと思ったからそういう「道具」を使ったわけでしょうに、なんで嘘を吐く??殺すつもりがあったかどうかは無視すべきではなかろうか、とボクは思うけれど、間違ってるだろうか。人の命を殺めてしまったことに対する判決は、厳罰化すべきではないかな、と。
この日本において検察が強大な力を与えられているのは、被害者寄りの力を強く働かせるためのような気がする。ただ、事実だけに論点を絞ると、過剰な判断が下される可能性があるから、判例を頼りにするわけだ。ただ、その一方では、冤罪の予防が完全ではないこともまた事実。時に人は、真実を曖昧にするために、あらゆる手段を講じることもする。自分が助かりたいがためだけではなく、自分の大切な誰かを守るために。
罪と罰が常に裁量が正しく判断されたものであるかどうかを、司法の最高機関である最高裁ですらわからないことだって当然のようにあるだろうと思う。なぜなら、未だに解明されていない事件は無数に存在することもまた事実だからだ。いくら最高裁の裁判長であっても、証拠不明な事件については裁くことができない。想定することが不可能な事件だから。
目的がどうかにもよるけれども、守りたいものが何なのかによっても、人の思考が向く方向はグルっと180度回転することもあるからこそ、知るべきなのだと思う。「力の作用とその結果」を。