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◆身に余る私益を貪れば報いを受ける

 呪術廻戦、両面宿儺のセリフ。欲のない奴はダメだなんて聞くことがあるけれども、実際どうなんだろうね。私欲に走った人間の末路というのは、いつの時代も悲惨な事態に至っているようで、そうまで自身を振り切れる人間の感覚というのはイマイチよく理解できない。

 確かに、時代が進めば進むほど世の中には多くの楽しいこと、面白いこと、気持ちいいことが加速的に普及してきたことは間違いないし、それらの影響を受けずに生きるということは極めて困難なことだろうとも言える。

 しかし、個人的に、自身の欲望に突っ走れるだけのものかと言われると、実際にはそうではないとも思える。というより、自分が何をすれば楽しいとか面白いとか気持ちいいとか感じられるのかを考えてみても、これと言って思い浮かぶものがない。

 強いて言うならば、食くらいだろうか。食べ物や飲み物が喉を通ること、これに加えて毎日の排泄に関して言えば、生命故の基本的な快感は得られている。でも、その程度のことだ。

 大金が欲しいわけでもなければ、その金で豪遊したいわけでも多くの女性を侍らせたいわけでもないし、高級なものが欲しいわけでもない。そういう類の欲求はほとんど皆無に近い。一通りのことを経験してしまうと、おそらく本来は気付くべきではない領域の快楽がどの程度のものか、これを一度でも知ってしまうと、もうそれ以上はないのだということにも同時に気付かされる。

 本当は何がしたくて、何が欲しくて、どんな快感を得たいのかということを冷静に考えてみると、世間一般で言われるようなものにはほとんど興味がないのが自分なんだということがわかる。私欲に走り、私益を貪る、そういう意味の欲の満たし方をしたい人間ではないのだと。

 であれば、食を一番大事にする生き方を選択するというのが自分には一番合うのかもしれないと、そういう価値観に上書きされるようになった。時代の潮流、その影響も少なからずあるのかもしれないけれども、好景気だったらどうだったのかについて思いを巡らせても意味がない。結局のところ今の時代を生きるしかできないわけで、今の時代において許容される枠を外れることのない生活をしていくことが何より大切だと考えるのが普通だろう。あくまでも私がそう考えているという話。

 あらん限りの欲望を満たしたものが最高に幸せな人生を生きているのかと言えばそうとも限らず、質素な生活をしている者が不幸であるとも限らない。

 本当は自分がどういう生活をしたいのか、そこにシフトしていくことこそが唯一、自分にとっての人生であり、自分にとっての幸せな生活なのだと考えれば、世間がどうであろうと関係ないし、マウントの取り合いをしている人たちの中に混ざって争う必要もない。彼らは彼らの生き様でもってマウントを取り合っているのだから、敢えて干渉することもない。

 生き方の再定義に正解はないのかもしれないけれども、自分にとっての最適解については、自由に、一切の比較対象のない定義付けを自分がやればいいのだ。それが正しいのか間違いなのかは自分を含む誰であろうともわからない。自分が納得すればそれでいい。例え他人が何と言おうと、自分で導き出した最適解は揺らぐことがない。

 振り切った人生にはほかの誰も経験できないような珍事、衝撃、事件事故もあるだろうし、想定不可能なほどの大きすぎる幸運に恵まれることもあるのかもしれないが、そういう人間に対しては、哀れみも憧れも一切必要ない。ただその人がそういう人生を選択して生きた結果というだけのこと。

 地味に生きることが格好悪いとかダサいなどと言いたい人間には言わせておけばいいのであって、そういうノイズに耳を貸すことなく、意識を支配されることなく、ひたすら自分の人生と向き合えばいいのだと考えておくことが、実は他の誰かのどんな立派な言葉よりも重要で大切なことなのかもしれない。

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