【#不要論】日常に”超常刺激”は必要ない
※【#不要論】それは必要ないのではないか、なくて然るべきなのでは、ない方がよいのではないか、という考え方や疑義を指す言い方。(Weblio辞書より)
どこかこう、現代の人たちは日常にない過度な刺激を求めがちなのではないかと感じさせられる。
人の感覚は、常習化することで麻痺していくもので、どんなに素晴らしい体験でも、常態化すれば嬉しい、楽しい、気持ちいいというものだけではなく、我慢も痛みも苦痛も麻痺していく。
感覚を10段階に分けた時、最小感覚を1、最大感覚を10とする。人は、10の感覚を体験すると、9以下では満たされなくなり、やがて10の最大感覚も常態化するとそれでも満足できなくなり、超常刺激である11以上の強い刺激を求めるようになる。
そのようにして段階的に麻痺してしまった感覚は、元に戻すにはかなりの歳月を要するし、人によっては感覚そのものを失ったまま元に戻らない人もいる。
感覚がバグるということは、脳がバグることに等しい。パソコンで言うところのCPUがバグると、OSは正常に起動しなくなったり動作が重くなったりするのと似たような現象だ。
足りない、足りない、足りない、足りない、過重不足が超常刺激へと移行させる。
最終的には自分を満たしてくれるものがなくなっていくのが超常刺激。むしろ、その前に自分の身体に異常を来し、普通に生きていられなくなるほうが先にやってくる。
依存性の高いものに限って飽きが来ない。そもそも依存するものというのは、依存させるように作られていて、自制できない大抵の人は中毒になる。
食事、睡眠、排せつ、これら三つで中毒になる可能性があるのは食事だけで、睡眠中毒や排せつ中毒というのは存在しない。ただ、疾患として不眠症や頻尿・便秘などといったことはあるが、中毒とは無関係。
ファストフードを絶つだけで体質改善が可能だし、アルコールも飲んだって構わないけれども、これまでの半分の量で済ませたり、アルコール度数も低いものを選択するなどといったことで、少量でアルコール度数の低いお酒でも酔えるようになるまでには時間が解決してくれる。
人によっては、数カ月くらい間を空けてお酒を飲むだけでもそれを実感することが可能。
いくら飲んでも酔えない、だからもっと飲むというのが良くない。その時点で酔いは麻痺していることに気付かないといけない。
嗜好品で言えば、タバコももちろんそう。時に一日の喫煙本数を2箱分などと自慢げに話す人がいるけれども、意味が分からない。きっと嗜好品の意味がわかっていないのかもしれない。
タバコは体に悪いのは確かにそうなんだけれども、喫煙者だけが肺ガンになるわけではないし、過剰に喫煙者を害虫みたいにしてボロッカスに非難する人もさ、きっと体に悪いものを日々摂取しているんだよね。ミネラルウォーターも実際には人の身体には毒だからね。有害成分の含有量が微量だというだけ。
こういうことを言うとさ、水は人様に迷惑にならないけど、タバコは副流煙がとか臭いがとかって一生懸命に毛嫌いするような言い方をしてくる人がいる。そんなに言うなら、タバコが非合法な国でも探して移住すればいいじゃないの。
依存とか中毒の犠牲になっている人たちの多くは、日常のストレスや苦痛が蓄積したことによる反動で陥っているのかもしれない。なんだかんだ今もまだまだストレス社会。コロナ禍が始まって以来、人々のストレスはこれまで以上に間違いなく増幅している。
こういう時に自制が効かせられる人というのは、なんとか乗り越えていけるだろうし、そもそもそんなに飢えていない人は普通に乗り越えていけるのではないかな。
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感覚がバグった日から、正常な日常を過ごしていた人生時間は止まる。暴飲暴食で太ってしまった人は、適正なダイエットをすれば元の体系を取り戻せるかもしれないが、これまでの人生で体感した最大快楽は脳が忘れずに覚えている。その記憶が、いつでも人生時間を止める可能性があるというリスクは無視できない。
自分にとっての正常を如何に維持していくか、簡単なことではないけれども、自分にとって何が必要で何が不要なのかを定期的に仕分けをする必要性は不要ではない。(ややこしいw)
※noteでは、「#○○不要論」といったタグは散見されたが、「#不要論」単体のタグはなかったので作っておきました。皆さんが思う不要論、このタグを使って投稿してみてください。
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