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【職場改善note有料マガジン】No.0019・・・アイデアには「色」「コントラスト」の違い、そして、「鮮明」なものと、「ぼやけ」ているものがある。

 皆さんこんにちは♬ にゃむです♬ 久しぶりに職場改善noteを更新します。 当マガジンは、「単価3,300円」でこの先ずっとお楽しみいただけます。 あなたが今「社会人」として働いている人でも、「学生」でも、はたまたどちらでもなくても、きっと何か1つくらいはプラスになるマガジンになるように、毎回思いを込めて文章を作成しております。 ボクがどんな文章を書いているかは、「 #思考の言語化 」のタグからいくつかのnoteを読んでいただければおわかりになるかと思います。

 中でも、当マガジンにおける「職場改善」関連の文章は、より思いを込めたものに仕上がっていると自負しておりますので、是非ご購読頂き、バックナンバーのnoteも、最新のnoteも、双方お楽しみくださいませ。 今回19回目の更新になりますが、仮に次回20回目の更新を迎えた際に、3,300円を20で割ってみてください。 note1つ辺りの単価は「165円」です。 100回目の投稿時にはnote1つ「33円」です(笑) どんどん単価が安くなっていきます(悲) おそらく、「33円で1つのnoteが読める」と考えれば、チロルチョコ感覚でご購読頂けるようになるかと思います♬ 200回目の更新時にはnote1つ「16.5円」になります(悲) 決して高いお買い物ではないと思いますし、身に付く何かや気付きとなるものがあることを考えれば、いずれ元は取れると思います♬

 皆様のご購読、心よりお待ち申し上げます♬ もちろん、ボク自身も働いているので、働く者の目線でいろんな物事を捉え、どんな会社で働いている人たちにも、どんな肩書で働いている人たちにも、必ずプラスになる文章を提供させていただきます♬

【1】「人それぞれ」考え方が違うのなら衝突・批判・誹謗中傷は当たり前

 ボクはね、何かというと「考え方は人それぞれでしょ」みたいな言い回しをして、どこか正論を言っているようで、話の腰を折り、結局結論に至らないように話を曖昧にしてしまう人が「一体何を言いたいのか」がよくわからない。 「考え方が人それぞれだから何?」という疑問しかない。 つまり、いちいち言葉にして言うほどのことでもないと思うのだ。

 ヘッダーに書いている「The Battle of IDEAS」は、『思想の争い』という意味だ。 考え方の違いから起こる「衝突」や、他者からの「批判」や「誹謗中傷」は、「いけないこと」ではなく、そもそも「当たり前」なのだということをボクは言いたい。 互いの主張が食い違えば、当然衝突は起こるものだし、周りの人たちとは全く違う主張をすれば、批判されたり誹謗中傷されたりするのは、この人間社会においては当然のことなのだ。 ボクはこれが「アイデアの本質」だと思う。

 1つのアイデアに対して、その場にいる全員が賛同するようでは、そのアイデアが状況に対して必ずしも適正なものかどうかは測ることができないし、仮におよそ失敗するアイデアだと想定できるものだとしても、誰一人そのことに気付くことがない。 全員が全員賛同するようなアイデアは、その時点で却下しなければならない。 理由は一つ、「面白くないから」だ。

 宗教的思想もそうだけれども、各企業が従業員を従わせるために敷くルールや規則だって、必ずしも適正であるとは限らないのに、意見させない環境を従業員に敷いたり、作ろうと思えば声を吸い上げる仕組みを作ることもできるのに一向に動こうとしなかったりといったことが、会社組織には見られる。 みんな黙って従っている割には、裏では「あんなことして何の意味があるのかわからん」とか「こんなことやっても無駄でしょ」などとボヤいている。

 違う、本当はそう言いたいわけではない。 自分が個人として意見を主張することを怖がっているに過ぎないのだ。 何を懼れているかというと、周りの人たちとは違う意見を主張したり、ルールや規則に対して異議を唱えたりすれば、周りから批判されたり、嫌われたり、誹謗中傷されたりと、「自分の立場」が危うくなることを懼れているのである。 大半の人たちがこういう考え方をしていることは、言わずとも周りを見渡せば手に取るようにわかることだ。

【2】会社組織には一定数の「新・ぶら下がり社員」が存在する

 一応、Yahoo検索で「新・ぶら下がり人間」の意味を調べてみることにする。

【「新・ぶら下がり人間」とは】・・・会社を辞める気はない。でも、会社のために貢献するつもりもない。そんな30歳前後の社員のことを、本連載では「新・ぶらさがり社員」と呼ぶ。「新・ぶら下がり社員」が増えれば、企業はどうなるのか。端的に言うと、企業の成長が止まってしまう管理職がいなくなり、現場で判断できる人もいなくなるこうした企業にいる社員の心も、いつの間にかむしばまれてしまうだろう。

【参考サイト】IT media エンタープライズ「新・ぶら下がり社員が企業をむしばむ」

 この記事には「30歳前後」と記載されているけれども、ちょっと言いすぎな気がする。 ぶら下がり始める社員の年齢は40歳を過ぎた頃からの社員だと個人的には認識している。 しかも、肩書が平社員であっても役職者であっても、40歳を過ぎた頃から仕事に対する熱が冷め始め、会社へ貢献するという本来の使命も愛社精神も失われていくのだと感じる。 もちろん、そうではない人たちもいる。 しかし、圧倒的少数派だ。

 「一か月経てば給料がもらえて、定年まで食い繋いでいける」といった、向上心の欠片もない社員がどこの会社にも存在する。 今に始まったことではなく、終身雇用制度が長年続いてきたことでこうした種類の「やる気の無い社員」を増殖してきたと言える。 彼らは、会社がどんなに素晴らしい大義名分を掲げたとしても、どんなに厳しいルールを敷いたとしても、我関せずで手抜きをすることしか考えないため、言葉という言葉が通じない。 挙句の果てに、そういう人が組織の上にいようものなら、その人よりもやる気のある人が異動してくるか、その人よりもやる気のある部下が昇進しない限りは、その組織に属すメンバーたちは何一つ期待することなく、ただいたずらに毎日を過ごすことになる。

 人手不足の現代社会においては、一概に人事の責任とばかりも言えなくなってきているため、代わりがいないから組織の長を継続して勤める人もすくなくはないだろう。 やる気のない社員の周りにいる人たちもやる気をなくす、そういう傾向にあるということは確かに感じられる。 無駄な作業も平気な顔してやっている。 効率を上げるためにどうすればいいかなんてことは微塵にも考えようとせず、ただやれと言われたことをやるだけ。 誰も喜ぶことのない、誰のためにもならない、そういう無駄な作業をやらせて、ミスが起こるとその無駄な作業に対してミス再発防止を考える社員たち。 どうかしてるんじゃないか?って思ってしまう。

 その上、「昔はこんな作業手順ではなかった!」とか言い出して、今よりもメチャクチャ時間のかかる昔の作業手順に戻そうとする(笑) 無駄な作業に時間をかけるように仕向ける社員たちって一体何なの?って思う。 無駄の上塗りがすごくて怒りを通り越して笑えてくる。 どっからどう見たって無駄な作業に対してさらに時間のかかる非効率な方法で作業をするなんてあり得ない。 明らかに、それをわかっていて言っているようにしか思えない。 おそらく、説明させたところで納得できるようなものではないことはわかる。 企業はこうした種類の人間たちによって、無駄に巨額のコストをかけることになる。 いつまで黙って見過ごすのかを観察してきてはいるんだけど、一向に体制がかわらない。

 ボクは派遣社員だから無視しようと思えばできなくはない。 ボクの父親も「お前は正社員でもなければお前の会社でもないのだからほっとけばいいんだよ」って言ってたけど、人一倍「当事者意識」が強いせいで、真剣に考えてしまうクセが身に付いてしまってるんだよね。 おそらく、過去の経験が大きく影響しているのだと思うけれど、トンチンカンなこの状況を目の当たりにしてもなお我関せずでいられるほど無神経な人間ではない。 ぶら下がり社員症候群に侵された職場かどうかを判断するには、もう少し観察しないといけない。

 ただ黙って眺めているだけではなく、要所要所でボクも個人として、従業員として発言する。 派遣社員だから言いやすいというのもあるのかもしれないけれど、発言したことで批判されようが誹謗中傷されようが、そんなことはボクには関係ない。 言いたい人間の課題なのだと切って捨てればいい。 ただ、批判するだけではなく、批判の代案となる意見を言って来るような人がいれば真っ直ぐ向き合うつもりではいる。

【3】無駄なことに対して無駄だと言える勇気を持つ人材こそ企業が求めるべき人材である

 これってそんなにおかしい考え方かな。 まぁ、確かにぶっきらぼうに「無駄だ」と言われたら、多少イラっとはするんだろうけど、本質的な意味で無駄であるならば、無駄だと指摘されても言い返す意味がない。 無駄なことに対して無駄だと発言できる人間を批判する人たちは、つまり「無駄なことに対して無駄だと言える勇気がない人たち」ということになる。 失礼でもなんでもない。 むしろ、そういう勇気ある人に対して批判する人たちこそ失礼ではないのか?とボクは思ってしまう。

 そりゃーね、効率ばかりに気を取られて手順をスッ飛ばしてミスをするのも良くないけれども、もっと良くないのは、「無駄だとわかっていながら無駄なことにドップリと時間をかけることに対して誰一人として異義を唱えないこと」ではないかな。 別になんでもかんでも無駄だと言ってるんじゃない。 無駄かどうかの判断をすることくらいできるはずなのに、事ある毎に「今まで通り」「ルール通り」「昔やっていた通り」にやることが「正しい」と思い込むんだよね。 そういう指示をする上司やリーダーにも問題あると思うんだけど、彼らのさらに上の人たちはストップかけないんだよね、どういうわけか。

 これこそまさに、40歳以上の社員に見られる「ぶら下がり症候群」なんじゃないかなって思う。 とにかく面倒事を避けて、変化を嫌い、今まで通りにやっていれば大丈夫だと主張する。 ずっとそんなことを言っていると、いつしかそういう発言をする自分のほうが正しいとまで思いこむようになる。 言い方を換えれば、「ぶら下がっていてくれたほうが扱いやすい」という組織の体質があるのかもしれない、と疑わなければならない。 意見する人間がいない「イエスマン集団」は、ダメなことでも黙って従う。

 これのどこが「家族のよう」なんだ? 家族間では許せることも、職場では許してはならない。 前提をすり替えればどうにでも事を曖昧にすることはできるし、いくらでも馴れ合うことはできるだろうよ。 自分に都合の良いように物事を解釈するクセのある人間には、言葉は通じないさ。 なぜかって、言葉を雑に扱う人間だからさ。 嫌いなんだよね、そういう人間。 肝心な時に保身ばかり考えて黙り、間違っていることに対して正しい反論をしない。 鉄がサビる現象と何ら変わりない。 条件さえ揃えば鉄はサビる。 人の心も同じで、周りにぶら下がり社員がいれば、関わる多くの人たちの心がサビていく。

 鉄も人の心も条件さえ揃えばサビる。 ただ、両者の間にたった1つ明確な違いがあるんだ。 鉄をサビさせないようにするためには、湿気を抑えるための防錆シートや乾燥剤、サビの増殖を防ぐ防錆液や防錆スプレーがあるけれども、人の心をサビさせないようにするためのこうしたアイテムは存在しない。 結局、「自分の意思」がどうかというだけのこと。 どんなに素晴らしく有効で説明力のあるアイデアを持っていても、勇気がなく、意思が弱ければ何の意味もない。 そうは思わないか?

 質問に対して「わかりません」と答える時、英語ではこういう表現をする。 「I have no idea. 」  しかしこうは言わない。 「I don't have any idea.」 両方とも直訳すれば「私は何もアイデアを持っていません。」だが、こうも解釈できる。 「私にはどうすることもできません。」 日本語で「わかりません」「知りません」と言う時は、英語の観点から捉えると「私は何も考えていません」になる。 意思の無さや勇気の無さを自ら露呈していることを、多くの日本人は自覚していない。 おそらく、例えばアメリカ人と日本人を社会的に比較した時に、日本人の意思の無さと集団心理には少なからずアメリカ人からは驚かれるに違いない。 あくまでも、社会的に比較した場合だ。 すべての日本人が・・・ということではない。

【4】資源のない日本が世界に先駆けて経済発展できたのはなぜか

 それは、成長産業に特化し、時代の変化を捉えることができたからではないだろうか。 ソフトバンク孫正義氏は、「自動車業界は成熟産業」とし、向こう10年という年月をかけて衰退期へと突入すると予測している。 一方で、自動車の自動運転技術を加速的に進めているソフトバンクやGoogleなどといった大手IT関連企業が自動車業界に変わって今後の交通インフラを牽引する形となっていくという予測が濃厚になってきている。 つい先日、トヨタ自動車の社長、豊田章男氏は「終身雇用は厳しい」とコメントした。

 すでに、社会は気付き始めているのである。 これまでは安泰と言われてきた自動車関連企業が今後10年20年そして30年先を見据えた結果、企業の成長は厳しいという見方をしているのである。 車は売れなくなっていく、という見方だ。 これまでは個人も企業も私有することが当たり前の概念だったものが、きっとこの先、自動化が進むにつれその概念が徐々に薄れていくことになるのかもしれない。 当然、自動車免許も自動車学校も必要なくなり、誰もが「料金を支払って利用する」か、もしくは「月額契約をして自動運転自動車を利用する」か、という流れになっていくのではないかと考えられる。

 モビリティー事業とは何かを少し調べれば、認識に真実味を帯びてくるに違いない。 自動車そのものの在り方がどこかのタイミングで一気に変化するパラダイムシフトが起こる、そのように予測できるのが現状だ。 だからと言って、そうなるまで黙って指を咥えて眺めていればいいということでもない。 今自分たちがすべきことを真剣になって考え、アイデアを共有し、問題の解決であったり、新しいことを生み出したりして、「未来への備え」をしていかなくてはならないのが「今」ではないだろうか

 この日本という国は資源がなく、電力は原子力発電に頼らざるを得ない状況。 原発に変わる発電技術が、火力発電でもなく、地熱発電でもなく、太陽光発電でもない、全く新しい発電技術が創造されない限り、脱原発は不可能ではないだろうか。 それに、脱原発ができたとして、廃炉はどうするのか。 これにいくらの費用がかかり、高濃度の放射線物質を含む汚泥の処理・管理を誰がいつまでやるのか、こういうことを踏まえて考えた時、脱原発には向こう40年以上かかるとされている。 原発反対を訴える住民たちの気持ちもわからなくはないが、国内すべての原発を停止し、再稼働ができない状態にまで陥れば、電力不足という新たな問題を生み出すに過ぎず、経済は加速的に衰退していく。 そのことがわかっていないわけではないだろうに、いつまでも反対運動をすることに本当に意義があるのだろうかと思えてならない。

 あまり先のことを考えても仕様がない? そんなことを言っているから問題一つ解決できずにいるんじゃないのか? ボクはそう思う。 いつまでも過去の栄光に浸っている場合じゃないと思うんだけどなぁ。 やりたいことをやって人生を生きられたらこんなに幸せなことはないのかもしれない。 でも、国民の半分がそんな生き方を選択したとしたら、国はあっけなく亡ぶ。 企業に属すことなく生計を立てる、そんな生き方を選択する人間たちが次々と出てきているが、その分だけ、企業は人手不足に苦しみ、働く者たちへの負担が増していく。 それでもホームレスが存在するのだからおかしな話だなとも思うけれど、近い将来、日本からホームレスが消えると予測されている1つの理由として、国の政策となる可能性のある「ベーシックインカム制度」により、全ての国民が毎月給付金を受け取ることができるようになるというものがある。

 令和元年から令和10年までは、間違いなく過渡期になるだろうと思う。 物事が先延ばしにされるのはほとんど当たり前のことだとすれば、10年以上かかることだって十分に考えられる。 この10年以上を、何も考えずにただ毎日をのうのうと生き続ければ、結果的には後悔しかやってこない気がする。 1つの会社に骨を埋めるつもりで働くという終身雇用制度ありきの働き方はもうオワコン。 企業に属して何十年も勤めるという働き方のコンテンツは終わりを告げた。 トヨタ自動車でさえそのように認識を改めたのだから、否定しようのない事実と言っていいだろう。 となると、グループ会社も取引先企業も、徐々にそのように認識を改めざるを得なくなる。 派遣会社が成長軌道に乗ったのは、そうした時代の変化の現れでもあると思う。

【5】能力のある者に仕事のオファーが集まる社会

 ようやく、働き方が最適化される時代が到来するのだと思って間違いはないと思う。 「例えば今働いている会社を辞めたとして、あなたには何ができますか?」と、個人の能力に社会が注目し始めたのだ。 今最も注目されている技術の一つに「人工知能」があるが、これを上手に扱える人はまだほんの一握りの人間しかいない。 でも、今このタイミングで人工知能を学び扱えるようになれば、これを一つの能力として採用する企業はいくらでも出てくることだろうと思う。

 しかしボクはというと、人工知能にはそれほど興味はないし、まだ現時点では6歳の子供にも劣るレベルだとGoogleが発表したくらい、まだ始まったばかりだ。 人類がこれをなんとか実用化できるようにと息巻いて必死になっている今、個人としてこれに興味を向けるつもりはない。 それよりも、「自分には何ができるのか」を追求するほうが、まだ人間らしく生きていける気がする。 人が持つ感性によって生み出される物事は、人工知能と言えどそのこと自体をマネすることはできない。

 将来的に、人間の脳と人工知能を接続するという技術が開発されると囁かれているが、それはもはや人間ではなく、人造人間に近い存在になると考えられる。 そうなると、「私」や「自分」といった概念も書き換えられてしまいかねない。 おまけに、仮想現実を体感できるVRやARなどといったコンテンツに人生時間をドップリと投じることになれば、現実社会とは全く異次元の空間で生きることになる。 このことを「別にそれも人生なんだからいいんじゃない?」と言う人もいるかもしれないが、ボクはマッピラ御免だね。 確かに、普通に生きてれば体感することのできないことを体感できるのだから脳刺激はものすごいのかもしれないが、一度それに慣れてしまったら現実社会では生きていけない人間と化すと断言できる。

 過去の歴史を振り返ればわかるじゃないか。 ゲームの影響で狂った人間を何人生み出してきた? 今とても人気を集めている「荒野行動」というオンラインゲームは、本当に大丈夫なのか?と思えてならない。 銃を片手に他のプレイヤーが操るキャラクターを撃ち殺す、そういうゲームだ。 これで人生まともに生きていけるとは到底思えない。 ところが、悪という悪に手を染めてきた極悪人もいざとなると神に祈る。 どんな生き方をしようとも人は結局都合の良い解釈しかしなくなる? いや、そんなことはない。

 最も敵視すべきなのは、「慣れ」だ。 今働いている会社に慣れてしまった人は、いつか別の会社で働かなければならなくなった時に、それまで前の会社の働き方や人間関係に「慣れ」てしまったことに苦しむことになる。 果たして、そういう人に対して複数の企業がオファーをするだろうか? ボクはそうは思わない。 適時、自分の意思で、自らの能力を発揮できる人にこそ企業はオファーを出すに違いない。 「慣れ」は本当に怖いなと思う。 人間は、満足すればそれ以上の努力をしようとしなくなる。 例えば、あなたの元に5億円の金が届けられたら、それでもあなたは努力をするだろうか? お金を稼ごうとするだろうか? しないだろう。

 結局人間は、大金を手にすればその生活に慣れる。 貧しかった時のことは記憶の外に追いやり、「今に満足」して生きることになる。 そののち、大金を失い貧しい生活に逆戻りした時に初めて気付くのだ。 「どうせこんなことになるくらいなら貧しいままのほうがよかったじゃないか・・・」と。 ボクは金持ちになったことはないけれども、きっとね、ある日突然大金持ちになったとしても、今以上の幸せを感じることはないだろうなって思ってる。 金で出来ることなんて高が知れてるから。 金に寄ってくる人間なんてろくでもないこともわかってるし。 だったら、派遣社員として安月給でも、自己研鑽しながら生きる方がいいって思ってる。

 世の中には学びがたくさんある。 金を追うことにばかり必死になってたんじゃ、人生あっという間に終わってしまう。 間違ってるよ、仕事に時間をドップリ投じて必要以上に給料を稼ごうとするなんて。 欲しい「物」なんか何もない。 ただ自分の時間を自分のために投じて、毎日少しずつでも勉強して、いつか複数の人たちのために役に立てるようになればそれでいい。 思えば、オファー型の働き方は、ボクが目指しているところなのかもしれない。 自分にできることを他の誰かのためになる働き方をして役に立つ、そういう生き方をしていきたい。

【6】他人を尊重できないなら出ていけ!

 まずこの動画を視聴してほしい。

 人種差別が未だに色濃く残っているアメリカの空軍士官学校の校長のスピーチ。 同じ言葉を何度も繰り返し発言するこの動画は、一時期話題になったらしいが、ボクはこの動画を一時保存して何度も何度も聞いている。 ネイティブの発音の中でもすごくきれいな発音で、彼が言っていることが真っ直ぐに伝わってくる。 何度でも聞いていたい動画の一つ。

 「他人を尊重する」とはどういうことかなんて考えなくてもわかることではあるけれども、人は、肌の色や宗教や肩書や経歴など、自分と他者を比較して何を以って上か下かの線引きをして言っているのかわからないが、どうしても誰かを卑下するような見方をしてしまいやすい生き物。 つい最近だったかな。 経済産業省のキャリアで自動車関連課の課長補佐の西田哲也容疑者(28)が、同省会議室内で覚せい剤を使用したとして逮捕されていたね。 この世界では、覚せい剤を所持・使用すると犯罪として罰せられる。 今更そんなことは言われなくても犯罪だってわかってるよね。 それでも、国家機関のキャリアでさえ、人道を踏み外す選択をしてしまうことがある。

 人を敬うことができなかったり、人に対して感謝ができなかったりする人は、簡単に誤った選択をしてしまうのかもしれない。 企業内部不正や労災隠しだって全く同じことが言えると思うんだよね。 無駄な作業を改善できない、というよりは、改善するつもりがない、と言ったほうが正しいような状況下で異議を唱えると、みんなしてできない言い訳をする。 それこそまさに「私たちはみんなして何も考えていません」と言っているようなもの。 ぶら下がり社員の集団においては、おそらく特定の数名が他者へ悪影響を及ぼしているものと考えられるが、それでも正当性とも言えない物言いをする。 堂々巡りってやつね。 その特定の数名っていう人たちが組織から抜けるだけで引き締まると思うんだけどね、なかなかそうもいかないのが現実なんだろうな。 ハッキリと出ていけと言えるくらいの人が居れば話は別なんだろうけどね。 そういう人もいない。 みんなで馴れ合ってるから。

 タイトルに示したように、「アイデアには色・コントラストの違い、そして、鮮明なものとボヤケているものがある」。 いろんなアイデアがあっていい。 しかし、過去のやり方とか現行のルールがあたかも正しいかのように主張するだけで、自らの意思で今までにないアイデアを発言する、ということができなければ、アイデアはないに等しく、「何も考えていない」に等しい。 意思がなく、勇気がなくて、何も考えないような人ほど「他者を悪く言う」クセがベッタリと思考に貼り付いて、適正な思考が働かない

 働き始めてから何年も何十年も、読み書きを一切してこなかった人の思考というのは、見事に周りの人たちに合わせた考え方が基本になってしまっているため、それとは違う意見やアイデアを提示されると批判しかできないだけでなく、代替案も提示できない。 唯一できるとすれば、「経験則で語る」ということ。 確かに、経験則から言えることの中にも説得力のあるアイデアはあるかもしれない。 しかしそれだけでは不十分。 時の流れと共に職場の状況も変わるし人も入れ替わる中で、いつまでも経験則による考え方が通用するとは思えない。

 起きた問題に対して人のミスばかり責め立てるような人間は、その瞬間「これからどうすべきか」を考えるに至ることがないため、いつまでもブチブチ文句垂れている。 やってくれたことに対する感謝は微塵もない。 そんな人間たちのためにできることなんてありはしない。 今後そのことはしっかりと明示させてもらうことにしようかな、と思っている。 人間がやることに完璧さを求めるだけの無能な社員は出て行ったほうがいい。 みんなが不幸になる。 

「とんでもない言葉やとんでもない考え方に対するふさわしい反応は、よりマシな考えを返すことだ。」(アメリカ空軍士官学校校長の言葉)

 本当にその通りだなと思う。 意味不明な物言いやふざけた批判に対して、感情むき出しにして怒ることはナンセンスだということだ。 感情を揺さぶられた瞬間、相手にコントロールされている、そういうふうに解釈すべきだと思う。 相手がどんな言い方をしようと、改めて冷静に「マシな言葉」を相手に返してやるほうが賢明な対応だと言える。 直接相手に向かって言葉を返す必要はない。 それ以外に最も適した言葉の返し方は、社内メールや手書きで「文章にして」言葉を返す、これに尽きる。 読ませて相手に考えさせる最も適した手段だ。

 世の中には賢い思考の持ち主がたくさんいる。 彼らから学び、実生活に活かし、必要に応じて自分も学んだ思考を言葉に変換して発言する、こういうことができるだけで、個人としての存在意義は発揮できるのだと思う。 頭が良いか悪いかを焦点にするのではなく、自分の意思で言葉を紡ぎ、相手の物言いよりもマシな言葉を返すことができれば、相手は考えざるを得なくなる。 納得させられるのがイヤだと言うだけの人は、よからぬ思考が働くのかもしれないが、そこで冷静に考えるような人であれば、会話は進展するだろう。

 つまり、「状況にそぐわないおかしな発言をする相手」であっても、会話を遮断するのではなく、相手よりもマシな言葉を返せる人間は、その場をコントロールすることのできる交渉人的な役割を担うことができる、ということ。 それでも相手が暴言に近いことしか言わないのであれば、「出ていけ」かもしくは「今後一切関与するな」と言ってもいいと思うんだよね~。 誰も言わないならボクが言うよ。 言ったとしても、当然だと理解する人がいるからね。

 どうせ管理体制をなんとか改善しようとは思ってないんだから、サビの手直しの抜け・漏れがあったとしても、誰が悪いわけでもない、責任が宙に浮いた状態なのだから、やるしかないでしょ。 放置はできないんだから。 ただ、やる以上、これまで以上に時間をかけるようなことだけは許さない。 検査員だからって良い気になるな(笑) 言ったけどね、「サビ確認して抜け・漏れを指摘するだけならアルバイトスタッフでもできると思いませんか?」って。 ボクにとってはこれが「相手よりもマシな言葉」だと思ったから言ったんだよ(笑) これに対してどんな批判をされようが根本的な問題は解決に至りません、以上終了。 頑張れ正社員! これ以上ダサい物言いはすべきではない。

「Do not escape the Battle of IDEAS.」

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