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◆事実を無視したお気持ち論、正論を曲解した暴論、弱者や被害者を装う虚論、どう考えても筋違いな論理で主張する人たちが多いのはなぜだと思う?

  先日のアベプラで、「単独親権と共同親権の是非」について議論していたので視聴してみた。現行の法律では制度上、両親が離婚する場合、夫もしくは妻のどちらかに親権が限定される単独親権が採用されている。

 世界の国々の9割以上は共同親権が認められていて、日本やインドは世界全体から見れば認識にズレが生じているらしい。

 番組では、共同親権を採用するメリットデメリット、単独親権のメリットデメリット、双方が論点となっていたのだけれども、共同親権に反対する人の論理としては、「制度上単独親権であっても両親はどちらも子の親であり、子供の養育のためにできることはたくさんあって、あたかも単独親権ではその権利を持たない親は一切干渉できないような認識は曲解した論理です。」というような主張をしていた。

 むしろ、単独親権の意味を曲解しているのはこの人ではないかな、と思えてならなかった。反対に、共同親権の採用をすべきだと主張していた人は、「必ずしも制度そのものが両親の間に起こるDVや子供連れ去りなどといったトラブルを防ぐ万能な法律ではない」ということを添えた上で、「原則として特にトラブルなく諸事情で離婚に至った場合には、夫婦どちらにも親権を与え、子供の育成に支障をきたすことなく、養育上の協力をし合うことは必要である。」と主張していた。

 単独親権であれ、共同親権であれ、トラブルが起こる家庭はトラブルが起こるし、起きない家庭では起きないわけで、制度上どうであれケースバイケースで、一括りにした正解などあり得ない、というのがこのテーマの最適解であろうと思う。そう、一括りにはできない、正解のないテーマというのは無数にあって、そのうちの一つに過ぎないとも言える。

 ケースバイケース、時と場合による、人それぞれ、多様性・・・。結局、どんな法律も規則も、「してはならないこと」「認めること」などを定め、違反した場合の罰則がズラッと並んでいるけれども、違反する人たちが必ずいるのが人間社会だからなのか、どうも法律というのは事後処理のためだけの決まり事らしいことが社会通念であって、中には、経済的生活苦のために万引きを繰り返して意図して警察にお世話になろうとする人も居たりする。

◆人間には、何からも影響(指図や制約)を受けずに、「何かを成そうとする気持ちや考え」を自由に生み出す能力がある。(Wikipediaより)

 これも正解のない言葉で、解釈の仕方次第でいろんな結果を生み出すものだね。確かに、個人が何をどうしたいのか、その自由な思いを制御したり縛ったりするものは(本来は)何もないはずである。

 しかしこの自由意思の厄介なところは、人が誰にどんな悪さをしようとも、これもまた自由意思だったりする。その多くは「バレなければ問題ない」という意味の自由意思。

 人の身体は93%が水素、炭素、酸素の素粒子でできている。素粒子単位で意思が働いているとしたら、ヒトのカラダは非常に複雑でありながらよくできていると思える。しかし中には、意に反して腕や足、首や肩が勝手に動いてしまうトゥレット症候群で苦しむ人がいたり、頸椎から下、腰から下、右半身もしくは左半身が麻痺して動かない人たちもいたりする。

 また、人は少なくとも一つ以上の何かに依存して今を生きている。酒、タバコ、病院から処方される薬、違法薬物、ギャンブルなど。それ以外にも、スイーツ、高塩分食品、カフェイン入り食品や飲料水、エナジードリンクなど、普段の食生活における依存はよくあることで、外食産業の有名どころのチェーン店で言えば、マクドナルド、丸亀製麺なども好きな人は月に何度も通う。

 行動経済学の研究が進めば進むほど、社会の構造というのは人々を誘導する仕組み作りが広がっていき、いつからか習慣的に依存するようになっていたりする。「それは本当に個人の自由意思なのか?」と問われると、どうもそうとばかりも言えない社会になってもいる。

 何事も度が過ぎれば身を滅ぼすとは言うけれども、そうとわかっていても気が付いたら体調を崩し病院にお世話になることもあり、都度、「自己責任」「自己管理不足」とされがち。なぜならそれも「自由意思の招いた結果」だからだ。

 神を冒涜する気はないけれども、現代の医療業界は実に闇が深いように思えてならない。こんな話がある。

 すごく技術の高い整体師のお話。初診で整体院を訪れた患者さんがそこで整体を受けると、保険適用外の治療でも、たったその1回で完治してしまうほどのプロ整体師。その結果、患者さんが訪れることがなくなり廃業してしまった。

 言ってしまえば神の手にも等しい凄い技術の持ち主でありながら、ビジネスの観点からはそれ自体が欠点となってしまい、整体院を続けることができなくなってしまうという残念なお話である。

 これまでは、特に用もないのに病院を訪れては医師と話をして帰っていく多くの老人に、大して効果の見られない薬を処方しては利益を積み上げてきた病院も、これからはAIによる自動化で医者すらも要らなくなる時代が来るとさえ言われている。自動診断、自動手術、薬の自動処方、カルテの自動記録、保険料の自動算出など、病院関連のあらゆる業態が人を必要としなくなる、そんな時代。

 医者によっても診断結果が違ったり、処方する薬も違ったり、必要な通院数も違ったりしてきたこれまでのビジネス一辺倒の医療業界が、いよいよ崩壊の危機を迎えようとしている。あまりにも闇が深い。社会保険がジャブジャブと投下され続けた挙句、徴収額が増額される始末。これを是正するのはAIだろう。

 事実、人の寿命が延びていることから察するに、医療業界の貢献、健康食品や健康器具などを含む企業の貢献は確かなものなのかもしれない。健康でいること、長生きすること、それこそが人々の幸福へと繋がると信じられてきた。

 ところが、長生きすることが実は大変なことであり、近い将来、今よりももっと厳しい未来が待っているかもしれない、そのことに社会が気付いた。いや、気付いてしまった、と言ったほうが適切か。

 70歳を過ぎて、そこから30年生きると仮定して、な・・・何をして生きていけばいいのだろう。自由意思とはいえ、何をする?おそらくゲームするくらいの元気はあるとして、ずっとそうやって生きる後期高齢生活は、本当に幸せな余生と言えるのだろうか。確証はないよね。

 高校時代からずっと思っていたこと。それは「結局世の中何でもあり」ということ。あとは、個人が何をどう信じるかで、仮にそれが社会的に、世間的に逸脱したものであっても、誰も彼もが自分の信じるままに生きている。そのこと自体を否定する理由など一つもない。

※リセマラ(リセットマラソン)とは、ゲーム開始時の新規特典でもらえるダイヤ(石)で欲しいユニットをゲットするために、ガチャをしてはリセットを繰り返すことの通称である。

 これまでも人類史は時代の変化、文明の進化と共に価値観を上書きさせられてきたが、これからの価値観の上書きはスピードを要求される。すでに今がその過渡期であると言っても過言ではない。

 過去正しかったこと、過去間違っていたこと、それらをいちいち比較対象にしてなどいられないくらい、これからは全く新しい価値観への理解と認識を要求される。ならばいっそのことゼロベースにリセットして、次々にやってくる新しい価値観をセットしていくほうがいいのかもしれない、と最近は思っている。

 LGBTQに関しても、性自認が法律上のそれとは違うと気付いた人たちが世界に向けて理解を求める運動も、現代における新しい価値観として容認することが、ベストと断言はできないがベターではあろう。

 電動キックボードの法改正で免許証が無くても乗れるようになったことはどうか。言ってしまえば自転車と言うほど変わりがない乗り物であり、電動キックボードだから危険、事故が起きたら「それ見たことか!やっぱり危険だと思った!」みたいなことを言いたがる人たちは必ず出てくるだろうけれども、それを言ったら自転車もバイクも自動車も全部同じ。一定以上の犠牲を払いつつ、事故件数を減らしていく努力を社会全体で進めていくという結論なのだから、敢えて批判する理由もない。

 次々訪れる現代の新しい価値観に対していちいち拒絶していたんじゃきっとメンタルはもたない。

 大きな変化には抗わず、波が収まる頃までジッと待つのも良い。焦って動けば選択を誤る可能性も高い。どう頑張っても人ひとりにそれほどの変化をどうこうできるものではない。たとえそれが一国の長であろうと、優秀な学者や研究者であろうと、そんな力を持つ者はこの世に一人としていない。

 上手に生きようとするから判断を誤るのかもしれないね。騙されたり弱みを握られたりする時というのは、まさに今の社会のように安定性が揺らいでいる時。

 そうなるくらいなら、一定期間、社会から自分を切り離して、あらゆる直接的な影響を遮断して変化を観察するほうがいい。どんな時も我武者羅に頑張れば評価してもらえるってことでもない。誰もがそれほど頑丈で優秀でなくてはならないなどといった理想論こそ生きづらさを感じさせる暴論。

 押すべき時は押し、引くべき時は引く。それくらい緩急をつけて生きてもいいんじゃないかね?それも自由意思。きっと他者はそれを良しとは評価しないかもしれない。なぜなら、他者には他者の自由意思があって今を生きているのだから、気にすることはない。

 目まぐるしいほどの変化への順応性というのは、口で言うほど簡単なことではないけれども、理解と認識をするまでには時間もかかる。それを邪魔するのはいつも「古い価値観」だったり「先入観」だったりする。それらを払拭したければ、今現在の社会で起きていることから毎日情報を得ること。

 あらゆる直接的な影響を遮断し、外側から社会の情報を仕入れて変化を観察する。できることなら、言語化する習慣は持っておいたほうがいいかもしれない。時にはナイスなコメントをくれる人も居たりする。

 現代では誰もがいろんなツールを使って発信するから、なかなかコメントを貰うことは稀なことだけれども、別にそれはなくても良いんだ。重要なのは脳内思考の洗浄。堅い話でも好んで言葉を交わせる人というのは極めて少ないように感じられるけれども、それもご縁というもので。

 この世界が確証のない世界であることに良いも悪いもない、というのが私の見解。出来レースの人間社会のように見えるけれども、それは違う。すべては偶発的な運によって今に至っているだけのこと。

 「ぼくだけが貧乏くじを引いて、周りのみんなが当たり前みたいに恵まれているように見えた」と言って事件を起こした男がいたけれども、彼にはこの世界がそう見えたんだろう。

 自分と他者の見る世界が同じだと思い込むのはおそらく違う。大半の人たちは普段自分が暮らしている中で見る景色がその人の世界だ。ネット社会とは言え、現地に行かないとそこでの厳しさや喜びはわからないものだろう。

 そもそも、一番の貧乏くじは、生後間もなく親の虐待で命を落とす幼い子だ。

 世界は、残酷で、美しい。

進撃の巨人:ミカサ・アッカーマン


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