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【#思考の言語化】AさんとBさんが同じ環境で育ったとしても受ける影響や形成される価値観にも違いが生じるのは本来当たり前のこと。

【1】「感性」という影響処理オートメーションシステム

 なんで当たり前だと断言できると思う?(・∀・)

 感じ方に違いがあるからさ、人それぞれね。家庭で育っても、同じ学校に通っても、同じ会社で働いても、結局社会にはいろんな性質の、様々な個性を持った、多くの人たちが存在することがわかる。

 その上で、社会のあちこちに「馴れ合い」や「群」といったものが作られるのはどうしてなのか。それは、自分だけが違う、ということに起因して疎外されるのを恐れるからなのよね。

 この地球に、人類が長い時間をかけて国、都道府県、市区町村、などといった枠組みを形成するに至ったのは、人類が上手に生きながらえるための知恵によるもの。

 独りでは生きていけないからこそ文明が発達し、技術革新が起き、その恩恵を享受しようとする人たちが社会を支えている。

 30年くらい前から社会の発達と共に人々の生活は便利になり、様々な文化が国境を越え、グローバル化が進んでいった。

【2】感性のアンテナ強度

 各世代ごとに考えてみるといい。例えば、人の人生が80年間とした時、0才~9才、10代、20代、30代、40代・・・・70代、それぞれの世代が80年間で受ける影響は同じだろうか?

 現在75~6歳の人たちが生まれた時は1945年頃。そう、思いっきり終戦直後の時代だ。

 今25~6歳の人たちが生まれた時はというと、Windows95が爆誕した頃のことだ。

 生まれた頃に社会にどんなことが存在していて、どんなことが人気で、どんなことが贅沢であるか、こういうことは当然世代が違えばそれぞれ違って当たり前なわけで、生まれてから成長していくにつれ見聞きする情報や触れる知識、体験することだって違う。

 そうして、価値観一つ取って見てみても、世代間格差はほとんどぶつ切りのように生じてきたと言える。例えば、あの世代はこういう考え方、この世代はこういう考え方、という具合にだ。

 その世代間格差の穴埋めをするために「学び」があり、小中高大といった学校があり、社会や教育の中で育まれる人間性やら感性やらが多くの影響を自動的に自身の内部で処理され続け、人格や性格が形成されていくのだ。

 教育の実質的な精度は各世代ごとで違うし、一般社会から受ける影響も違う。であれば、個人の感性というアンテナがどんなことに関心を持ち、何を欲するのかということにも確実に影響してくるはず。

 自分の価値観も他人の価値観も、同じ社会の仕組みの中でほとんど似たような影響を受けて育つのに、家庭環境や学校や会社における人間関係、地位や肩書などといったことによって受ける影響もあるため、人の価値観というのは時間経過と共に変化すると言っても過言ではない。

【3】偏見や差別が世の中から無くならない本当の理由

 同じ環境下で育っても価値観に違いが生まれるのであれば、違う環境で育った多くの人たちの集まりでは、全く別の価値観を持つ人たちの集まりとなるのも当たり前のこと。

 自身が見聞きしてきたこと、学んだこと、経験したこと、それらは「現在を生きる自分」の価値観を形成するために辿った道である。

 その道を外れて存在する未知の情報や経験というものには、なかなか理解するには至らなかったり、真偽不確かなことも多かったりするため、人は何をするでも過去をベースに考えがちで、新しい物事や変化を嫌う性質を元々宿している。

 それ故に、偏見や差別というものはどうしても生じてしまうもの。社会構造はこれを含む前提で日々回っている。

 誹謗中傷をする者たちに対して、「誹謗中傷はダメ」と訴えたとしてもする人はする。これもまた前提なのが社会。

 女性蔑視発言で叩かれた森前会長は、この世界に存在する全ての女性を敵に回したくて「女性が介入すると話が長くなる」と言ったわけではないのに、どういうわけかこれを女性蔑視だと批判する輩が後を絶たなかった。

 つまり、「差別された」と息巻いて批判する人たちに叩かれるに至った。こういう人たちの性質がどういうものなのかを考えてみると、先ほども述べた通り、社会は偏見や差別、誹謗中傷をする人間たちも含む構造であるが故に、何かというと自分と結び付けて「差別された」「批判された」「傷付いた」と騒ぎ立てる人たちの存在を生むことにも繋がるわけだ。

 「憎しみの連鎖」という言葉があるように、人はいつでも加害者になれるし、いつでも被害者になる可能性があるため、一度どちらかの立場に立ったなら、憎まれたり憎んだりする瞬間というのはいつ訪れても不思議はない。

 セクハラやパワハラが良い例。本来、加害者側が悪者扱いされて当然とされるハラスメント。しかし世の中には、被害者の立場を悪用して何もしていない人を加害者として訴える歪んだ人間もいる。

 女子高生が慰謝料目当てに指示役(彼氏)と実行犯(彼女)が痴漢詐欺で逮捕されたニュースが数年前に流れたけれども、これを「弱者という立場を悪用した詐欺事件」と言い換えることができる。

 生活保護不正受給もそうだね。こんなふうにして弱い立場を悪用する人間たちが増えた結果、本当に社会的ハンデを背負っていて生活に困っている人たちが変な目で見られることになってしまった。

【4】立場は立場なだけでその人の人間性を証明するものではない。いい加減に目を覚ませ。

 親だから、上司だから、首相だから、医者だから、子供だから、未成年だから、社長だから、資格を持っているから、国会議員だから、結婚しているから、離婚しているから、などといった具合に、人が家族に属し、社会に属し、生計を立てるために働く以上、環境がどう変わろうとも何かしらの「立場」が付いて廻る。

 ここでも出てくるこの言葉。「人は言い訳をしないと生きていけないからね。(呪術廻戦)」立場を理由に自身の行いに悪意はなかったなどという言い訳をする。中には、〇〇だからこれくらい当然だ、○○としての責任がどうのこうの、〇〇のくせに、〇〇の器ではない、〇〇としてあるまじき、などと自分にとって都合の良いように言い逃れたり相手を責めたりする。

 学校の教師の強制わいせつ事件が後を絶たないのはなぜなんだろうね。明らかに連鎖している気がするけどね。いちいちニュースで報道するものだから連鎖するんじゃないのかね。そう思えてならない。結果、学校の教師は変態が多い、みたいな抽象論まで出てくる始末。

 それが現代人の性質であり、現代社会だ。立場ありきで偉そうに詭弁を語る人が社会には溢れ返っている。立場や肩書がどうあれ、偉いわけではないからね。そこを勘違いしている人の言葉には、それ相応の質が言葉に現れる。

【5】コンビニでアルバイトしながら人間観察をしよう

 毎日同じ時間に、ほとんど同じ客が、ほぼ同じ商品を買って、ほぼ同じやり取りをして店を出ていく。特に、タバコを買う客については、誰がどのタバコをいくつ買うかが日々の刷り込みにより自動的に覚えてしまう。

 同じ人物が毎日何かを話すとする。そこにはその人の性質を示す情報が盛りだくさんなんだよね。何の捻りもなく、単なる作業として同じことしか言ってない人であれば、言葉の質も表現もそれに比例してしまう。

 「この人は毎日念仏を唱えているようだ」と思われたら最後、以後、その人が何を言っても念仏にしか聞こえなくなる。ある日の発言でその人の口から「情熱が」とか「熱意が」とかいうフレーズが飛び出したとしても、同じく念仏にしか聞こえなくなる。

 毎日の発言から出る言葉の質や表現というものは、イヤでもその人の性質として刷り込まれていくんだよね。これに立場ありきの偉そうな態度が加わると、もう何も響かなくなる。

 でも、いつ発言する時でも、礼節や感謝が伝わってくるような人の言葉というのは、言葉の質も表現もブレがなく、スッと耳に届くし、考えさせられる。そういうものだ、言葉というのは。

 「ふざけてんの?」とか「なめてんの?」とかいう言葉をさも当然かのように言える人というのは、自身の立場や肩書に陶酔しているし、客観的にどう見られているのかをまるで考えていない。そういう人を頼ろうとは思わない。

 そうやって煽ることしかできない無能な人間に立場や肩書が備わると、その下に就く全ての人間たちの成長を阻害する。

 「人事は時の運」だとボクは思っている。自分が誰の下で働くことになるのかは自分では選択できない。その結果、「この人の下では働きたくない」とか「この人の下にいたのでは楽しくない」と感じた瞬間から、モチベーションはどんどん下がっていく。

 離職率の高い職場ほどそういう要素が顕著に現れるもの。残念ながら、一度でもそういう評価をされた職場では、あることないこといろんな噂が流れるし、ハラスメント系の問題も噴出しやすい。そういうかわいそうな職場に我慢して居座る必要はないし、そういう時代でもない。

 そういうことを見抜く術を身に付けたいのであれば、コンビニでバイトをすること。これは、ひろゆき氏も言っていること。案外、バカにされがちなコンビニのアルバイトは、人間観察という意味で特別な経験を積むことができる場所。

 どこで働く時でもずっと観察することを怠らないようにするためには、コンビニが最適な職場だとボクも思う。

【6】Fラン大学卒でもそこからの生き方でどうにでもなる

 東大卒というだけでは就職や仕事では意味を持たなくなった現代社会において重視されるようになったのは、「何のために」「どれだけ努力し」「どれだけ成長し」「どれだけの結果に至ったか」といったことが具体的に注目されるようになったためだろうと思われる。

 家族や兄弟に限らず、自分以外の誰からどんな評価を受けたとしても、どんな罵詈雑言を浴びせられたとしても、自分を自分がどう評価するかが重要で、自分を評価するには自分がどう生きてきたかを具体的に示す必要がある。

 失敗経験がない、苦労した経験がない、レールに乗っかって生きてきた人間は、失敗や挫折からの立ち上がり方を知らないし、苦労に耐え得るだけの忍耐力が備わることがない。

 失敗や苦労、成長や結果といった体験のインプットがないということは、アウトプットしようがないのよね。人間、経験したことのないことは語れないでしょう。

 楽して生きた人間と、苦労して生きた人間とでは、体力もスタミナも違う。しんどい経験をして生きている人間は、耐える力を養っているため、次の機会に至ることも時間の問題。

 次の機会というのが今いる場所と同じでなければならない道理はない。別の場所で訪れる機会でもいいわけでしょ。今いる場所でダメだなんだと酷評されたとしても、別の場所では頑張り次第で高評価を受けることができるかもしれない。

 パラダイムシフトは何も社会にのみ起こることではなく、人間一人一人の人生にも似たような現象は起こるもの。急に人生の流れが変わる瞬間なんてのは何度もあるでしょう。

 だからね、今がダメだと思っても、数年後はわからないってこと。数年後の未来がダメだとわかるのなら完全に挫折するだろうけどね。

 なんでもかんでも自分と結び付けて考えるのは結構なこと。むしろ良いことだと思うけれども、被害妄想バンバン暴走させて差別だなんだと騒ぎ立てるしかできないのであれば、思考の言語化をしてみるといい。めちゃくちゃな言い分であることが見えてくるから。

 仮に、自分の考え方が正しいと思えたとしても、言語化すれば見えてくるんだよ。多角的な観点から自分が書いた文章を見た時に、どれくらいの視野で表現できているか。

 弱者や被害者は必ずしもそうではないということをボクは言いたい。誹謗中傷を受けたとしてもノーダメージな人だっているでしょう。法的措置は取ったとしてもね?法と感情は別物。

 他人の価値観は、あくまでも他人の価値観。結局いつもどんな時も、何を言われても何をされても、自分の頭で考えて行動できないと他人ありきの選択しかできなくなってしまう。それでいいとは思ってないでしょ、誰も。

 自分は自分で自分の人生を生きてきたのだから、他人を評価する前に自分をどれくらい具体的に評価できるかを大切にしたほうがいいよね。そこから、自分に褒美を与えるお金の遣い方も考えていけたらいいよね。

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