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「耐える」とか「我慢」とかいう精神状態が、「苦ではない」「当たり前」「普通」「余裕」という認識に変換されたら、もう少し辛く厳しいことでも乗り越えられるよね?
持久力、耐久力、忍耐力、こういう力ってのは本来、誰にでも備わっているもの。ただ、人が5年、10年、15年、30年と生きていく上で、どんな体験をするかによって、強化されるタイミングや度合いが異なるため、「人間の内面的な骨格」そのものの構造も異なるわけだ。
昔さ、夏休みシーズンに、毎年のように稲刈りを手伝っていたんだけれども、ムシムシしてクソ暑い中、刈られた稲を延々とハサミのように割っていき、大人たちが組み付けていく大きい竹竿に稲をかけていく作業と、米取りを迎えるとかけてある稲を竿からおろして機械に流し込んで米袋に貯めていき、いっぱいになったら軽トラックに積んでいくという作業をした。
米俵と言ったら表現が古いけれども、米袋にパンパンに詰まった籾付きの米は、まぁまぁ重い。一袋20キロ前後かな?持ち上げられるようになったのは高校2~3年の頃だったなぁ。
とにもかくにもこの稲刈りが毎年辛かった。別に稲刈りじゃなくても、誰もが暑いと感じ、誰もが喉の渇きを感じ、誰もが冷たい水、涼しい空間を求めたくなるような日にやる力仕事や流れ作業は、誰がやっても辛いわけで、慣れるものでもないような気さえする。でも、耐性という意味では鍛えられていくものだとも思う。
稲刈りを手伝わずに毎日当たり前みたいに食卓に並ぶ白米を食べるなんて実家では御法度みたいなもので、小学校低学年だろうと、中学生だろうと、高校生だろうと、毎年のように手伝って、子供なりに米を食う権利というものを与えられていたように思う。
今はさ、仕事して、毎月の給料で、一体オレは何を食ってるんだろうと思うような食生活しかできていないために、コンビニや外食の米を食ってもおいしいとは感じられず、なんか違うって思うんだよね。実家で食べていた米が一番うまい。そういう点では、田舎には田舎の良さがあるんだなと気付かされる。稲刈りは大変だったけれども、米がうまかった。
別に、贅沢したいなんて思ってないし、高級食材を食べたいとも思わない。例え質素でも、美味しいと感じながら食べるご飯が一番だなって思う。っていうところから思うのは、家庭は持つほうがいいのかな?ということ。
確かに、自分のことだけで精一杯で、恋愛どころでもないのが現実だけれども、家族で食卓を囲み、語り合いながら食事をするという古くから大切だとされてきたことは、どんなに時代が進んでも概念としては普遍的なものだという認識が大事なんだなと。
辛いことがあっても、耐えて耐えて乗り越えていくことができれば、うまい飯は食えるんだ。背負うものがある人というのは、きっと辛さ半分、幸福半分、調和の取れた生活というものが当たり前のようにできているのかもしれない。
ここ最近、かつて自分がこうと思っていた認識が改まろうとしている気がするんだよね(笑)年齢にはいろんな意味で逆らえないものだなぁ。
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