◆全知全能の神は「何もできず、ただ傍観するだけの無能な神である」
「知っているだけの無能」とはどういうことなのか。知っていることはそんなに優れていることだと言えるのだろうか。
人が人であることの魅力というのは、知らないことを探究することができることであり、それによってこれまでにないアイデアや仕組みを構築することではなかろうか。
もうさすがに、世代を問わず多くの人たちがそのことに気付いているんじゃないかな。人を評価する上で何を以って優秀とするか、それは評価する側が何をその指標とするかで変わってくる。
昇格と降格、そのどちらも経験したことのある人なら一度くらいは疑問に感じたことがあるかもしれない。しかし残念なことに、肩書きが好きな人は、与えられた肩書きがその環境で優れた位置であると錯覚する。
肩書きを与えられた途端、「自分は偉くなった」と勘違いするような人は、一旦は出世したように見えても必ずどこかでその位置に相応しい人間ではないという烙印を押されて降格することになる。
どうしてこういうことが起こるのかを考えてみると、大して珍しい現象ではないことにすぐに気付くことができる。というのも、人事考課で昇格した人というのは、これまでよりも上のポジションでその責任を果たし、貢献するであろうという「期待感」を会社に与えたからに他ならない。決して、任命時点でその才覚があると確信してのことではない。
つまり、昇格というのは、これまでの実績を讃えてのことというよりは、これから先、より一層の会社貢献や社会貢献に期待して決まるもの。昇格して緊張感が途切れ、ふんぞり返るような社員は、まともに部下を教育することもできないし、トラブルが起きた時には部下のせいにして責任逃れをまず真っ先に考える。そういう人間ほど自分の立場を必死に守ろうとするからね。
若い世代は出世したがらない、そういう意識を植え付けてしまったのはいつまでもポジションを譲り渡そうとしない50歳以上の世代だったりする。未だに古い認識でいるから普段の仕事でもそういう部分が出てしまう。
社歴が長いことは経験の蓄積量としては会社としても有益なものではある。でも、変化を嫌い、保守的で旧態依然とした在り方にすがろうとする社員が上のポジションに居座れば居座るほど、会社全体が老朽化したり腐敗したりしやすくなる。
若い世代の社員たちがチャレンジ精神を仕事に発揮しやすくするためには、ミスや失敗を受容することが大事で、問題が起きた時に責任の擦り付け合いや根拠が曖昧な罰を与えるようなことをしないというのが大前提として必要だろうと思う。
頑張った結果失敗した社員には更なるチャンスを与えること。それができる会社はイノベーションも起こせるだろうけれども、失敗した社員を罰して降格するだけの会社は、チャレンジ精神を削ぐだけになり、誰も新しいことに取り組もうとは考えなくなる。
名の知れない洋菓子店がその地域ではとても人気で、競合をものともしない売り上げを叩き出しているなんてことはよくあること。そういうお店というのは、余計な縦のしがらみなどなく、そこで働く誰もが自由に意見を言えたり、アイデアを共有できたりするからこそ、何をするでも試すことが大前提として許されているし、ダメなら次、ダメなら次、という探究がしやすい環境でもある。当たるまで試すことができる飲食店は新メニューの開発力も強い。
探究をしなくなった飲食店は、人々が飽きるまで何もしないし、市場価値もどんどん落ちていく。何を売るでも市場価値が全てを左右するため、新しい価値を生み出せなければ店丸ごと飽きられることになる。
働くというのは、日々変わり映えのない同じことの繰り返しのように錯覚しがち。でも、そう感じている時こそ自分の仕事や会社そのものに目を向けて、何が不足していて何が不都合なのかを考える必要がある。誰もこれまで通りでいいとは思っていなくても何をしたら好転するのかがわからずにいるというのが多くの会社に見られる日常だったりする。
どうせ言っても変わらない、そう言う人ほど何も意見していない。発言や行動というのは、やる人ほど場にハレーションを引き起こし、批判を浴びることもある。でも、やる人にとってそれは問題ではない。問題なのは何も試すことなく現状維持にすがろうとすることだとわかっているから発言するし行動もする。
何もしない人に限って批判的でもある。では、そういう人の意識を変えるには何をすればいいのか。きっとそこまで考えられないんだろうね。そこまで考えられる人が組織の上のポジションに立てば、一定以上のところまで変えるにはさほど時間はかからないだろう。
そこで働いている社員たちが普段何を考えていて、どんなことに不満を持っていて、どうしたいと思っているのか、そこまでほじくり返すほどのエネルギーが絶対的に必要で、集めた声を精査する処理能力も不可欠だろう。そうしてボトムアップで挙がってきた声を社内体制改善に反映させられる企業は骨格がしっかりしていると言える。
おそらくそれが「風通しの良い職場」ということなんだろう。立場基準で意見を言う言わないとか、言うにしても言葉を選んでしまうとかいう心理が働いてしまうのであれば、核心に迫る意見を言える人ほど会社への貢献度は高い、そういう判断をするのもいいかもしれない。
考えるにも、説明をするにも、思考のスタミナを試される。どうすればいいのかを知らないからこそ考えたり発言したりするわけで、知った気になってどうせ変わらないから言っても無駄だと言うような人は、下手に昇格させるべきではない。
一番邪魔なのは、肩書きを付けて「〇〇課長」とか「〇〇係長」とかいう呼び方に固執すること。一律「〇〇さん」にするだけでコミュニケーションは活発化する。日本くらいだよね、こんな古い考え方にこだわっているのは。外資系企業なんかそんなことは1ミリも気にしちゃいない。
ただ従わせるだけの態度ではリーダーシップは発揮されない。上司であろうと部下に頼らざるを得ない時はあるわけで、普段から互いに敬意を払うことは大事だろう。
偉いということに優越感を感じてしまう人は基本的に偉くはない、そう思っていて間違いはないかもしれない。
全知全能であることが偉いというのであれば、こんな世界を作った全知全能の神は無能であると断言できる。本当に優秀な人間とは、問題解決力に長けているか、創造力に長けているか、そのどちらかの人間で、両方を兼ね備えている人間というのは滅多にいない。もしいるとしても、人間一人にできることには限界があることも前提で、あまりそれぞれの環境で定められているポジションの肩書きにいちいち偉さを求めるのはいかがなものかと思う。
一歩外に出れば何者でもないただのおっさんおばさんでしかないのだから。
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