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~細胞一つ一つが自分の一部~

細胞A:なぁ、お前そろそろ分裂しなくていいのか?

細胞B:え? オレ? まだいいよ(笑) 結構疲れるんだよな。

細胞A:そりゃそうだけどさぁ…オレたちが分裂しないと人間って老化するじゃん?

細胞B:まぁ、そうだな、分裂すれば新しいオレがこの人を支えることになるからな。 で、古いほうのオレは先に体外へポイされちゃうんだけどな。

細胞A:人間に比べて、オレたち細胞は、激しく儚すぎやしないか? 新陳代謝ってホント厄介だよなー(笑) あ! 見てみろ! Cのやつ切り捨てられるぞ!!

細胞C:おー、AとBじゃん(笑) ちゃんと分裂がんばってるか? オレはお先にお役御免みたいだから、ここらでバイバイみたい・・・。

細胞B:お前…じゃあこのまま髪の毛のほうに流れていくのか。

細胞C:そうさ♬ この人間の髪の毛となって少しの間ぶら下がってると、ある日突然バッサリ切り落とされるっていう寸法さ♬

細胞A:お前なんでそんなに呑気でいられるんだ?

細胞C:しょーがねーだろ? これがオレたち細胞の宿命みたいなもんだからな♬ 自然の摂理には逆らえないんだよ、どう足掻いてもな。

細胞A:なんだよ、よく別れ際に現実を直視できるなお前。 少しは惜しめよ、オレたちとの別れを。

細胞C:あーはいはいわかりました(笑) そんじゃまっ、AもBも残りの分裂がんばれよ!(この後すぐ、細胞Cは髪の毛の一部になったのだった。)

細胞A:・・・・。

細胞B:・・・・。

細胞A:なんか、切ないな。 オレたちはただ一定回数の分裂を繰り返すだけで消えちまうんだからな。

細胞B:きっとこの人間は、オレたちのことなんか何も考えてないんだろうな。 ほら、会社組織ってのは大きくなればなるほど末端でせっせと働く従業員のことなんかいちいち気にしてられなくなるだろ? あれと一緒なんじゃねーか?

細胞A:あー、そういえばこの人間も毎日毎日働いてるもんな。 オレたちが毎日分裂してるおかげで働けてるんだけどな。 細胞に感謝なんてしないだろ、人間だけじゃなく他の生命体も。 なんか、使い捨て細胞みたいでイヤだな。 次に生まれ変わるならオレは人間がいいな。 そしたら自分を支え続けてくれる細胞にいつも感謝して仕事するよ。

細胞B:人間へ生まれ変わるのか・・・。 それいいな!! オレたちだったら細胞の気持ちわかってやれるもんな!! 細胞分裂を経験した細胞にしか細胞の気持ちはわからんだろうからな!!

細胞A:な? やっぱそう思うだろ? Cのやつ、次は何に生まれ変わるんだろうな。 まぁ、言っても生まれ変われるのならって話だけどな。

細胞B:いや、オレたち細胞は生まれ変われるさ!! 何度人間の肉体が傷ついたって数日で細胞分裂をたくさんして肉体を癒し、治癒することができるからな。 ちょっとやそっとのキズなら完治できる!! それを考えると、オレたちって優秀だよな!(笑)

細胞A:いやいや、特別オレたち細胞が優秀なわけではない。 ただ単に、生命体のメカニズムの一過程を担うだけに過ぎない。 酷い扱いだよなまったく(笑)

細胞B:これ他の細胞から聞いた話なんだけどよ、人間にもアタリとハズレがあるらしいぜ? お前、知ってたか?

細胞A:あー、どうやらそうらしいな。 食生活がメチャクチャで運動もまともにしないような人間に当たると、新陳代謝が悪くなって人間の身体は老化現象が加速するって聞いたことがある。

細胞B:そういうやつの一部になっちまったら、ロクに細胞分裂もできやしない。 迷惑だよな、まったく(笑)

細胞A:つまりだ、オレたち細胞に成す術はないってこった(笑) ほれ、そろそろ分裂して新しいオレを生み出すぞ。 またあとで話そうぜ。

細胞B:おっけーまるっ! じゃあな!!

細胞A:なんなんだその返しは(笑)

細胞B:あれ? 知らないの? 

細胞A:いや、知る必要はない、オレたち細胞にはな。

 どーも、にゃむです(・∀・)ノ 細胞たちの気持ちになって、3つの細胞の会話を作ってみた(笑) もし自分が細胞だったらと思うと、やりきれない思いに苛まれるだろうな、という、絶対になりたくないもの。 だけど、ボクたち人間に限らず、すべての動植物が細胞から成り立っているということは科学的常識でありながら、そのメカニズムには知れば知るほど奇跡としか言いようがない要素が数えきれないくらい含まれている。 この文章を書き始める前に作成したタイトル画像には、細胞っぽい模様を施してみたのだが、どうだろうか。 細胞分裂している感じが描けているだろうか。 

 人が危険を回避するために咄嗟の行動を取る時、イメージした理想の動きをする時、とても良いアイデアを閃いた時、怒りや悲しみといった感情が露わになる時、おそらく、全神経を伝って送られてきた脳からの信号を、全身の細胞たちが絶妙のタイミングでキャッチしているのではないか。 運動神経や動体視力、これには人によって生まれ持った才能に差はあるかもしれないが、鍛えることも可能であり、慣れで一定の反応ができるようになる。 人間の身体とは、元々できなかったことも「自分ならできる」と信じて行動することで、そんなふうに変化を体感することができる、実に優秀な細胞の集まりなのだとボクは信じている。 

 元々ボクは左利きで、右ではボールを投げることはできず、字も書くことができなかった。 それは小学校へ入学する前までのこと。 両親はボクに「右手で字を書けるようになりなさい。」と躾てくれた。 そのおかげで、右手で字を書くということの常識的な意味を理解するに至り、以後、字は右手で書くのが当たり前になった。 それでも食事を摂る時は今も左手で箸を握る。 今まで何度これについて書いてきたかはわからないが、あまりこうした経験をしている人は見たことも聞いたこともない。 それだけに、これは特別なことなんだと思っている。

 小学校高学年の頃に1週間練習して、キャッチボールも両投げで左右ほぼ変わりなく、そして違和感なく投げられるようになっている。 その時のボクは、たぶん、全身の細胞と言葉を交わしていたのかもしれない。 右腕の振りと力の入れ具合、重心移動、ボールを投げた後の態勢、この3点を集中的に意識して何百球とボールを壁に向かって投げた。 たった1週間でできたことが凄いことかどうかは問題ではなく、結果として「できた」ということが喜びでもあった。 始めから「別に左で投げられるなら右で投げられるようになることに意味はない」とか「左利きなんだから無理だろう」などと考えていたのだとしたら、練習するに至っていないのである。 それも自発的に。

 事の発端は、小さい頃に祖父からボールと右利き用の左手にはめるグローブのプレゼントをしてもらったこと。 ボクには兄がいて、ボクと兄にキャッチボールをして遊べるように買ってくれたものだった。 ところが、当時左利きだったボクは、左手にはめたグローブでボールをキャッチし、グローブを外して左手で投げてキャッチボールをしていたのだ。 それがなんとも煩わしく思い、そして、右腕で左同様に投げられないことに心底違和感を感じたのである。 練習してできるようになり、それからは右腕でボールを投げてキャッチボールをすることができるようになった。 なんだ、案外できるものだな、とその時は単純に思ったものの、世間を見渡せばそんな人はいなかった。

 「全身の細胞との会話」などというのは比喩表現であり、実際には、「できる」と強く信じて徐々に動きをイメージに近付けていった結果できたこと。 これは、ボールを投げるという動作に限らず、他の動作においても同様に動きを可能にすることをボクは体感してきた。 それでもサッカーだけは苦手だったが。 丁寧に字を書くということもこれに直結していて、達筆とまでは言えないものの、お手本に近い字を書く練習をすればするほど上達していった。 もっとも重要なのは、「できるようになりたい!」という意志がどれだけ強いかではないかということ。 思いの外、自分の身体を形成している約60億の細胞は、その意志に従順なのだなと思う。 細胞はちゃんと応えてくれる。 手先が器用な人というのは、何をするにもまずどうすればいいかという完成形がイメージできていて、あとは手先を思う通りに動かすことができる人なのではないか。 それで言えば、ビアノやギターやドラムなどといった楽器を操れる人というのは、想像力も豊かであり手先も器用なのだろうと想像できる。 素直に「凄いな」と思える。 

 人に対して魅力を感じる要素の一つとして、「自分にできないことをできる人」だとボクは考えている。 イラストや風景画を道具を使って描くことができるというのは表現能力であり、イメージ通りに描けるということはそれだけ手先をどんなふうに動かすかといった想像力やどの道具が必要かなどといった思考がしっかりと機能していると思う。 一般的に、人はこれまでできたことは今もできるが、やったことがない、もしくはやってもできなかったことに対しては、もう何年も前に諦めていたり、自分にはできないと諦めてしまっていることがほとんどだろうと思う。 元プロテニスプレーヤーの松岡修造さんの言葉を借りれば「自分はできる!絶対にできる!」と自分で自分を洗脳するほどの自己暗示ができるかどうかにも大きく左右されるかもしれない。

 考え方を逆転させて言うならばこういうことが言えるかもしれない。 今までできなかったこと、やったことがないことをできるようになることにこそ、できることで活かしてきた器用さや技量が応用されて活きるのではないか、ということ。 こうして文章を書くことがライフワークになった今でも、文才があるなんて自分では思っていないし、元々書くのは苦手だった。 でも、思考の言語化の重要性を知ってから、自分にとって読書も文章作成も「必要だ」と気付いたことで、これらを続ける決心がついたのだ。 精度を上げていこう、語彙力を強化していこうと思うのなら、まず場数をこなすことが何より大事であること。 これによって、スキルを上達することができたなら、自ずと応用も効かせられるようになる。 何をするにも共通して言えることだとボクは考えている。

 頭の中ではできるようになりたいと思っていても、自分の全細胞がそれを叶えてくれないのだとしたら、できない理由を探してしまう思考が先行しているからだと思う。 そして同時に、心の底からできるようになりたいという意志の強さが足りていないからでもある。 前提として「自分にはできる」という信念が立っていたならば、きっとできるまで練習する努力をしているはずだ。 野球アニメのメジャー主人公の茂野吾郎も、右肩を壊して左投げに転向して再起し、メジャーリーグに殴り込んだ男。 彼の野球に対する意志は、他のどんなことよりも極めて突出していると捉えることができる。 それほどの野心を持つ人間は、何度失敗しても結果成功へ到達するのだろう。 最後の最後で、全身の細胞がそれを叶えてくれるのだとわかっているならば、きっと多くの人たちが努力を惜しまないストイックな人生を歩むに違いない。

 ところがだ、生まれ持った人格や容姿というのは、そう簡単には変更が効かない頑固な性質を持ち、変えようと思えばそれなりにお金や労力を要するため、だからこそ大衆は人を見た目で判断するのかもしれない。 ボクも容姿という意味では、口唇口蓋裂で生まれてきたため、成長過程において何度も手術をしてきたし矯正もしてきたが、その傷は消えることなく今も残っている。 無邪気故に残酷な幼少期、偏見の材料にされたこともあるし、暴言のネタにされたこともあったが、1度も自分の親を責めることはしなかった。 それをしたところでその問題が解決するわけではないし、生まれてこのかたそういう経緯を辿ってきたことこそ自分の人生であるため、誰が悪いわけでもないと捉えることができている。

 ボクの身体の細胞の一部が、この世に生を受けるまでの間に悪さをしたのだと思えば何のことはない。 また、鼻の下に線キズがあったり、鼻や唇の形が左右対称でなかったりする人は、世の中に大勢いるという事実も、どこか救われる思いもあった。 自分だけではない、と。 むしろ、長年付き合ってきた自分の容姿、いくらお金に余裕があったとしても整形をする気は一切ない。 これが自分だからだ。

 自分が自分であることを認めることができるという力をボクはこう表現している。【自己肯定能力】と。 これを会得しさえすれば、他人に見た目をどうこう言われても傷付くことがない。 そして、見た目でしか相手を計り知ろうとしない他人の物差しは、何の参考にもならないということも、ボクが生まれた時の口唇口蓋裂がもたらしてくれた価値観となった。 人と違うということに臆病であったり、集団の中に変わった人間がいたりすると爪弾きにしてしまう、そういう人間の愚かな思考をボクの価値観を通して解釈すると、そういう類の人間たちとは関わってはいけないのだとわかる。 違うことこそ互いに共有し認め合うことができる、そういう人間関係を求めなさいと、鼻の下のキズや歪んだ唇付近の細胞がボクに語り掛けてくるのである。 もうこれは何年経っても揺らぐことはないと確信している。 固定してしまってもいいとさえ思う。

 しかし、人と違う考え方や人と違う行動を意識すればするほど、幾らか他者に対して誤解を与えているのだろうなと思うことも多々ある。 これはボク自身が自覚していることであり、無自覚ではないということをボクを知るほとんどの人たちは知らない。 むしろ敢えてわかってもらう必要はないと決めている。 理解を得ようとすることには意味がないにも関わらず、わかってもらおうと必死になる自分をイメージしても、それは自分ではない。 唯一、ボク自身が自分を認めることさえしていればいい。 事、職場に関しては、何人たりとも好き嫌いでは見ていない。 それよりも、相手の人間性や性格、そして、相手の好き嫌いを認めてやることも、自分をキープするためのポイントではないかとも思う。

 時には、そうして与えてしまった誤解が、変な噂を生じさせてしまったり、偏見をエスカレートさせてしまったりすることもあるが、それらをいちいち説明しなければならない義務はない。 知りたい人にだけ話せばいい、それだけのことだからだ。 聞かれない限り自分のことは教えないし、もちろん、教えたくない相手ならば話さない。 こうして自分と向き合うことを主旨としている文章化においては、思考をそのまま文字に投影する。 こうして投稿すれば、読者は自由に思考を巡らせるため、読んだ人が何を考えようがそれは発信者の知るべきところではないし、仮にレスポンスがあったとしても、それはそれで応じればいいとしている。 聞かれたら応えるだけでいい。

 演じ方次第で人は勝手に自分に対する印象を固定しようとする。 だからこそ、それを敢えてボクが望む通りに印象付けることも可能になってくる。 大して興味が湧かない相手に対しては、感情なんて要らないし、機械的に、かつ事務的に応じることでその場をやり過ごせばいい。 こんな表現をすると「性格が歪んでいる」と思われてしまうが、それもその人の捉え方であって自由なのだ。 そんなふうに言われたからと言って腹を立てる道理はない。 他人は言いたいように言い、聞きたいように聞き、信じたいように信じる。 お好きにどうぞの精神で、むしろそんな相手でも認めてあげられるくらいだと、人間関係において余計なトラブルや喧嘩に時間を食われることもない。

 性格や人格は、成長過程において少なくとも18歳までには形成されてしまうため、それまでに受けた影響がその後の人生を左右する可能性は十分に考えられる。 細胞レベルで言うならば、人柄や人間としての資質は、どんな因子を割合的に多く含有しているかで、人の生き様は星の数ほどに枝分かれするのではないだろうか。 十人十色と言われる所以は、細胞科学で説明が付くのかもしれない。

 人に対しても、あらゆる表現物に対しても、「好きか嫌いか」「正しいか間違いか」といった短絡的な思考でしか見ることができないのなら、そういう人間が発する言葉には大抵何の説得力もない。 そこをさらに3択4択5択といった感じで判断するに必要な視点をいくつ用意できるかで、気付ける部分、つまり、見えなかったことが見えるようになるかもしれない。 そのことを「考えすぎ」というぶっきらぼうな言い回しで切って捨てるような人間とは話す価値がないとボクは思う。

 思考とは、幅が広いに越したことはないし、深く掘り下げられるに越したことはないのだ。 会話の最後に「どうでもいいんだけどね♬」って言ってしまう人の思考は、狭いし浅いし何が話したかったのかを自覚していないと言える。 どうでもいいような話をなぜわざわざしたのかと内なる言葉がボクに語り掛けてくるからだ。

 Twitter、note、Facebook、Instagram、YouTubeなどといったインターネット上の媒体を使って発信することをライフワークにしている人に、一つ伝えたいことがある。 炎上騒動は、発信者自身が意図して引き起こしている場合がほとんどであり、それによって彼らは利益を得ている。 間違ってもそれに便乗して他のユーザーに同調することがないように、ということ。 炎上騒動に発展しそうな何かを発信しているインフルエンサーがいたならば、絶対に反応してはいけない。 発信者の思う壺だからね。 そんなことに時間を潰すくらいなら、別のことをして楽しむ時間に充てたほうがいい。 何をしてたって確実に時間は過ぎ去っているのだから、最優先は自分のために何かをする事であり、その次には誰かのためにもなるような何かをして人生を桜花することを、今後のライフイメージとして掲げたい。 そんなふうに考えているネットユーザーはここ最近増えている傾向にあると思われる。

 どうせ生きるなら、他人のあれやこれやに首を突っ込んで遊んでないで、もっと自身の血肉になりそうなことを見つけ行動したほうがいい。 他人の中に紛れて、その存在に気付きにくいことはたくさんあるかもしれないが、それでも、自分と噛み合う人をじっくりゆっくりと見付けていけばいい。1年を通して人が流れ、出会う者あれば別れる者があり、時には自分が流れ去ってしまうこともあり得る。 

 人が人として生きる上で感じる一番美しい感情は、人を愛すること。 その一歩手前には、出会う美しさ、再会を期待する別れ、永遠の別れが位置付けられるとボクは考えている。 人生は残酷だとばかり嘆くのではなく、都度、変化を楽しめるようだと足元の小さな幸せにもよく気付くようになる。 きっとその多くは、目には見えない、1個の細胞ほどにも小さい幸せなのかもしれない。 それを一つ、また一つと集めながら、ゆっくり生きていこう。 

 あなたは人生という物語のエキストラか、それとも主人公か。 どちらだろうか。 どちらも人生と言える。 主人公をサポートする生き方もまた人生と言える。 どんなことにおいても、方法が一つしかないと思うか、他にも手はあると思うか、都度ぶち当たる壁の前で、あなたはいくつの打開策を提案できるだろうか。 一つもなく、発言を他者に任せるようならば、そういう人間はエキストラの道を人生として歩んだほうがいいかもしれない。

 望むべき方向に歩を進めたいのであれば、身体の全細胞に意識を集中させて、その身を動かすといい。 そうすれば、図らずも人道を外れてしまうようなマネはしないだろう。 ボクはそんなふうにして生きていきたい。 自分の細胞を信じ、細胞の気持ちを理解した上で判断・行動したいものだ。

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