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~"繫がる"ということ~

 Platonic-interface(プラトニック・インターフェイス)、この言葉はネット検索しても出てこない、未だ世の中には発言されていないワードであると思われる。 ボク自身が造語として初めて発信することになるだろう。 日本語訳に変換すると、直訳ではこういう意味として訳したい。 【純粋に精神的な接点】。 プラトニック・ラブという言葉は皆さんも聞いたことがあるかもしれない。 純粋に精神的な恋愛ということだから、肉体的な関係のない恋愛ということだ。

 初めてこの言葉を思い付いた時に、「なんだ、そういうことか」と気付いたことがある。 精神的な接点ということなら、人は普段からあらゆるモノ・人とのプラトニック・インターフェイスを日々繰り返しているのではないか、ということ。 例えば、ウィンドウショッピングなんかで言えば、ウィンドウの向こうには季節ものの可愛くてオシャレな服が展示されていて、それを見た女性が「かわいいなーっ!!(≧∀≦)♬」と思ったり、「うわぁ~!!私もこれ着てみたいっ♬(≧∀≦)」って思ったりはするものの、実際には買わない、もしくはお財布事情が厳しくて買えない場合、こんな時にはまさにプラトニック・インターフェイスが起きていると説明ができる。

 しかも、その脳内現象は、年齢が若ければ若いほど、回数が多いのではないかということ。 もちろんこれは、一般的にそういう説明がつくのではないかと推察しているわけだが、ボクに関して言えば、その現象が起き始めたのは大学時代だったような気がする。 周りの同級生よりも4~5年遅れて発現したのだ。 人・モノ・出来事に対してとにかく疎かったため、親からは"世間知らず"のレッテルを貼られて育ったのだった(笑) 小さい頃の遊び、マンガ、アニメ、ドラマ、もしくは勉強といった誰もが興味を示しそうなものに対して、長いことピンとこなかったのだと思う。 記憶の片隅に、中学時代の数学の授業で初めて「図形」が面白いと思った、その程度だった。 それ以外のことは今となってはほとんど記憶に残っていない(笑)

 さぞかし周りの人たちからは変わり者とか何を考えているかわからないと思われていたことだろうと思う。 ところが、そんなボクも大学に入ると高校卒業までとは違う一定の自由を感じながら4年間を過ごすことになり、その中で徐々にいろんなものに興味を持ち始め、二十歳を過ぎた頃に初めて恋愛をしたのである。 その時恋愛をしていなかったら、もしかしたら今の今まで童貞だった可能性も否めない(笑) いや、実際そうなっていたら笑えない。 それはさておき、過去の自分を振り返ると、一見普通に生きてきたように見えて、実は知能に遅れがあったのかもしれないと思うこともある。

 このプラトニック・インターフェイスは、人の成長に大きく関係しているのではないかと直観として思い立ったのである。 なぜなら、人は人から、モノから、出来事から、幾度となく多くの影響を受けて育つため、育つ環境によって何に対してプラトニック・インターフェイスが発現するかは異なるのだと考えるからである。 そして、歳も30を超えてくると、だんだんその現象は起きてこなくなるし、かつてそうした純粋な精神的接点を持たせてくれたモノたちに対して愛着や興味が薄れてきて、また別の何かに対して接点を求めようとしているのではないかと感じるようになったのである。

 あの、初恋の時のようなトキメキは、そんなふうにして薄れてしまい、あんなにドキドキして恋愛を楽しむなんていうことはもうないのだろうなと、少しばかり切なくなってしまうのもあるが、人間、いつまでも恋愛を楽しんでなどいられないのである。 それに代わる何かを、ドキドキさせる何かを探さないといけないし、これまでやってきたことに飽きてしまったならダラダラと続けないでスパッと辞めてしまうという選択も必要なのだ。 なぜなら、「時間が限られているから」である。 次々と自身の精神と接点を感じた物事に対して興味を示してトライしていくということが、きっとこれからの自分をさらに成長させてくれるものになるだろうし、また、そうすることによって新たな気付きや価値観を構築・形成することができるとボクは信じている。

 そういう意味でも、今後関わっていく人間は、単なる上辺だけの薄っぺらい関係性ではなく、必ず何か一つでも自身と接点のある人物であり、目指すものがあったり、自分を磨こうと努力していたりする、そんな人物たちと関わっていけたらいいなと思っている。 しかもそれは、リアルでなくてもいい。 純粋に精神的な接点ということなら、オンライン上でだってできることだ。 インターネット社会が進化して、いくつもの媒体が創出されてきたことで、ソーシャルネットワークサービス(SNS)がそれを充分なほど可能にしてくれるようになった。 ボクとしてはとてもありがたいなと素直に思えるし、これに対して純粋に精神的な接点を感じられる。 今でこそこうしてnoteで文章を書いて投稿するということを始めたわけだが、やるからにはそれで終わらせたくはない。 自身が発信するものがどんな影響力を持つようになるのかを突き詰めてみたい、この点にワクワクしているところなのだ。 

 また、単に文章を書こうとするだけでも、頭の中では常に何かとリンクして文章化をするということが連続的に起きているため、どこかのタイミングでプラトニック・インターフェイスが発現する可能性はあるだろうし、他の誰かのnoteを閲覧することで何かに対して接点を感じることもあるかもしれない。 おそらく、歳を重ねたボクは、今でも世間の同世代の人たちよりはプラトニック・インターフェイスが発現する回数としては少ないのではないかと思っているため、まだまだこれから先に何度それが起こるかは計り知れないのである。 特に、人に対するプラトニック・インターフェイスが起きようものなら、きっとその相手はそれほど自分にとって魅力的な何かを持っているに違いない。 「人として」だ。 そんなふうに、特定の人物に対して精神的な接点を持てるということは、きっと人生を豊かなものにする要素になる。

 そうだ、思い出した。 ボクがかつて小学生だった頃、左手でしかボールを投げられなかったのを右手でも投げられるように練習をしたことも、野球に対するプラトニック・インターフェイスが発現したからなのかもしれない。 つまり、欲しい!と思ったり、見たい!と思ったり、できるようになりたい!と思うその瞬間には、純粋に精神的な接点が作られた時なのである。 自分の意思というものは、自発的なものであるようで、実は他の何かと接点を持つからこそ意思が働く「反作用的な思考」なのではないかと、そんなふうに解釈することもできるかもしれない。 

 現代社会においては、自分が何に対してプラトニック・インターフェイスが起こるのかを探すことが非常に難しい環境になっているような気がしてならない。 自分との接点、自分の精神との接点、これを見つけるにはそう簡単なことではないような気がする。 今はまだ知らないだけであって、世間にはすでに存在しているかもしれない自分との接点。 これをどうやって見付ければいいのだろうか。 インターネット上には無数の情報が飛び交っていて、整理するだけでも困難だ。 もしかしたら、好奇心旺盛な人物なら何を自分との接点にするかを自ら選択する思考を持っているのかもしれない。 

 例えばマンガであれば、種類も何千何万とある中からでも1巻から読んでみて「このマンガはきっと面白くなる!」といった予見すらできるのだろう。 最近聞いた話では「ブラック・クローバー」という魔法系のマンガが面白いのだという。 その人は昔からことのほかマンガやアニメが好きで、一時期にはトータル2000冊ほどのマンガを買い揃えたこともあったそうだ。 同系のマンガ・アニメでは「フェアリーテイル」を知っているが、その人が言うにはそれとはまた違う味のあるマンガらしいので、ボクも是非読んでみたいと思っているところである。 こんな時に、自分との接点は生まれるのだと言える。

 敢えて相手が心底興味のある物事に対して自分も興味を示してみるということが実はすごく大事なことだということに気付かされる。 ボクに関しては特にそうだ。 そうして意図的にでも興味を示してプラトニック・インターフェイスが起こるきっかけを作っていかないと、興味の持てる範囲は限定的になり、視野も雑学的な思考も広がっていくことはないからだ。 しかし、人から受ける影響というものは常に良いものばかりではないのも事実。 相手が興味を持っていることが必ずしも自分の接点に成り得るかどうかは、理性を働かせて選択しなければならない。 プラトニック・インターフェイスが起こる瞬間というのは自分の理性とは全く反対の「欲求」が割合のほとんどを占めていると言っても過言ではない。 だから、興味を示してみて欲求が先に走っていくくらいの物事であれば、その時まさにプラトニック・インターフェイスが成立することになる。

 人と人が繋がる瞬間、人と物が繋がる瞬間、人と空間が繋がる瞬間、人と音声や映像が繋がる瞬間、これを探し求めてみると楽しい時間は増えるかもしれない。 純粋に精神的な快楽もこのどれかに含まれているに違いない。 近年ではアダルト関連企業のVRを利用したサービスで仮想空間におけるセックスを体感することで性的快楽を得られるということを実現したらしいが、これについてはそういう接点はいらないのではないかと思えてならない。 そういうプラトニック・セックスが世の中に蔓延したら、人間の自然な性交も出生も期待できなくなってしまいそうで、VRの使い道として倫理的にもあってはならない産物ではないかとボクは考えている。

 人間が単に性欲を満たすためだけにそういう道具に頼ることで性犯罪抑止につながるとは到底思えないし、プラトニック本来の意味に逆らっているようでもある。 プラトニック=純粋に精神的な。 これのどこが純粋と言えようか。

 では、プラトニック・インターフェイスがもっとも起こりやすい媒体というのは何なのかを考えてみたい。 一昔前までで言えば、地上波放送のテレビやファミリーコンピューター系のゲームがもっとも影響力を持っていたに違いない。 今で言うとなんだろうか。 やはりインターネットが最も影響力を持つだろうか。 YouTubeなどの動画サイトを見ながら通勤している人をよく見かける。 でも、ハード面で言うと、コンビニエンスストアや大型ショッピングモールは、プラトニック・インターフェイスのポータルプレイスと言える。 世の中には頭の良い人物がいるものだとつくづく思う。

 これまでもそうであったように、今後も、人々を引き付けるために、社会がどんなふうに変化していくのかは、およそ大衆の動きで見て取ることができる。 しかし、欲求が突っ走って起こるプラトニック・インターフェイスによって自制できなくなるようなことになると、必ずしも物事と接点を持つということが人にとって素晴らしいことであるとは言い難い。 もう一度言うが「時間は限られている」のだ。 そのことを一番意識すればこそ、プラトニック・インターフェイスが起きても、時にはグッと堪える必要もあるのかもしれない。

 あなたにとってのプラトニック・インターフェイスが、常に幸福をもたらすことを願う。 世の中には必ずあなたをドキドキさせてくれるものがあるし、ワクワクさせてくれる人が存在する。 そんなふうに信じて今日一日を過ごしてみるのも悪くない。

 今、あなたが持っているあらゆる物事との接点、いろんな人たちとの接点は、純粋に精神的な欲求であるかどうか、今一度思い返してみてほしい。 プラトニック・インターフェイスは、自身の精神的欲求に対していつ作用するかは予測が付かない。 だからこそ、今の自分との接点を見直すということは大事なことなのかもしれない。 人気だから、流行っているから、などといったそんな理由ではなく、あなた自身が本当に欲していることなのかどうかをよくよく考えてみると、あなたの時間的価値はこれまでよりももっと向上するかもしれない。

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