◆そんな大した理由はないのですが
先日Yahoo!記事「郷ひろみさん利き手変更チャレンジ」を引用して投稿した記事は、現在もアクセス数が伸びております。そこにも記載しているように、左利きの私は、字は幼稚園の時に左手から右手に矯正し、箸を持つのは左手、ボールを投げるのは両手、包丁も両手、ハサミも両手、ホチキスも両手、といった具合に、これまでの人生において扱ってきたあらゆる道具は、利き手の左に頼らず、極力右手でも使えるように強引に右手に持ち替えていろいろやってきたものです。
郷ひろみさんは50歳で利き手変更チャレンジをしたとのことで、元々右利きの人にしては珍しいことだと思いながら記事を拝見しました。利き手でできることは反対の手でもできるはずなのになぜできないのか、生きていて誰もが感じるであろう疑問を放置する人と放置しない人とでは、利き手に限らず、あらゆることにおいて得られる気付きや苦手克服のヒントに差が生まれるのではないかと思います。
自分の身体なのにイメージした通りに動かせないことにストレスを感じるきっかけについても上記記事に記載しておりますが、感情が揺れない限り挑戦するには至らないのだということもまた、あらゆる物事に共通して言えることかもしれません。
さて、今回のテーマ「私が画像を描く本当の理由」、なんだと思いますか?「そんなん知るか!描きたいからじゃないの?」という声がどこからともなく聴こえてくるようです。
左利きの人は右脳をよく使い、想像や直感といった感性の部分において右利きの人よりも優れている場合が多く、反対に、右利きの人は左脳をよく使い、特に言語脳の発達が左利きの人たちよりも優れている場合が多いと言われています。
そう、元々私は生まれながらに左利きで、本を読むのも嫌い・・・というよりは、読んでも理解ができず、声に出して読んでも内容にまで意識が向かわないほど、言語そのものだったり文章だったりにとても疎かった幼少期を過ごしました。そんな私がnoteを投稿し始めてもうすぐ5年ですか。だいぶ長いこと続いています。その理由の一つは「画像作成」です。
noteを投稿する度にヘッダー用の画像を自ら描いてはアップロードし、それを「みんなのフォトギャラリー」に出品する、といったことをずっと続けてきました。右脳の出番はまずヘッダー作成にあります。
このnoteは画像のみをアップロードして投稿することもできますが、私が苦手とする文章作成をついでにやろうということで、左脳の出番も毎回きっちりあります。今では最低でも3000字くらいは書いていますが、文字数が多くなればなるほど集中力を要求されるため、1万字を超えるような場合には、数日にかけて書いて投稿することもしばしば。
どうなんでしょうね。毎回記事を投稿する度に右脳も左脳も使いつづけてきたとすると、これは良い習慣・・・と言えなくはなさそうですが。
note開始当初から3年間くらいは、ヘッダー画像をMicrosoftエクセルで作成してきましたが、ある時から年間契約を要求されるようになったため、無料ソフトを探して現在に至ります。
何を描いているのか自分でもわかっていませんし、テーマとは関係のないヘッダーを多々アップロードしてきました。それでもですね、不思議なことに、みんなのフォトギャラリーから私の描いた画像を使ってくださる方々が年々増加してきて、現在までに累計1万回以上使っていただいています。
想像以上に増えてきていて、ユーザーさんの記事に使われる度に通知が届き、幅広い層のユーザーさんの記事を拝見するきっかけともなっています。
私が画像を描く本当の理由ですが、ほとんどこれに尽きるかもしれません。「画像を描いている時は常に自由である」ということ。それに引き換え、文章というのは、少なからず何かしらの影響を受けていたり、調べて得た知識が含まれていたり、日々のニュースに関連していたりするため、画像を描いている時ほど自由ではないと思っています。
画像を描く前に、完成形をイメージして描いているかと問われれば、私は「ノー」(と)答えます。noteだけに。描きながら、その都度右手に握るマウスに任せて勝手に描かれていくような感じです。描き終わってからたまに思うことがあります。これって本当に自分で描いたんだろうか、と。はい、自画自賛とはまさにこのことですね。
でも、まったく描けないこともあるのです。一通り描いてから唐突に「なんか違う」と思ってすべて削除することは多々あります。何が違うのか自分でもわかっていないのに、せっかく描いた画像を消してしまう、そんな自分のことがよくわかりません。その時の感情って何なんでしょうね。
こんな感じで、傍から見れば自己満と揶揄されるようなnote、それが私の記事です。スキやアクセス数やコメント数は、きっと多ければ多いに越したことはないのでしょうけれども、タグ次第で増減するのであまり気にしていません。
やっぱり、自分の描いた画像を多くの方々に使ってもらえている状況が何よりもうれしいですね。出品者がどうであるかは無関係に、ただその画像を選択してもらえているということは、きっと何かしら感じるものがあるのかもしれませんね。
これからの時代、文章も画像も音楽も映像も、何もかもをAIが代替して条件に合うものを瞬時に自動作成するようになるため、人工知能を使うクリエイター?みたいな人たちも出てきそうですが、自分で描くから良いのだ、自分で書くから良いのだと私は思っています。Chat GPTが進化すれば、さぞ綺麗な文章を自動作成するのかもしれませんが。
完璧なものがどれだけの価値を生むのか、見物ですね。自分で描き、自分で書く、それだけはどんなに人工知能が進化しようと変わらない習慣にしたいと思います。注目されたり評価されたりしたいがためにやっているわけではないのでね。言ってみれば脳の運動です。
文章を作成する時は両手でキーボードを叩くわけで、それだけでも良い運動になっているのではないかと思います。これも、ブラインドタッチができるようになるまでは苦痛でしたけどね、大学時代。アップルのメイビスビーコンでタイピング練習にハマってました。懐かしい。あれは英単語、英文、日本語単語、日本語文章、どちらの言語もあった気がします。
両手の精度を上げれば脳の精度も上がる。おそらくそう信じていても間違いではないかと思います。利き手にばかり頼っていると時々不便を感じることも多くなるかもしれません。
野球のバッティングやテニスのラケットだけは右手ではできませんでした。全身運動系はやっぱり難しいですね。
人生において自分が大事だと思ってきたことは、きっと今後も大事だと思うのだろうと思います。
漢字を書ける必要はない、とひろゆき氏がアベプラでコメントしていましたが、私はそうは思いません。書くだけなら大して意味はないかもしれませんが、字を綺麗に書く、ということは手の繊細な動きを要求されます。連続して書く文字を綺麗に書き続けることは、脳刺激も連続するでしょうから、文字は綺麗に書くことを意識するといいでしょう。今は綺麗でない人も、綺麗に書く意識を常にすること。
手書きの文字はその人の特性や性格を端的に表す、らしいですよ。
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