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~変わりゆく社会の中で~
社会が姿を変えてきたここ十数年だけを振り返っても、そのスピードは実に目まぐるしく、昨今ではそんな急激な変化に対して気後れし、生きづらいなと感じてしまう人がいても珍しいことではない。 それに、ありとあらゆるものが溢れ返った時代に、創造に次ぐ幾度とない進化と発展が現代社会の構造を作り上げてきたわけだが、無論、その背景には多くの「犠牲」があったのだということを、今を生きる、これからを生きていくボクたちは忘れてはならない。
今から30年以上前に、社会がこれほどまでに発達していることを一体誰が想像できただろうか。 社会の変化が意味するのは、人間という生き物が如何に貪欲な生命体かということだ。 人々が抱く夢や希望も、おそらくは時代の流れと共に変わってきているに違いない。 人は今後、何を求め、どこに向かっていくのだろうか。 未来予知は未だ予測の範囲に留まっているものの、近い将来社会がどうなっていくのかを、おそらくは世界のほんの一握りの人間が知っているのだろう。 未来を予測できるということは、空想の中で未来を生きていることに等しいとボクは思う。 しかしそれもなんだか虚しいような気もする。 たとえそれが期待に満ちた未来であろうと、絶望に打ち震えるほどの悲惨な未来であろうと、未来を知ってしまうということは現在の自分自身や社会にとって大いに影響を及ぼすことになり、きっと社会の変化を加速させることになるだろう。
現時点でさえ気後れしそうなほど目まぐるしく変化している社会を、これ以上加速させないでほしいと心のどこかではそんなふうに思っている人もいるかもしれない。 でも、人というのはどんなに社会が急激に変化したとしてもある程度順応できる生き物であり、その中でこれまでの思想や価値観も柔軟に変化させることができる。 そのことをどれだけ深く認識しているかは、人によって幾らか差が生じるだろうし。 社会に対して不満を抱く傾向にある人は、すでに取り残されつつあるのかもしれない。 そこでボクたちが大事にしなければいけない意識は、まず「自分に何ができるか」「自分は何がしたいのか」を明確にしようとするものでなければならないとボクは考えている。
他人に合わせて生きていたのでは、その意識が自発的に働くことがなく、なお一層時代の変化に置いて行かれることになる。 よく考えてみてほしい。 あなたが今いる場所が全てだろうか。 その空間に思考が囚われてしまっていないだろうか。 周りに協調することばかり考えて、自身のことが二の次になっていたり、自分がやりたいことやすべきことをやれずに他者にばかり時間を費やしていたり、そんなふうに毎日が過ぎていないだろうか。 これに対してボクは危機感すら抱く。 そして常に思う。 このままでいいはずがない、と。 社会が加速的に変化しているのに、これまでの常識や価値観のままこれからを過ごしていこうとすることは、迫りくる変化に対して何ら備えのない状態であり、時が経ち社会が変わってしまったらその時初めて慌てることになる。 結果的にそんな自己矛盾を引き起こすことになるなんて現時点では多くの人が考えてすらいないかもしれないが、実際には着実に自己矛盾へ向かっている人たちが大勢いることだろう。
変化を嫌う人間は、変化に対処するスタートも遅い。 だから、変化を嫌う者同士が群れていると、適時ああしようこうしようなどと指摘する人間がいつまで経っても現れない。 当然、これまでどおりやっていればその時だけは居心地もよく、下手に摩擦が起きることもない。 しかしだ、アニメ「進撃の巨人」の第1話で、無数の巨人で造られた高さ50mの壁に穴が開いた瞬間のように、事態は急変するのである。 その壁ができてから100年という長きに亘って守られてきた街は一瞬にして壊滅状態になる。 現代社会においてそれほど窮地に追い込まれるような、天変地異に匹敵するほどの社会的変化が起きないとは限らない。 ぬるま湯に浸かって平和ボケしている場合ではないのである。 もしかしたら、ぬるま湯だと思っていたのが実はすでに熱湯と化しているかもしれない。
もしまかり間違って安倍政権が崩壊するようなことがあったら、日本の政治は崩れるところまで崩れ去るに違いない。 今の日本の政治がなんとか踏ん張れているのは、紛れもなく国のトップが安倍晋三首相だからと言っても過言ではない。 彼が退任する時が必ず来るわけだが、2020年の東京オリンピック後の日本経済は、これまで通り維持できるとは考えにくい。 日本の歴史的ターンニングポイントは確実に近づいて来ていると思う。 資本主義経済においては、お金さえあればほとんどのことが叶う、いや、実際に叶ってきたのだろう。
ボクの空想では、近い将来、「モノの瞬間移動」が実現し、その次には「人の瞬間移動」が実現する。 あくまでもボクの空想だ。 これまで何十年にも亘ってあらゆる移動手段が進化してきたわけだが、人間の貪欲な進化への野望は、さらに移動にかかる時間を短縮することを実現するというところを見据えているように思う。 それが実現したとして、次に人は何を望むのだろうかと考えてみると、現代においてもあらゆる分野でグローバル化が進んでいるにも関わらず、これまでの概念でいうところのグローバル化は「パラダイムシフト」を引き起こすのではないか、その起源が「瞬間移動が実現した日」である。
「想像」というのは制限がない。 まさにフリーダムな思考空間だ。 その日、ついに!!モノも人も瞬間移動ができるようになったのだ!! 欲しいものが欲しいと思ったその瞬間に手に入る!! 会いたいと思ったその瞬間に会いたい人に会える!! もう、電車もバスも新幹線も船も飛行機もぜーんぶいらない!! 「移動」という、人として生きるにはどうしたって必要な行動に、時間もお金も一切かからない!! あーもぉー!! 言いたい!! 言いたいよ!! アノ言葉を!!
この日こそ、人類史上最も移動手段が進化した日となるのだ。 おそらく、その歴史的な日から、瞬間移動をする時にあのポーズが大流行するに違いない。 アニメ「ドラゴンボールℤ」で孫悟空が瞬間移動をする時の、あのポーズを!! シュンッッッ!!!! 全米はもちろん!! 世界が泣いた!! 嬉しすぎて踊り出す人たちが相次いで出現っ!! 自家用車を全て廃車!! あらゆる乗り物が全てお釈迦!! その日は、全世界に絶望的なほど膨大な量の乗り物がガラクタと化した日でもある。 解体業者にとって空前絶後の超絶特需がやってくる!! 人々は皆、解体業へまっしぐら!! みんなで全ての乗り物を解体しよう!! 世界中の人々が、その日から毎日毎日、乗り物解体という破壊行動を起こし始めた!!
同時に、別の意味で涙した組織があった!! それは、公共交通機関各社はもちろんのこと、日本道路公団に属す人々が大声でワンワン泣き始めた!! そうだ、もう道路は要らないんだ!! あ・・・工事関連の企業がバッタバッタと倒産RUSHを迎え、路頭に迷うどころか、これまで交通に関連する仕事をしてきた人たちが、今度は乗り物を破壊する解体業者へ転職を始めた。 倒産に追い込まれたのは道路関連だけではない!! 運送・運輸業界も次々に倒産っ!!倒産っ!!
科学の進化にはいつも犠牲がつきものだっ!! この天変地異によって、一体世界で何千万、いや、何億人の人たちが職を失ったのだろうか・・・。 しゅ、瞬間移動できるようになったことは確かにすごいことだ。 しかし、それに伴う痛みが、尋常ではない。 一体誰のための科学の進化なんだろうか・・・(´・ω・`)ボソリ あぁ・・・明日から仕事どうしよう・・・はっ!! そうだっ!! 職安に行こうっ!! 今すぐにっ!! シュンッッッ!!!!(笑)
おや? どうやら一般家庭にもこの影響が波及しているようだぞ? 浮気性の旦那が愛人と密会しているところに奥さんがっ!!!! シュンッッッ!!!!(笑)
奥さん: あんた、誰よその女。 バレないとでも思ってるの? GPSであんたの居場所突き留めたら一瞬でご対面よ?
旦那: あ・・・いや・・・その・・・これはその・・・会議だ!! そう、会議のために—。
旦那の言い訳を言わせる間もなく、奥さんは一瞬で市役所に瞬間移動し、離婚届けを出しに行ったらしい。 なんてことだ!! 夫婦関係の終わりも一瞬だなんて、あんまりだっ!!(笑)
瞬く間に、世界各国で瞬間移動システムは普及し、瞬間移動ができるようになったあの日から1年も経たないうちに、人々は毎日のようにどこに行くでも瞬間移動をし、あり余るほどの時間を手に入れることに成功したのである。 しかしその成功の裏側では、とんでもない事態が勃発していたのである。 「番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。 現在、国内だけでなく、全世界の刑務所から囚人が消えたという報告が相次いでおり、警察当局は、全世界治安保持共同連盟加盟国と連携して、脱走した囚人全てを瞬間移動で追跡・確保すると発表しました。 以上、ニュースをお伝えしました。」
え・・・全世界の刑務所から囚人が消えた?! う、うそでしょー???? っていうか、瞬間移動で追跡して確保ったって、逃げた囚人も瞬間移動できるならまんまイタチごっこじゃないか!! え、えぇ~???? 確かに、瞬間移動が実現したことによるパラダイムシフトは凄まじい影響を及ぼしているってことはわかるが、どどど、どうするんだよ・・・。 これまでの常識や価値観が通じないなんていう域を圧倒的に凌駕してしまっている。
法整備を待たずして瞬間移動が普及してしまったことによる大惨事を招いたことを受け、世界政府は【瞬間移動禁止令】を発布したのである。 あの瞬間移動革命が起こってから翌年のことであった。 世界刑務所から逃げ出した世界中の囚人およそ5000万人のうち8割方確保することに成功した全世界治安保持共同連盟は、確保した囚人すべてにマイクロチップを心臓側面に貼り付ける格好で埋め込み、いつ逃げられても即座に位置情報を特定できるシステムを配備。
いったい誰がこんな事態に陥るであろうと予測しただろうか。 人類はとんでもないものを発明してしまったのかもしれない。 しかしそれも今となってはご法度。 やれやれといった感じ。 聞いたところによると、一つだけ条件が緩和されることになったらしく、どうしてもトイレに間に合いそうになくて漏れそうな時、もうすぐ赤ちゃんが生まれそうな時、大けがをして病院に行かなければ命が危ない時、などといった緊急時にのみ瞬間移動を許可するという国の認可が下りたのである。 そんなワケのわからない認可が必要なのかどうかは疑問である。 なぜなら、自動車一台すら走らなくなった社会に変わったのだから、そうした緊急時の時くらい救急車を走らせてもよさそうなものだからだ(笑)
人それぞれ、価値観や思想というものは異なる。 それは至極当然のことだと、生まれ育つ環境の違いが物語る。 ボクは、その、当然のことを当然だと思うが故に、あらゆる社会現象に対して疑問を抱くことが多い。 社会現象が起きた過去の出来事として、記憶に新しいゲームアプリ「ポケモンGO」、新機種発売初日には長蛇の列を作る「iPhoneシリーズ」、「ファッショントレンド」、そして、今で言えば「仮想通貨」や「サイドビジネス」。 また、一時的なブームに対しても、自らそれに乗っかろうなどとは考えたこともない。 日本では毎年のようにその年に流行った言葉「流行語」が注目を集めるようになり、誰もが口にしたがる。
なるほど、ボクという人間は、”その他大勢”には属さない人間なのだな、といつからか思うようになった。 疑問の根底にあるものは「流行りと自分の関係性の薄さ」だと悟ったのだ。 そしてそれは、こんなふうにも言い換えることができるとわかった。 ”好奇心の無さ”や”無関心”。 もちろんこれは、その他大勢の基準で見た場合だ。 この世の中が何者かによって巧妙に操られているのだと知ってから、幾分疑問は解消された。 そう、人間は、それぞれで違う環境で育ち、違う経験をして生きていくのだけれど、その他大勢を操る何者かが意図して社会の仕組みを創造したり、新しいものに意識が向かいやすく欲してしまう人間の本質を巧みに利用したりして、ほんの一握りの人間たちが悠然と今を生きているのである。
資本主義社会は、生めよ増やせよのベビーブーム時代が数十年後には高齢化社会に代わり、貧富の二極化を加速させ、その時代とは真逆の現象を招いた、それが日本の現代社会だ。 今や子供を産み育てることが困難だと考える独身者が増加傾向にあり、それと同時に、これまでの当たり前が当たり前ではなくなりつつある。 その一つに「働き方」が挙げられる。 もう、これからの時代は、一つの職場に骨をうずめるまで働く終身雇用に対して安泰を求めようとすることはナンセンスであり、自身ができることを複合的に磨いて行かない限り、人生を会社に食い潰されてしまいかねない。 業務の自動化は加速し、徐々に無人化は進んでいく。 数年先、その辺に乱立するコンビニも無人レジ化し、客自身で会計時の決済をして店を出ていくのが当たり前になっているだろう。 自分の職場が無人化することはない、そう思っていられるのはいつまでだろうか。
今の仕事が他の何かに応用が効くものならば、プライベートで特に何かをしなければならないこともなく、平然と時代の変化を眺めていられるかもしれない。 しかし、事、自分においてはそうはいかないことが現時点でわかっている。 ある日突然、何かを理由に職を失った時、次に自分の持つ特技や知識や経験を活かせる場がある保証がない。 ボクはそこに対して危機感すら抱いている。 きっと職場では「協調性のない人間」や「愛想がない」などと揶揄されていることだろうとは思うが、協調性や愛想を重視していても、その場を離れてしまっては何の価値も持たないし、それを今後に活かすことが叶わない単なる過去でしかなくなる。 ほんの数年前に、ボクの頭の中では「パラダイムシフト」が起きたのだ。 このままではいけないと思うと、自然と本に手を伸ばすようになり、自らこうして文章を書くのがクセになるまでになった。
パラダイムシフトとは、意味として「集団を支配する価値観や思想が、非連続的・劇的に変化すること」であり、個人としてのそれとは捉えられていない。 しかしだ、たまたまこのタイミングで価値観や思想に変化が起きたというだけであり、その意味のとおり、今後どこかのタイミングで大勢の人たちが現実的にパラダイムシフトの波に飲まれることになる、そんな予感がする。時代は着々と次なる転換期を迎えようとしているのだとボクは考えている。 社会はそれに対する危機感を誤魔化すように、社会全体に端末がばら撒かれ、動画やゲームアプリが一気に拡散し、ヒマつぶしには事欠かないくらいにまでなった。 ヒマを潰すことに慣れてしまった人たちが、ある日突然パラダイムシフトに巻き込まれた時、一体社会はどうなるのだろうか。
石油ショックやリーマンショックのような、もしくはそれを凌駕するほどのことが起きてしまった時に、何を生きる糧にするのだろうか。 それまでに湯水の如くドブに捨ててきた時間で、何かできたのではないだろうか。 人として生きる上で絶対にしてはいけない「過去に対する後悔」に苛まれ、虚無感に満ちてしまうのではないだろうか。 どうやって生きていけばいいのだろうか、何をして楽しめばいいのだろうか、そんな嘆きにも似た無意味な思考を繰り返すのだろうか。 生きがいを失いやすくなる時代が近づいているのだとしたら、自ら命を絶つ人の数はこれまでの比ではなくなる。 黙ってても人生は豊かにはならない。 お金の面だけではなく、もっと根本的なもの。 人が営む生活は、パラダイムシフトにより激変するのだ。 おそらくは、何の前触れもなく。 もし、そんな状況下でパニックに陥るとしたら、”その他大勢に属す人たち”なのではないのだろうか。
みんなほどアテにならないものはない。 これはもうボクの思考に焼き付いている。 みんながやっている通りにしていても何一つ保証されないし、いざとなったら誰も助けてなんかはくれない。 社会的にパニックが起きたらそれどころではないからだ。 なんちゃらショックが起こることに因るパニックは、必ず全国的・世界的に多くの人々に伝染する。 まるでパンデミックのように。 そんな時でも冷静沈着でいられるのは、「その他大勢に属さない種類の人間」だとボクは確信している。 何が起きても、自分の頭で考えて行動することが普段から癖になっていれば、適時どうすればいいかを予測して行動できるからである。 たとえパラダイムシフトが巻き起こったとしても、大混乱の外側で、ジッと事態の終息を待つことができる。 きっとそういう人は備えを怠ることもないかもしれない。
そんな時に、関わってきた人間関係が本性を表すことになるとも想像できる。 たとえ本人が冷静でいられなくても、一緒にいる人たちが賢明な判断と行動とアドバイスができるのなら、その人たちに付いて行けばいい。 今、オンラインサロンで参加者を募り、コミュニティを形成しつつある人物たちは、近い将来、何があってもコミュニティという一個体で存続を図ることができる。 そこに参加した人たちも、パラダイムシフトの影響をうまくやり過ごすことができるかもしれない。 なぜなら、彼らの取り組みは、これからを生きていくためのエッセンスを多分に含んでいるからである。 今、それを学ぼうとしている人たちは、パラダイムシフトへの耐性を強化できるかもしれない。 一言に、自給自足を可能にするコミュニティが最も強固で安心できる場所になる。 農業主体のコミュニティは強いかもしれない。 それも、精神論だけではどうしようもない事態を想定すればのことだ。
好きなこと&役に立つこと、このセットを磨き上げることが何より頼れるアイテムとなる。 一番ダメなのは、今やっていることが「好きなこと&役に立たないこと」という組み合わせだ。 その代名詞とも言えるのが「ヒマつぶし」だ。 人間、ヒマつぶしをする時は好きなことをすることが多いだろう。 しかし、それは将来何の役にも立たないことがほとんどだ。 もっとも肝心なのは、「嫌いなこと&役に立つこと」の組み合わせ。 有名タレントの林修さんがそんなふうに言っている。 勉強を嫌う人は、そのどれもが役に立たないと思い込んでいるから嫌いなだけであって、いざ社会に出てみると勉強は学び方の基礎を構築するための過程であることを思い知らされる。 でも、気付いた時からでも遅くはない。 学びはいつもいつでもできることだし、学び方は自分のペースで模索していけばいい。
どうせ学ぶなら、楽しく学んだ方がいいに決まっているし、役に立つことに特化するほうが、将来どこかで役に立つ可能性がずっと残る。 常識を常識と思い込んだり、今までの価値観に固執して新しいことに挑戦しないといった姿勢は、自分を殻の中に閉じ込めていることに等しい。 しかもそれが、集団に染まっていることに因る思い込みや価値観の固執なのだとしたら、そこから抜け出すのはそう容易いことではない。 自分をキープしようと思うのなら、信念だけは曲げてはいけない。 それを簡単に曲げてしまったら、自分を維持することは愚か、周囲に振り回され続けることになる。
集団を支配する価値観や思考というものは、必ずしも自分が囚われていいものとは限らない。 相手が個人であろうと集団であろうと、本音を言える関係性であるならば、長く互いに良い影響を与え合えるかもしれないが、本音をぶつけて嫌われたり避けられたりするのなら、自分とは噛み合わない人たちだったと思うに留めておけばいい。 悩む必要はない。 世間では、相手への気遣いや思いやりをしろと半ば押し付けるように訴えかける輩は多いが、相手のことを本当に大切に思うのなら厳しい言い方をしてこそ相手のためになるのではないだろうか。 ボクは気遣いや思いやりを勘違いしている人たちと対峙すると吐き気を催す。 慰めることも慰められることも大っきらいだ。 それはボクにとって何の役にも立たないし、相手のためにもならない。 どうせなら、厳しい言い方をしてでも励ますほうが互いにメリットがある。
厳しいことを言う人が嫌いな人は、なぜ相手が厳しいことを言ってくるのかを考えることが先。 思いやりや優しさの形にはこれといった見本はないのかもしれないが、個人的にはいつも「本音」を言うことこそがその気持ちの表れでもあるとボクは思う。 学校の教師の体罰が、国民的吊し上げイベントと化してしまっていることには正直残念で仕方がない。 もちろん、教育方針を著しく無視した暴力に相当する体罰は断じて禁じられなければならない。 しかし、現代の教育においては、今一度改めるべきものだと言える。 厳しさへの耐性が低い人間が増え、そういう種類の人間を甘やかせるからとんでもない事件を起こす人が出てくるんだ。 責任能力云々も問題かもしれないが、そもそも、家庭内や学校でも教育がまずもって事件の根源である。
もしあなたが、グループの、組織の、チームの、コミュニティのリーダー的存在になるとしたら、今のままでいいだろうか。 他人の意見に乗っかったり、噂や陰口に同調したりして、とりあえず自分が属している場所で当たり障りなくやっていこうなどと考えているのなら、どう転んでもリーダーは務まらない。 大体そういう人間は責任転嫁をするのが当たり前になっていたり、正面切って議論に向き合おうなどとはしない。 部下から最も信頼されないリーダー像と言っても過言ではない。 リーダーとは、常に孤独でなければならず、いざという時は如何なる苦労を要することになったとしても、骨身を削って組織を守らなければならない。 そういう姿勢でしか信頼は獲得できないのではないかと思う。
楽してリーダーの地位に居座ろうなんて考え方では、組織は瞬く間に腐敗していく。 突然社会が激変した時に、リーダーとしてどうやってメンバーを引っ張っていくのかを可視化できずにいれば、人離れはどんどん進む。 パラダイムシフトがどういう事象を引き起こすかは予測ができない。 リーダーという立ち位置が誰にでもできるものならば、昔のまま年功序列制でエスカレーター式に昇格させればいいことになるが、今は違う。 単純に人が足りないということは教育にも力が入りにくく、日々の業務に追われて月日が流れるばかりで部下が育たない。 今後、個人の価値観や思想を尊重できる空間は、オンライン上でのコミュニティに偏っていくのではないだろうか。 なにせ現実社会では馴れ合いが風土化しているため、健全なコミュニティを作っていくことは非常に困難と言える。 しかしそれでも、わずかには存在するはずだ、本音をぶつけ合える人間が。 そういう人間ならコミュニティのメンバーになっても長く付き添っていけるだろうと思う。
リアルで大切にすべき人間は、利害関係が成立するほんの一握りでいい気がする。 つまり、もっとも愛すべき人であり、いざという時に互いに助け合える、言うなればライフパートナーシップを互いに享受できる関係だ。 ところがだ、今の社会でも当たり前のように歓送迎会の類である「会社の飲み会」が行われることで、プライベートの時間を食われることを、実際には良く思ってはいないのに、参加費5000円も出して2時間を会社の人間たちと過ごさなければならない。 2度ほど参加しただろうか。 もう今後ボクは参加しない。 あれがどれほど無意味な時間かがよくわかったからだ。 それに、飲み会に参加しなかったからといって何がどうなるわけでもない。 飲み会に参加してみんなと仲良くなる?? それで?? それが一体どれほどの関係性を構築できるものになる?? 本当に信頼し合える仲間なら、会社の公式的な飲み会でなくても、それこそプライベートで飲みに行ったほうがまだいい。 いっそのことそんな会社の行事は辞めてしまえと言いたい。
飲み会そのものが悪いと言ってるんじゃないんだ。 むしろ、それによって居酒屋業界はシーズン関係なく商売を桜花できているのだから。 それに、会社のメンバーと集まって何を語り合うかによって中身は雲泥の差。 ただ単にキズの舐め合いをするように仕事の愚痴を言い合って過ごす時間と、新しいアイデアやクリエイティブな発想を出し合う楽しい時間とでは、飲み会そのものの意義は全く別のモノになる。 愚痴の言い合いで楽しいと思っているのは一部の人間だけで、そんな話を聞かされて楽しくないと思っている人たちのほうが圧倒的に多いのが現行の会社の飲み会の質だ。 だったらボクは家でこうして文章を書き殴っているほうがずっと楽しい時間を過ごせると思うし、時間的価値として天秤にかけるなら会社の飲み会には行かないという選択をする。
これまでの仕来り、慣習、伝統、そういうものに縛られた考え方は、今後益々、多くの人々にとっての生き方の弊害となる。 パラダイムシフトとは、物事の本質を考え改める機会を与える瞬間でもある。 「本当にこれでいいのだろうか」と。 そしてその結果、集団がこれまでとは大きく異なる方向へと進んで行かざるを得なくなる。 協調性を無視してでも、個人としてボクは今の集団に染まり居座ることを正しいとは認識していない。 それでいいとは思ってないからだ。 そういう意味ではこれまでずっと異端者と周りからは認識されているかもしれないが、それでいい。 50代60代の人たちは、定年退職までのカウントダウンが日々の思考に働いているため、今後この会社をどうしていこうかなんて真剣に考えようなどとはしない。 ボクにとってだけではなく、これから何十年も生きていかなければならない若者にとって、ご年配の方々の経験値から出る言葉は貴重なものであるはず。 しかしそれが期待できない飲み会であるのならば、わざわざプライベートの時間を割いてまで会社の飲み会に参加する価値はない。
若者たち、20代30代の人たちが掲げるべきスローガンを考案するとしたら、あなたはどんな言葉を掲げようと思うだろうか。 「その日その日を無事にやり過ごそう!!」「常に事なきを得ることだけ考えよう!!」「いざとなったら腹を括ろう!!」というものだろうか。 若者たちがご年配の方々と同じことをしていてどうなる? 会社は規模の大小に関係なく、高齢化していくと共にスタミナを失いつつある。 精神力も体力もピークはとっくの昔に過ぎ去っている。 人口減少の影響も相まって、人材の替えが効かなくなってくると、一人当たりの負担も年々増していく。 何もこれは社会保険の増額だけの話ではない。
諦めるわけにはいかない。 会社を存続させようと思うのなら、「次の100年」をどうするか、意志や情熱をすべてそこにぶつけていかなければならないのではないか。 それをベースにすればこそ、これまで大して効果の得られない会社の行事や取り組み、会議といったあらゆる「無駄」をどんどん排除し、業務そのものの密度をベースアップすることが急務であるように思う。 製品一つ、システム一つ、どれだけの人たちの手が加えられ、どれだけの時間が投じられているか、そしてそこにどれだけのコストがかかっているかを、トップから末端の人材まで再認識する必要が出てきているのではないだろうか。 社会的には企業の内部不正が次々と明るみになってきて、不正とは認識しつつも何とか誤魔化してでもやっていかなければならないなんていう意味の分からない言い訳をするようになってしまっている。 パラダイムシフトは、そういう言い訳すべてを問答無用で無視する。
実施したという既成事実が大事なのではなく、結果にコミットさせられているかがポイント。 もし仮に自分の職場に「働きづらさ」「余計なストレス」のようなものを感じているのだとしたら、若者たちはそれを声を大にして訴えなければならない。 残業規制については、おそらく賛否両論あるだろう。 昨今ニュースで問題視されていた過労死やパワハラによる自殺誘発が労災認定されたことを受け、社会的に労働そのものが見直されるようになったことは言うまでもない。 いつもいつも、問題が明るみになってから見直され、法改正が成され、社会はどんどんその形を変えていく。
パラダイムシフトの影響は何も仕事に限った話ではない。 生活全般に影響を及ぼすほどの、言わば脅威。 戦時中には戦時中の思想や価値観が社会に根付いていたに違いない。 しかしそれは、1945年に終戦を迎えることで日本社会は大きな変化を迎えることとなり、同時に思想や価値観も変わってきた。 2000年も20年が過ぎようとする現段階において、社会は新たなフェーズに移り変わろうとしていることが見て取れる。 働くという概念は、いよいよプライベートと融合するようになるというもの。 しかもそれは、これまでのような「縛られた働き方」ではなく、会社化したコミュニティがそこに参加する多くの人たちの生活の基盤となり、自由に働けるといったもの。 今後益々それは試験的にその活動領域を広げていくとボクは見ている。 生きていくにはお金が必要なのは今後も変わらないかもしれないが、お金を稼ぐという意味では何も雇われの身でなければならないということではない、それを提言する人たちが今増えている。
もしかすると、それを可能にするのは「仮想通貨」なのかもしれないとボクは思い始めている。 すでに、ゲーム上で稼いだ仮想通貨を実際のオンラインショッピングで流用することができるようになっているし、考え方によっては、「遊んで稼ぐ」ということが今後益々実現していくのではないかと。 その表現が極端だとするならばこうだ。 【楽しく稼ぐ】という概念が急浮上するようになるかもしれない。 今のお金の稼ぎ方は「働いて稼ぐ」というこれまでの常識の中の常識が一気に崩れ去る時が来る、そんなふうに予感する。 現に仮想通貨の売買によって得た利益で生活をしている人がすでに存在することを考えると、多くの人たちが乗り遅れているのではないかと思えてならない。 ボクもそのうちの一人。 どうにも仮想通貨というものには抵抗感が拭えずにいる。 しかしこれについては、社会にある程度馴染んでからでも遅くはないと思っている。 今はまだ時期尚早。
それに、稼ぐことがメインになってしまい、「楽しく」ということを見失ってしまっては主旨が異なる。 プライベートにおいて楽しくお金を稼ぐために現状から脱するにはリスクが多く、その一歩を踏み出すにはかなりの勇気が要るかもしれない。 今は稼ぐことを考えるよりも、どう楽しむかをメインに考えていくほうがいいかもしれない。 そうすれば楽しむためにどんなふうにお金を稼ぐかが定まってくる。 そんな社会の変化を今はじっくりと観察するのもいい。
想像とは尽きないものだなと、こうして書き続けているといつも思う。 「時は金なり」と言われ続けて今に至る。 時間を大切にしなさい。 お金を大切にしなさい。 その本当の意味が理解されるのは、これからの社会なのかもしれない。 日本にカジノができる。 消費の落ち込んでいる日本にカジノができる。 一体誰が行くのだろうか。 富裕層? 富裕層がお金目当てにカジノに? それは幾分楽しめる場なのかもしれないが、経済効果のみが焦点になっていて、一般市民は蚊帳の外のような産物ではないか。 ボクがイメージするのは、YouTube配信などで働かずに稼ぐ人たちが、さらにカジノで動画配信をして注目を浴びる、そのネタとしてこれ以上ないフィールドになるということ。 そもそも動画撮影を許可するのだろうかという点は最も強固な関門になるかもしれないが(笑)
人々が、これからどんなふうにお金を稼ぐのかは、これまでとは全く別のカタチに変わり、楽しく時間を過ごすようになる。 今はまだほんの一部の人たちだけがそんな生活をしているかもしれないが、かつてのパソコンやインターネットの普及開始当初のように、どこかのタイミングで多くの人たちがそんな生活ができるようになると予測する。 まさかそんな社会になるなんて思ってもみないが、ここ最近のオンラインサロン関連の投稿を見る限り、彼らがどこに向かっているのかがうっすらと見えてくる。 「オレが!私が!これからの社会を生き抜く見本だ!!」と訴えかけているように映る。 それをボクは傍観しているのである。 傍観しつつ、自分の進む生き方をどうしようかとのんびりと考えている。 焦りは全くない。 が、今のままでいいとは少しも思っていない。 過去の経験が全く活かされない畑違いの職場で働きながら、今はプライベートの時間を文章作成に充てつつ、生活そのものをじっくり考える時間にしている。 そういう人は今は珍しくないかもしれない。
派遣業を営む企業が全国に5万社以上も存在していることには度肝を抜かれた。 2016年の派遣市場売上高は「6兆5,798億円」。 リーマンショック以降、売上高は減少傾向にあったものの、2013年に底打ちしてからは年々急激に増加傾向にある。 おそらく、2017年は7兆円、2018年は9兆円と、市場規模を拡大していくことが予想される。 10兆円市場にも伸びる可能性は十分にあるほどおいしい業界なのかもしれないが、派遣社員として働いている側としては旨みはそれほど感じられないだろう。 巷では「ピン跳ね業」などと揶揄されるほど。 だからといって、正社員で働くことが本当に正しい道かどうかは、今後益々危ぶまれる。 そこを目的にしていたのでは、「楽しくお金を稼ぐ」ということからは程遠く、やはり縛られた働き方に留まることになりかねない。
お金は使ってこそ価値が生まれる、そう提言するのはホリエモンこと堀江貴文氏。 確かにそうだなと思える。 お金を貯め続けることで、本来のお金の価値はどんどん下がっていく。 消費が落ち込むことで物価低迷、雇用減少を引き起こすといった景気は悪化の一途を辿る。 お金を増やしながら使い続けることで楽しい生活をする、ということが実現できたなら、景気は爆発的に向上するかもしれない。 波打つ景気、しかしながら、急激な人口減少にはさすがに抗えないように見える。 そういう意味ではとても大変な時期をボクらは生きているのかもしれない。 ただ、お金は使い方次第でその価値を上げも下げもする。 ギャンブルのような捨て銭同然の扱いをしていては、お金はいくらあっても足りない。 カジノ経営は全世界の富裕層のお金で賄えばいい。
一般市民のボクらはそんなところで遊んでいる場合ではないのである。 というより、カジノに行けない人のほうが圧倒的に多いのだから、滑稽な話である。 カジノができることによる恩恵を受けるのは、関連企業で働く人たちだ。 また、カジノによって人生がガラっと変わってしまう人も出てくるかもしれない。 かつてのパチンコ業界の経緯のように。 今年の2月から新規制が介入し、パチンコ業界の市場規模はピーク時30兆円と言われていたのに、いよいよ20兆円まで削られてきている。 パチンコ参加者数もすでに1000万人を割り込み、今年、平成30年では800万人を割り込む見通し。 もちろん、人口減少の影響もあるのだが、もはや過去の産物。 未だにパチンコで無駄に時間を過ごしているのだとしたら、時代遅れも甚だしい。 そういうお金の使い方こそ、パラダイムシフトによって消えていく運命なのである。
しかし、何をして楽しむか、ということは遊びを基準に考えるとそれほど多くはないように思える。 娯楽に類するあらゆる遊びの中で、何が楽しいかはもはや分かりにくくなっていることも現状ではないだろうか。 来客数を伸ばしているUSJやかつてから人気を集めているディズニーランドも、そんなに何度も行って楽しめるほどのものかどうかは怪しい。 ボクは一度も行ったことがないが。 ゲームも楽しいとは思えない。 やればやるほど時間が無駄になっていく。 時間はお金に変えることができるとわかっていながら無駄に時間を過ごすことはナンセンス。 将来を見据えて何をするか、何をしたいか、それを真剣に考える時期はすでに到来している。 それに気付くか否かで、この先の人生も変わると思う。 欲しいものを手に入れる、遊ぶためにお金を使う、そんな時代はもう終わろうとしているのに、それに気付けないのはリスクでしかない。
そうすることでしか、これからの「楽しみ」は見付からないのではないかとボクは気付き始めている。 見渡せば、世間一般の大衆が群がっていることはそう大して楽しいことではないのだ。 そう思えるかどうかで本当に自分がやりたいことが何かを真剣に考えられるようになると思う。 今は強くそんなふうに信じている。 とにかくパソコンに向かって文章を打ち続ける以外、今は考えられない。 "その他大勢"に属さないこと、これこそがまさにパラダイムシフトへの耐性を強化するための鉄則のようでもある。 大衆とは全く別の視点で物事に向き合うことができれば、必要な情報が定まってくるだろうし、今自分がすべきことも自ずと見つかってくる。 ヒマを持てあましているヒマはないのである。
人々に与えられている時間は平等であるのかもしれないが、その中身は全く違う。 無駄に過ごすのか、有効活用できるのかでは、投じられていくお金の価値も変わる。 そして、もっとも肝心な「関わる人間」も変わる。 そうすることで、互いに受ける影響も変わる。 どんな影響を受けたいかは自分で選択することが可能だし、自分が他者へどんな影響を与えるかも自分の意思、それ次第。 表現者、発信者は、例え無名の個人だろうと、これからどんどん影響力を増してくる。 ボクはその一人で在りたい。 表現者の一人として、発信者の一人として、これからも邁進していきたい。
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