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~ボロボロ?( ´△`)あにゃ(笑)~

 皆さぁーん!! どーも、にゃむですよ?(・∀・)にっ♬ なんとか連日更新をと息巻いて必死になっているのはなぜ? そんな、そんなことは聞かないでくれにゃむ・・・。 だって、そんなこと聞かれても答えられるのは【これしかやりたいことがないにゃむ!!】だから(笑) それにね、最近、読んでくれた人たちからのコメントがだんだん増えてきていて、それに応えるのもすごく楽しいにゃむ♬ まだnote初めて一カ月経っていないのに反応が得られているということはやる気を後押ししてくれるにゃむ♬ 本当にいつもありがとうにゃむよ♬ にゃむはこれからもずっと頑張るにゃむ♬

 今回のタイトル画像のキャラクターは・・・一体何にゃむか?(・∀・) どうしてこうなった? え? う〇こ?! 違う違う違うっ!!(# ゚Д゚)シャー!! 誰がう〇こにゃむかっ!! いやしかし待てよ、言われてみれば確かに・・・んなわけあるかーーーっ!! ちっがぁーーーーーうっ!! (# ゚Д゚)シャー!! よくわからないにゃむよ、自分でも(笑) んー、そうにゃむね~、とりあえず「大地の妖精さん」ってことにしとくにゃむ♬ 実際に「う〇こ」に見えたって人はコメント欄で正直に名乗り出るにゃむ!! 未だかつて聞いたことないにゃむ!! う〇ことハートのコラボアートwww もしかしたら、関係性がまったくない二つのモノが同時に存在することで、インスピレーションが掻き立てられるのかもしれないにゃむね? しかし決してこのキャラクターはう〇こではないにゃむ!!(←う〇こはもういいからはよ本題に移れwww)

 では、本題へ(笑) 頭の中で思い出せる記憶というのは、自分が体験したことであったり、特にインパクトのあった出来事くらいで、細かいところまでは覚えていないのではないだろうか。 例えば、誰がいつ何を言った、ということに関しては、ボク自身あまり興味のないことであり、対象の人物次第では全く思い出せない程度のものでしかない。 仮に思い出せたとしても忘れていたのだから大して重要ではないことだと言える。

 ところが、妬みや嫉妬、恨みの他、恥ずかしいなどの感情は、些細なことでもそれらを忘れさせることをしない。 そうした感情が強ければ強いほど、記憶はどんどん悪いほうに塗り変えられていく。 過去の記憶に囚われて今を生きているのだとしたら、すぐにでもそこから抜け出さないといけない。 決してこの先の人生にプラスの要素であるとは言い難い。 憎悪という感情は、それを捨て去ることができなければ、今の自分に悪影響を及ぼし続けることになるし、過去の恥ずかしい思いを今に引きずっているのだとしたら、その殻を破らない限り、恥ずかしい過去は恥ずかしい過去のままに。 一刻も早く忘れたほうがいい。

 ボクはね、他人の過去を詮索するようなマネをする人間には興味がないんだ。 そういう人間は、ただ相手の過去を知りたいだけではなく、自分の過去と比較して相手が格上か格下かを計る基準にしたいのである。 価値観の相違であるとするならばそういう人間がいても不思議はない。 でも、ボクは心底面倒な相手だと認識する。 過去何人と付き合ったか、何人と寝たか、そんな話になろうものならツバでも吐いてその場を立ち去りたくなるほど興味がない。 そんなもので計られたのではまともに向き合うことなど適わない。

 これに加えて言えることは、学歴である。 例えば大卒の場合だと、大学のネームバリューを自身のステータスにしている人物は大方過信が見受けられるものの、実体はそうでもない。 企業が学歴不問を叫び出してからというもの、如何に学歴が無意味であるかが社会的に認知され始めたことの証である。 今年の新卒採用率が98%という異常事態から今後数年で企業がやることと言ったら、おそらくは人材の選別作業だろう。 楽することばかり考えて一向に成長が見られない、そういう人材は適材適所、相応の職場に振り分けられることになる。 その際、学歴などといった無意味な経歴を頼りにすることはなく、実績のみが評価の基準とされる。 「あなたは何ができますか?」が最も重視される。

 ボク自身がどうあろうと他人には関係ないことだし、それに、他人がどうなろうとボクには関係ないことである。 常に今をどうするかによって、今後が変わってくるわけであって、過去の学歴が現在において必ずしも自身を優位にするものではないし、評価というものは学歴が中卒や高卒でもその後積み上げた実績によって上りもするし下がりもする。 いくら高学歴でも楽をしたがる人間の手助けなど誰が好んでするものかと思ってしまう。 面倒な作業を押し付けたがる人間の頼み事は、バッサリと断るに限る。 そういう人間は人を人として見ていないし、人としての扱い方をわかっていない。

 世の中で承認基準の対象になっているあらゆる資格に目を向けてみればわかる。 身近なところで言うと、自動車免許が一般的に普及しているもの。 18歳を超えると免許の取得資格が生まれるが、教習を受けて学科と実地の両方の試験を受けて免許証が交付されても、加害事故を起こす人間は事故を起こす要素を持っているんだよね、いつも。 毎度毎度、加害事故を起こす人間が単なるウッカリだけな訳がない。 そういう性質の人間だということだ。  それに、事故だけではない。 道路交通法に定められているあらゆる項目に違反して罰金を課せられる人間は、そもそも自動車を運転するということを軽んじている

 違反をすれば、交付されてから3年後の免許更新時に2時間の講習を受けなければならないし、それからさらに5年間、無事故無違反ならばゴールド免許に切り替わるわけだが、残念ながら、自動車を運転するということをナメて認識している人間は、事故を起こしたり違反したりする要因を持ち続けているため、ゴールド免許を生きているうちに手にすることはない。 免許を取得して3年以降、ずっとブルー免許である人間は、そのことを恥ずかしいと思わなければならない。  法というものは、それが判断するもの全てが常に正しいとは限らない不確実なものではあるものの、道路交通法に関しては漏れがないように思える。 俗に「ネズミ捕り」と言われる取り締まりは、違反する運転者が後を絶たないからやらざるを得ないだけであって、警察に対して文句を言うのは筋違いというもの。

 大学時代の思い出を一つご紹介する。 そんなボクも若い頃、原付で一度、警察に止められたことがある。 その日の講義が終わって帰る時のこと。 信号のないT字路の交差点で、一時停止線で止まらずに左折をしたのである。 その瞬間、サイドミラーにパトカーのランプ点灯が映った。 状況は以下の通りである。

 この図のパトカーが止まっているあたりは、道路が開通する予定地となっていた。 民家でパトカーがスッポリと隠れていたために、警察がいることを知らずに止まることなく曲がったのである。 「あ・・・」と思い、ボクは曲がって数メートル先にあるバス停のスペースに原付を止めて、パトカーが来るのを待った。 ボクは止まらなければいけないことを知っていて停止線を無視したため、素直にすみませんと謝ったのである。 すると、中年くらいの警察官の開口一番はこうだった。 「キミ偉いね!ダメだってわかってたんだね?」 一瞬何が偉いのかわからなかったが、つまり、警察が取り締まっていることに対して素直に従ったことが功を奏し、警察官はうれしかったのだと言う。 そして、本来ならば減点されるところ、注意のみで済み、胸を撫で下ろして帰宅したのである。

 ボクはイイ子を演じたのではなく、原付で逃げたってパトカーに勝てるわけがないし、下手に逃げれば別の疑いをかけられて厄介なことになる、そんなことくらいはわかっていたので、抵抗することを考えなかっただけである。 まさかこんな展開になるとは思いもよらず、社会人としての健全性に対して警察というのは真摯な対応をする、少なくともあの警察官はそうだったと思えた。 一時停止を無視したことがあるという過去よりも、素直に従ったことで警察官が許してくれたという過去としてボクの記憶に刻まれたのである。

 警察密着24時なんかを見ていて思うのは、抵抗をしたり嘘をついたりして警務を妨害するようなことをすれば、警察官というのは牙を剥くのだなということ。 あの時の経験以来、ボクは警察のお世話になったことは一度もない。 基本的におとなしい性格でありながら、最悪の事態を想定すると恐ろしくビビる性格でもある(笑) ボクに悪は似合わないということが心底わかった瞬間だったのだ。 

 教員免許はどうだろうか。 20代30代の若い教師が良からぬ騒動を起こして逮捕され、懲戒解雇処分を受けるというニュースは1度や2度ではない。 しかも、報道されたニュース自体が真相を語っているとも限らない。 事実はもっと別の状況でありながらも、生徒にハメられた教師もいたのではないだろうか。 教職員が長続きしないことにより不足しているということが、必ずしも免許取得者側に不足があるわけではない。 資格は、国が定めた基準を満たす者というだけであって、本人の資質や人格を問うものではない。 これほど不確定要素の多いものがなぜ国の基準になっているのかがわからない。

 それとは違い、技能系の資格というのは本物であると言える。 これぞまさにできるかできないか、わかっているかわかっていないかをハッキリと明確にするものだからだ。 でも、これを悪用しようと思えば、資格保持者だからこそできることだってあるため、そもそも資格というものに確実性などないとボクは考えている。 それに、就職する時のチャンスの幅や業務そのものの幅は広がるかもしれないが、資格というのは持てば持つほど背負わされる責任が積み上がっていく。 果たして、資格というものが本当に人生を豊かにしてくれるものかどうかは正直怪しい。 また、これによって嫌な思い出を残すことだって十分にあり得る。 リスクが高い種類の資格であればなおさらのこと。

 人よりもイヤな思い出が多いということは、他の誰でもない、自分の選択が正しかったとは言えない過去が多いということに等しい。 自分の過去を誰かのせいにしてたんじゃキリがない。 そういう考え方は、さらに嫌な思い出を残しかねない。

 自身が歩いた軌跡を思い返した時に、あの頃経験したことが今に繋がっていると思えるようでありたい。 どんな失敗も、どんな成功も、すべて。 自分の思い出は、他者に自慢したり同情を誘うために話したりするためのものではないとボクは思う。 経験談ならば、誰かの糧になるものだけをピックアップして語れば、その都度「過去が活きる」。 自分の過去を嘆き悲しんだり、他者の過去を見下したり笑ったりするために過去があるんじゃない。 思い出は美しくなければならない、そのための「今」だ。

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