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【Chapter4】エヴァンゲリヲン×価値観/Part1

 もしこの世界に神が存在するならば、なぜ神は悪の存在を許したのかわかります??人間どもが神を崇拝している理由を、神自身も理解していないかもしれませんね?ただこれは、宗教批判ではなく、素朴な疑問です。

Part1:価値観というATフィールド

 皆さんの周りに、こんなことを声高に言う人いませんか?(・∀・)

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 この言葉は、ほとんどの場合、言い合いをしている人たちの仲裁に入る人が言う言葉。超抽象論で煙に巻いて口喧嘩の腰を折るだけで、何も解決していないのがよくわかりますね。

 「別にいいじゃん」という状況ではなく、お互いに譲れない部分があるから言い合いになってるんですよね。どういう立ち位置から物申しているのかよくわからない民ですね。ほぼ他人事です。別にいいじゃんと思っている人間による仲裁ほど何の効力もないって話です。

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 この言葉を言う人の状況は、被害妄想から言う場合と、相手の理詰めに対して言い返せなくなって苦し紛れに言う時のセリフのどちらかです。常套句は大抵コレですね。

 どちらの言葉も、大した意味はないのに、あまりにこれを口に出して言う人が増えたのはなぜなのでしょうね。むしろ、異常です。

 言語化能力はそれこそ「人それぞれ」差はあるのでしょうけれども、「考え方は人それぞれ」とか「価値観を押し付けるな」とか、これに代わる表現ができないものなんでしょうか。ウンザリするほど聞き飽きました。

 口癖を口癖のまま放置すると、いちいちそれに代わる思考の言語化が面倒になり、日頃から怠るようになります。

※ここで、今回とは全く関係のないワードが脳内に流れたので( ..)φメモメモ:#当たり前の現在地 いやー、シンプルなのにイメージ湧く。次回はこれにしようかな。そう、文章を書いていると、日本語のフレーズ、英単語(=浮かんだ単語のサウンドとスペルと意味は大体合っている)が浮かんでくることがある。なんだろうね、これ。たまに起こる現象。

 頭が良いとか悪いとかは全く関係なくて、ただ、「自分の言葉で話す」ということがいつの間にか難しいと感じるようになっているのかもしれません。

 新劇場版「シン・エヴァンゲリヲン」が現在大ヒット公開中ですね?エヴァシリーズではお馴染みの「ATフィールド」の意味はもうご存じかもしれませんが、一応記載しておきます。

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 あー、思えばボクは一歩家の外に出たら帰宅するまでATフィールド全開だったんだなぁ(笑)そりゃー人も寄って来ませんよね(笑)でも、これがボクにとっての外面です(笑)愛想は必要な時しか振り撒きません。客相手の時くらいですかね。

 いつの時代の人たちも、この「価値観というATフィールド」を、他者から、もしくは他国から身を守るためにフィールドオープンしてきたのかもしれません。

 価値観が他者とかち合えば、熱を帯びて大小様々な争いや衝突が生まれます。時には傷つけ合い、血を流し、誰かが犠牲を払うこともあります。

 歴史は繰り返すと言われる真の所以は、人々の価値観の相違により、自然発生的に生じる摩擦熱が、人間社会における争いや衝突へと可視化されるのだと考えられます。

 そう考えると、「価値観を押し付けないでください。だって考え方は人それぞれなんですから。」と言いたくなる気持ちもわからなくはない気がします。

 ただ、エヴァンゲリヲンの作品の中で、初号機が使徒のATフィールドを破ってコアを破壊するという光景は見たまんまであれば明らかに「正当な防衛のための攻撃」と見て取れますが、交渉や対話ができる人と人との間に生じるATフィールド(=心の壁)はそれ次第で打ち消すことも可能なものでもあります。

 ここで言うATフィールドとは、「価値観を押し付けられた」と感じた人が展開する拒絶を意味する壁のことを指します。

 鬼滅の刃では竈門炭治郎が、涙を流しながら消えゆく鬼の悲しみや苦しみの重さに対し、炭治郎もまた鬼のために涙を流すシーンが描かれています。鬼の鬼であることの苦しみを察した炭治郎は、「俺は踏みつけにしたりしない!元は同じ人間だったんだから!」と。

 呪術廻戦でも同様に、真人に呪霊にされた人々と戦わなければならない虎杖が見せる表情は、悲しさがにじみ出ています。虎杖は「せめて自分の知っている人たちくらいは正しく死んでほしい」と願っていた人物ですが、それすら叶わないこともあるのだと思い知らされ、虎杖は葛藤します。

 日本アニメ・マンガが全世界でもトップクラスの人気を誇っているのは、作品の内容にこれまであまり重視されてこなかったであろう多くの気付きが刻み込まれているからにほかならないのです。

拒絶するのも、
否定するのも、
敵視するのも、
批判するのも、
袋叩きにするのも、
吊るし上げて晒すのも、

 リアルでもインターネットでももう十分にし尽くしたと思いませんか?

 まだ続けるつもりですかね、こういう不毛なことを。せっかく素晴らしい作品が数多く発せられているのに、まだまだ現代人はその辺に気付いていないように見受けられます。その点がすごく残念です。

 でも、一つ疑問が残りますね。そう、素晴らしい作品だけではない、ということです。サスペンスドラマを、名探偵コナンを、テロ系映画を、ずっと世界中に発信し続けているのはなんでなんでしょう。なんでだと思います?

 犯罪やら事件やらを誘発するために模倣犯を存続させようとでもしているんですかね?いや、警察やら公安、裁判所で働く検察官や裁判官や弁護士、彼らは国の治安維持のために日々尽力しておられると思います。

 しかし、模倣犯を誘発するような表現を自由とするのは必ずしもそれが社会のためになっているとも限らないのではないかと思うのです。どこかこう、敢えて悪という存在と共存するように仕向けられているような気がします。

 そして、数々の作品が、「悪の価値観は決して無視すべきものではない」ということを暗に訴えかけているのではないかと気付かされるのです。ただ決して、悪は社会に必要だなどといった極端なことを言って擁護する気は毛頭ございません。

 シンプルに、悪の存在とその進化が無かったら、治安維持や防犯、犯罪捜査などといった各分野における進化もなかったのではないかということは容易に想像がつくところです。

 僕たちが生きているこの人間社会は、法だ規則だルールだといろいろと張り巡らされていますが、そのせいで「悪は断罪されるべきだ」といった偏った思想を持ってしまう、またはそうした思想を信じてしまう人たちを生んでしまうのかもしれません。

 価値観は誇示すれば争いや衝突の摩擦熱を生み出すだけで、人々のためになるようなことは何も生まないのだと僕たちは気付く必要があるのかもしれません。

※次回、Chapter4Part2、お楽しみに!(・∀・)

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